鶏の思い出

「実家でさ、鶏、飼ってたんだよね」

 午後、彼女が唐突に言った。

「ニワトリを?」と彼は頬杖をつきながら返事する。

「そう。昔ね」

 テレビのモニターがコッコッコッコッとかまびすしい。彼女がこんなことを言い出したのもそこに理由が集約されている。

 日本全国の、どこか『地方』っぽい香りのする地所をタレントにぶらぶら歩かせて、その土地の特産とか名物とか、そういった特色を(彼女いわく、さも自然な流れで)紹介する(テイの)旅番組――

 今週は鶏肉料理で有名な県の特集で、まさにいまテレビクルーが養鶏農家に取材許可を得ているところだった。参考映像として映し出される施設では、チャボや烏骨鶏やレグホーンといった品種が小屋ごとに棲み分けされて、様々飼育されている。

 ココココココココ。とにかく騒々しい。

 音量が3つ下げられる。

「君の実家、住宅街のど真ん中だよね」

「引っ越してからはね」

「へえ」と彼は言う。

 彼も彼女も番組の内容に興味はなかった。流動的な映像を眺めていれば、それでいくらかは暇つぶしになる。退屈のトーストに退屈のバターを塗りたくるようなものだ。ないよりはまし。

 だから彼は訊いた。「飼ってて、どうしたの?」

「単に飼ってたって話」

「それだけ?」

「聞きたい?」

「なにを」

「飼ってたときのエピソード」

「そういう流れだと思ったけど」

「だよね」と彼女は言う。「面白くないけど、いい?」

「聞き終わってから考えるよ」

 彼女は退屈そうに微笑んだ。それから次のとおりに始めた。

「それまで動物なんか一切飼ったことなかったんだけど、私が幼稚園の年長さんくらいのときだったかな、父親が、突然ニワトリを飼うって宣言して」

 どうも父親は、森鴎外の短編のなんとかいう作品に影響されて、そういう決断をしたらしい。(彼女も成長してから読んだけど題名は忘れてしまった。九州で借家ぐらしをすることになった元軍人がどうのこうのという物語だ)。

 当初母親は鶏を飼うことに反対してた、けど、「毎日新鮮な卵を朝食に」のキャッチフレーズにとうとう骨抜きにされまして。

 そっからは早かった。小屋も寝床の藁も餌も、あっけなく揃ったし、肝心の本体も(最初は三羽だったかな?)小屋の次の日には父親が連れてきた。食肉用じゃなくて、しっかり卵用種のコッコちゃん。

 で、それから我が家では、慎ましやかながら畜産業が、一応、始まった。まあ家庭菜園の養鶏版って程度だっだけど、それでも最終的には交配用のオス含めて、十羽くらい飼ってたかな。

「卵は一日に3つか4つ取れた。調子がいいと家族全員に行き渡って、残念な日は父親の分がなくなる」

「お父さん可哀想」

「世話の全権は父親が負ってたのにね」

「ますます不憫だね」と彼は肩をすくめる。

 だけど不憫ということなら、最後の世話こそ不憫だった。生き物を扱う上で、いつかは必ずやってくる、看取りの瞬間のこと。

「一応さ、趣味の範疇ではあったけど、それでもペットとは違うんだよ。だから老衰まで見守ってあげるというような生易しい接し方はしてあげられない。それなりに老いてきたら――卵の出が悪くなってきたら――生かしておいてもエサ代の無駄になる。だからそうなったとき、決断しなくっちゃいけない」

「決断というのはつまり」

「そ。仕留めるんだよ。自らの手で」

「それも君のお父さんが?」

「そう」

「あのお父さんが?」と彼は言った。彼女は彼の驚きを包み込むようにうなずいた。

「うちの父親、あんな性格でしょ。だから困っちゃって。文字通り虫も殺せない人なのに」

「でもニワトリはシメたわけだ?」

「首を掴んで、こきゅ」

「想像できないね」

「父親も想像してなかったみたいよ、つまり実際にその時期がやってくるまでは」

「飼うときにそこまで考えてなかったの?」

「なかったの」

「なんというか」

「ここがアレなの」と彼女はこめかみを指でねじりながら言った。「でもさ、頑張ったんだよ。本当に自分で処理したんだから。首を絞めて、それから羽をむしって、包丁で切り落として。首だよ首。ストンって」

