眠れない夜はペンギン
それはあまりにも『当たり前』であえて言葉にするのもはばかられてしまうような真理なのだけど……。
つまり、世の中というものは、それを認識する受容体によってその美醜や骨格をいかようにも変えてしまう。ことがある。
ある人からすると時代はどんどん清く美しく進歩する。そういう進歩が、ある人には化学薬品の劇臭に代表される、というようなこと。あるいは色鮮やかな花壇だって雄大な青天だって、それをそのまま受け取れない人がいる。労働に酷使された目にはおしなべて退廃色であったり、など。
そして、あらゆることが効率という名のもとに規格化されてゆき、日々のパフォーマンスを日々更新し続けることが命題だとする社会を、基盤とマイクロチップで構成された働きアリの王国にしか喩えられない種類の人もまた。
特定のアルゴリズムによって毎朝決まった時間にブートし、毎日決められた時間だけスターティング・アップし、そして毎日決まった時間にシャット・ダウンする機械仕掛けのアリたちを、彼女は手放しに尊敬するし、他方で侮蔑混じりの恐ろしさを感じたりもする。
同じ人間だと思えばこそバグを発生させない精緻なプログラムの出来映えに感心する、けど、同じ人間だと思えばこそ、なぜ個体ごとにスパゲティ・コードのような特異性を表さないのか? に猜疑心をも膨らませてしまう。
彼女自身はいうまでもなく後者の属性だ。それも、極端に属性色の強いとこにいる。
つまり
だから生きる術としての職掌もはっきりしない。なにか文章を軸に活動してることだけは確からしいけど、一つの肩書には固定されない。
性格も気分屋で一貫性に欠いている。
たとえば急に色の興味に目覚めて緑色系統のTシャツを七枚揃えてローテーションで一週間を過ごしているうちは(この時点で十分変人なんだけど)、
「世の中で緑色が一番好き!」とうそぶく。
のが、段々襟口がへたってくると、次にはなぜか紫色をチョイスして、
「ノー・パープル・ノー・ライフ!」とあっさり宗旨変えをする。
(いや。あくまでたとえではあるけれど。)
イレギュラーというより、もしかすると信用ならない部類の人間かもしれない。だけどそういうカノの最も信じてならないのは『明日の予定』だ。
あなたはカノの親友で、翌日にショッピングかなにか、デートの約束を取り付けた。とする。それもカノの方から誘ってきた。とする。
「お昼すぎに現地集合で!」
それなのに所定の時間、所定の待ち合わせ場所を見回してもカノが居ない。ことがある。ラインを送信しても、未読ばかりが積み上がってく。そうしてすっかり空がキャロライナ・リーパーのような怒りの色を示す時刻になって「おはよう」と返ってくる。
もちろん実際には、そうなる前にカノの方から適切な処置を取ってくる。けれども要するにカノは常にこういう危険を日々に孕ませてる。
そうなる原因は、仕事の手が止まらなかった、とか、寝る前にうっかり映画にのめり込んじゃった、とか、しかもそれで「すっかり目が覚めちゃった」とか、些細なことばっかりだ。逆にいえば些細な物事に流されやすい性質といえる。だから機械仕掛けの働きアリに、驚く。
で。こういう人物が、さて世間一般に定義する『規則正しい生活』なんてのを、まさしく、ただしく、送ることができるだろか?