「ちょっと待って」

「あなただって食べるでしょ、鶏肉」

「個人でそこまでやる?」

「やったんだよ」と彼女は大きくうべなった。「母親もさ、台所の包丁は使わせたくなかったみたいで、わざわざ新しいやつ買って来させたんだよね。捌くの専用の、ぎらんと煌めく中華包丁」

「君、結構すごい体験してるよね」

「私ならトラウマになりそう」

「君の話だよ」

「やったのは父親。私は終わるまで自分の部屋に逃げてた」と彼女は言う。「で、その日の晩ごはんは鍋料理。白菜と、大根と、あとなんだったっけな。そしてメインに鶏のぶつ切り」

「ぶつ切りっていうと、当然骨までついてる……」

「生々しい鮮血つきの、あれ」と彼女はうなずく。「鍋の中に入ってるのはすっかり火が通ってたけど、追加用のボウルが、あるんだよね、食卓の脇に。で、そっちには痕跡があるわけだ。そいつがほんの一時間前まで呼吸をしてた、拭い難い明らかな痕跡が」

「君たちはそれを食道に流し込んだ」

「そうだよ。みんな泣き出したいのを我慢してね。や、実際に父親は泣いていた。私も、泣いてた、かもしれない。でもね、そりゃそうなんだよ。だって、昨日までデイジー、デイジーって呼んで、あんなに可愛がってたのに」

「デイジー?」

「もらってきたときに、名前をつけたほうがいい、って教わったらしいんだ」

「じゃなくって。デイジー?」

「ほら、ニワトリだから。メスだから」

「あいつアヒルだと思うけど」

「……そう」と彼女は鈍くうなずいた。「後から気づいたの」

 普通は家畜に名前をつけることはない、らしいけど、ウチのは卵が目当てで屠殺するつもりなんてなかったし、父親は昔から素直に人の助言を聞き入れる人だ。

「私たちはちょっと特殊な農家さんのアドバイスに従ってあの子をデイジーと名付けたのかもしれない」、そして、「結局そのことはデイジーのあとにも慣習化された」

 彼女は続ける。

「でもそれで良かったと思う。デイジーは私たちに自由を奪われて、私たちのために卵を産み続けて、もしかすると私たちを恨みながら息を引き取った。そういう命の尊厳みたいなことを十分に理解するためには、名前を与えて、その血肉を泣きながらでも胃に流し込む必要があったんだ」

「いわゆる、食育というような」と彼は遠慮がちに言った。

「今の言葉に直せばね。当時はそんな概念も浸透してなかったから、私たちの理解といえば、ただただ恐怖と憐憫の支配下のことでしかなかったよ」

「第一さぞ異常な光景だったろうね」

「実際異常だった。回覧板持ってきたお隣さんだってビックリしてたもん」

「真っ赤に泣き腫らしながら鍋つついてるんでしょ。僕ならそんな場面に鉢合わせたくないよ」

「どうぞどうぞ、これうちのデイジーです、思ったより多く採れたので、おすそ分けに。活きの良いうちに、お夕飯にでも」

 笑いがひきつる。彼は身振りで先を促した。

「それからというもの、我が家では定期的にお葬式が開かれることになりまして」と彼女は合図に従って続ける。「流石に羽をむしったり捌いたりするのは、近くの精肉店に任せることになったけど」

「つまり中華包丁は一度しか使われなかった」

「無難にね。でも食卓の雰囲気は相変わらず。や、そっちも流石に、二回目ともなると泣き出すまでには達しなかったけど、それでもお葬式ってくらいだから、みんなして手を合わせて、ピングー、ピングー、ってね」