無理に決まってる。天井と地下がループ構造になったビルディングで「就寝時間」という名のエレベーターが無限の上下運動を繰り返す。夜型。朝型。ときに昼下がり型。
更にこのエレベーターの最も厄介なのは、誰も扉の開く階を事前には計算できないことだ。
よくある数式問題のような、
「一日にx時間だけずれたときy日後にはどの階に……」
という正確な規則性を、このエレベーターは持っていない。梅雨どきにはカノは毎日8等分したホールケーキの6ピース分の惰眠を貪ったりもする。
「一日の長さはその日によって違う」
「それは起きてる時間がまちまちだから」
「そうじゃなくて、朝の4時くらいに目を覚ますと、なんだか一日があっという間なの。でも夕方から夜にかけて起きてるときは、それよりは長く感じる」
「体感的なこと?」
「たとえば陽が差してるかどうかにもよるのかもしれない」とカノは言う。「外が明るいと、私は時間の流れを早く感じてしまうのかも」
「だから夕方に目を覚ますと長く感じる」
「陽を見なくて済むからね」
「でも、あくまでカノンにだけ当てはまる理屈でしょ?」
「私にだって当てはまってるかどうかわかんない。それは今のところの観測の結果の答え。途中結論」
「途中結論」
「ただ、本当に、眠らない夜は長く感じる。本質的に夜の方が好きなのかもね」
ところで。
一般的には(あくまで一般的には)夜型とカテゴライズされるカノだけど、そういう定義はなにを軸に決定づけられるんだろか?
もしも起床した時間から夜行性か昼行性かみたいなことが判断されるのだとしたら、カノには、まるで分類しかねる、ある特定の時期がある。いわばそれは梅雨時の現象とは対極の、揺り戻しのような日々なのだけれども……。
不定期だけど一年のうちに必ず何度かやってくる、一睡もできない苦悩の日々。
なぜそうなるのか?
原因を探っているときに、ふっと空を見上げてカノは気がついた。
巨大なまんまるが常にそこにある。夜には黄色く、昼には青白く。カノが不眠のときは必ず満月が浮かんでる、し、その美しい丸はカノが再び眠りに就くまで欠けることがない。
満ちて張り詰めたままでいる。何日でも。
「好意的に解釈すれば」とカレは言う。「光の屈折だとか天体の位置関係によって、一年のうちに何回か、人間の目には何日も満月が続いてるように感じられる日々がある……のかもしれない」
「私の不眠はその錯覚現象と時期をリンクさせている」
「そういう錯覚が起こされるとき、脳はなにかを感知してるのかも」
「あるいは私だけがその錯覚に陥ってる」
「だとしても結局は脳の問題に帰結する。いちど精密検査を受けてみるつもりは?」
「ないよ。まかり違って薬漬けになったら困る」
「治るなら、それでも」
「治ったら私が私じゃなくなる」
とは言い条。これで五日目だ。
ため息が漏る。五日間ただの一睡もしていない(ほんとはごく短い時間意識を失ってるけどカノは自覚してない)。
「大丈夫、今までに不眠が原因で亡くなった人はいないから」
カレは気休めに肩を叩いてやった。
その手を優しく振りほどいて、すぐさまカノが答える。
「この手の話でよく口に上るのは、1965年にアメリカの高校生、ランディ・ガードナーくんが打ち立てた二六四時間十二分の不眠記録。彼は日数にして約十一日ものあいだ一睡もしなかった。挑戦を終えたのちも良好な健康状態を示して、不眠による後遺症の有無を証明してみせた」
「君のほうが詳しいか」とカレは苦笑する。
「異説もあって、のちに睡眠障害に苦しんだという噂もある」
「それは初耳だけれども」
「ま、でも、大丈夫だよ。最悪でも命を落とすまではいかない」
でもどうせなら、私も機械仕掛けのアリとおんなじ頭を手に入れたかった。とカノは思う。
決して数列を変動させることのない、黄金率のようなプログラム、によって私も安定と秩序を手に入れられたなら。
や。だけどそうすると、そうか。その場合、私が私でなくなる代償を、結局払う羽目になってしまうのか。ああ。世の中はなんてうまくいかないんだろう。いいや、なんてうまい具合に作られてるんだろう。
「端的にいって、眠れない夜は頭が回らない。というのは、眠れないだけで常に眠くはあるんだよ」とカノは言う。「だからそういうときは、ぼんやり月を眺めるか、世界中のペンギンの数をかぞえるか、そんな虚しいことにしか時間を費やせない。焦りはしない、けど、早くいつもの頭に戻りたいとは、強く願う」