「ピングー?」と彼は言う。「今度はペンギン?」

「鳥ならなんでもいいやって」

「なら、つば九郎やねじまき鳥もいた」

「いたかもね」と彼女は適当に相槌を打った。「少なくとも我が家では何度もニワトリたちのお葬式が開かれた。そして回を重ねるごとに、その様相はどんどんリアルさを帯びてった。

 というのは泣き出したりするのはまだ新鮮な場合に限るんだよ、慣れてくると一連の様式も黙々と処理されるようになる。もっと鈍化すると、次第に雰囲気でわかるようになってくる。『あ、今日はお葬式の日だな』って。そして実際にその通りになる。特有の臭いがするっていうか、とにかくそういう感じがして、玄関の戸を開けると、すぐに気づいてしまう」

「虫の知らせというか」

「まあ直感だろうね」と彼女はうなずく。「でもね、私たちがそういうことを感じ始めた頃に、父親はぱったりと養鶏をやめちゃった」

「それは偶然にではなく意図的に?」

「そう。私たちの変化を良くないと感じたらしいの」

「ちょっとわからないな。お父さんはどんな説明を?」

「何年か経ってから、あの人はこう言った」

 ――僕にしても最初は単なる思いつきだった。勝手な思いつきで鶏を飼い始めて、狭い小屋に押し込めるような生活を、彼らに強いたんだ。そうすることで僕たちは恩恵を得た。毎朝採れたての生卵を授けてもらった。でも鶏たちにその見返りを贈るようなことはなかったね。例えばたまに高級な餌を混ぜてやるようなことは、しなかったろう? なぜって当たり前だ、それならスーパーで卵を買ってきた方が安上がりになってしまう。それなら鶏を飼う意味がない。本末転倒だ。だから僕は彼らに対して、ある意味で厳しい態度をとった。我が家の経済状況上、取らざるをえなかった。

 こういうことは家畜にしても愛玩動物にしても同じだ。結局は僕たち人間の打算的かつ利己的な欲求によって、彼らの自由意思を奪ってる。ただ、僕はそれを悪いとは思わない。仮に悪意ある行為だとしても、許されるべき範囲だと思ってる。僕自身がそう思いたかっただけかもしれない。ただし、当事者でありながら「許されるべき」と信じたいのなら、義務と義理の履行が欠かせない、とも考えた。こういう考えが芽生えるに従って、徐々に鶏の飼育は、僕の単なる思いつきではなくなっていった。それよりも意味のある一つの行為に転化していった。

 君たちはデイジーを屠殺したときに、もうこんなのは嫌だ、これっきりにしてくれと泣いて頼んできたね。ピングーのときには、せめて庭に埋葬したらどうかとも提案してきた。僕はその訴えを2つとも退けた。それは、そんな楽に済ませてしまう態度では、鶏たちに筋を通せなかったからだ。

 ずっと彼らの生活の自由を奪ってきた僕らなんだから、最後の最後まで彼らの生殺与奪の権利を握りしめて、彼らの命に一貫して責任を持つのが、僕らの義務だった。僕はそう考えていた。そして庭には埋葬せずにその命を栄養源として召すことも、これは彼らの生命を食物連鎖の循環の内側に留めてやるための、生命倫理に対する義理だった。彼らの遺骸を土に返しても、そりゃ、土壌は豊かになって野草は生い茂るだろうけど、そういう、自然のなるがままに委ねきってしまうような態度は、義理とは言えないと感じたんだ。その方面で義理を通すなら、土壌に種を播いて、野菜や果実を収穫するようなところまでやらないと。でも僕はそこまでは手が回らなかった。