「いつもと同じだよ」とカレは言う。「目的のない僕たちの人生はいつだって虚しい」
「かもしれないけれど」
「君は言葉で示すよりも実は焦ってるんだ。なにも悩まなくていいよ」
カノはしばらく考えてから、返事を保留した。
そのうちにリビングに一人きりになる。仕方ない。カレにはカレのプログラムがある。カレはどちらかといえば機械仕掛けのアリに属する人だ。(私とは違う、とカノは思う。)
ソファに寝転がって、あごを天にしゃくりながら上下逆さまの月を見る。月の表面は昼夜によって300度もの温度差を生むという。最高気温は100度を超えるとも。そして夜には氷点下200度近くになる。ほとんど絶対零度の世界だ。ウサギは暮らせない。ペンギンも。それをニール・アームストロングとエドウィン・オルドリンは人類初の偉業のために強靭に耐え抜いた。
偉大なる一歩……ジャイアント・リープを成し遂げた彼らは、一体その滞在期間中なにを感じ、なにを思ってたんだろか。
ある言葉が存在する。『人は言葉を獲得したことによって理解を失った』。そうかもしれない。
「私たちは言葉によって歩み寄ることを可能にするけれど感覚・知覚・感情を共有するところまでは言葉をもっては寄り添えない」
だから私は返事を保留した、とカノはまぶたの裏に月を描きながら思う。
「ねえカレンくん。私は本当に焦ってもないし悩んでもないんだよ」と小さくひとりごちる。「と、説明しても、君は機械アリだからそれでもきっと色んなことを考慮する。『精神不安』、『疲労不足』、『交感神経作用』……あるいはもっと多くの言葉を用いて私に矯正を試みようとする。どこかに答えがある、と、心のどこかで信じてる」
ないんだよ。そんなの。それは私だからわかる。私の肉体のことは私しかわからない。感覚のことも。知覚のことも。感情のことも。
眠れない夜をいくら言葉で埋め尽くしても無意味だ。何晩続けても分かち合えない。
そっとペンギンを数える。
「ねえ。私の好きな映画にね」とカノは言う。
「それはどんなセリフ?」とカレが言う。
『Stand Up Guys』、と、カノはまず原題を挙げる。それから口にする。
「深夜のレストランで働くウェイトレスのセリフ。『夜は寝ないわ。一人で起きてると実感するの。生きてると』。」
「今度みせてよ、その映画」
「うん」とカノは残念そうに言う。
人はどう努力しても一人では生きてけない。けど、人と触れ合い、対話を重ねることだけが生の本質というわけでもない。夜の静寂に言葉の外から他者を直感する、理解する――そんなアプローチの方が、返って生きることの本質に近づくようなこともある。
言葉には限界がある。そんなの言うまでもないことだけれども。
「どうしてやるせないの?」
「だってあんまりにも夜が強烈だから」
それは何かが摩滅してしまいそうなほど心細い声だった。
「大丈夫。今日は僕がいる」
***
相変わらず空には月が座している。
かつてこの途方もない距離の涯てに二人の人物が立っていた、なんて、どれだけ想像しても信じられるものじゃない。だって602号室のことさえわからないのに。
だから諦めてペンギンの数をかぞえる。
この五日間でとんでもない頭数のペンギンが世界中に散らばっていることがわかった。26万2085羽……26万2086羽……それでもまだ先は長い。
だけど26万2144に達したときに突然、カチリ、となにかが鳴った。
再び見上げた黄色い月が、右側を少しだけいびつにさせてるように、見えた。光が外側にぼんやり膨らんでいて正確にはわからない。でも欠けている。
とうとう満月が終わった。
カノは微笑んだ。と、その瞬間、なんだか崇高で清廉で美しい、この世界の完全解のような考えがひらめいた。けど、同時に五日間の反動が一気に押し寄せた。
抗いきれない。
『ああ。この結晶を記録しておかないと……!』
眠りに落ちたら永遠に見失うことはわかってる。でも。
機会は二度と訪れない。
まぶたが落ちる。さあ。おやすみなさい。
機会は二度と訪れない。
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