 だから鶏を屠殺した日のことを、君たちが陰で『お葬式』と呼んでいたことは、僕にとっても実に都合がよかったんだよ。その言葉には命の尊厳が含まれている。君たちは鶏の命を畏怖し、敬愛し、あるいは荘重という意識まで、僕が説明をするまでもなく、理解した。実に美しい道徳教育だったと思う。

「でも私たちはある時からその儀式を『処理するべき定例行事』としか見なさなくなった。あまりにも死に慣れすぎたんだ。あるいは『死の臭い』ということに無意識に娯楽性まで見出すようになっていた。臭いを察知した日はビンゴカードに穴を開けてもらった気分になる。『あ、とうとうだ!』ってね。

 そうして養鶏を行う上で必要な様式が、どんどん形骸化してしまって、その中心にある大切な事柄が、軽んじられるようになってしまった」

「だからお父さんは養鶏そのものを取りやめてしまった」

「今にしてみれば、その選択は正しかったと思う。父親の影響かもしれないけれど、私は行為そのものには善悪の概念は存在しないと思ってる。たとえばどんなに悪いと言われてる物事にも必ずメリットとされる要素があるというような側面から言っても、ね。だから善悪は行為そのものよりも、その行為に携わる人の精神性による。と私は考える。どんなに美しいとされる行為も、それによって他人を出し抜こうというんじゃ、ちょっと、ね。だから意義を見失った私たちにとって、ウッドストックやキョロちゃんたちとサヨナラすることは、正しい結末だったんだよ。そのタイミングも含めて」

 ピリオドのかわりの沈黙が、さわっと漂う。

 テレビの映像はすっかり養鶏場を離れ、旅番組も終わり、今はプログラムとプログラムの合間の小ニュースが流されている。わずかの時間しか放送の許されないこの時間のニュース番組は、いまは身元不明の女性遺体がアパートの一室から発見された、三日前の事件の続報を報道してる。アナウンサーが淡々とした口調で原稿を読み上げている。

 太陽は少しずつ西日に変化して、夕方に差し掛かる直前の、薄く伸び切った青を空に広げてる。近くから踏切の音が、聞こえてくるような気がする。彼はぼんやり夕支度を考える。買い出しの時間が迫ってる。

「夜、何にする?」

「ごめん全部うそ」

「は?」と彼は言う。「じゃなくって夕ご飯」

 いや。

 ごめん全部うそ?

「ちょっと待って。なにが、なんだって?」

「さっきの話」

「の、なにが嘘なの」

「だから全部。最初から最後まで。徹頭徹尾でっちあげ」

「なに、それ」

「ついでに実家も昔からあの場所です」

「ニワトリは?」

「飼えるわけないじゃん。住宅街のど真ん中で」

「なに、それ」

「短編の作品にね、しようと思ったの」

「すればいいじゃん」と彼は言った。「初めから完成形で見せればよかったじゃん」

「嘘ってバレるじゃん」

「物語でしょ?」

「鶏が映ってたからさ」と彼女はテレビを指さす。「騙すにはちょうどいいかなって」

「そうだろうね」

「そうだろうとも」

「それで、君は満足したのかい?」と彼は言う。

「満足っていうか……面白かった……でしょ?」と彼女は探るように彼を見る。

 彼は深い溜め息をつく。

「夕ご飯は僕が今決めた」と彼は言う。「今日は水炊き。異議は受け付けません」

 彼女はわっと華やぐ。

「水炊きかあ。デイジーが必要だねえ」

「そんな名前のトリはいないんだよ」

「フィクションだからね」

 彼女はすっと椅子から離れ、寝室のクローゼットから秋物のジャケットを持ち出す。リビングに戻って、そのうちの一つを彼に投げ渡す。そのあいだに彼の方でもすっかり外出の準備が整っている。

 靴を履きながら彼女は、「白菜と、大根と」と、買い物の計画を口にする。

 鍵をかけ、細い通路をゆく。彼は彼女の背中をそっと押す。

「せっかくだから、歩いていかない?」

 彼は言う。

「うん」

 彼女は子どもっぽく笑う。

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