S・T・K
普段は読みもしない地方新聞がダイニングテーブルに広げられている。日付は2024年某日、仕事のために電車で移動することになった彼女が、キヨスクに寄ったついでに手にとってしまったものだ。奔放な天賦がときにこういったいたずらを働かす。
車内で彼女は一つの記事を目にした。
仕事を終えてからも、その記事の内容がどうしても頭から離れなかった。
「また珍しいものを」とサッカー観戦をしていた彼が横目に言った。「あんまり散らかさないでよ?」
「それより見てよ。ここにさ、面白い記事が載っかってるの」
「面白い」と彼はトレースする。「この、適当に見てるサッカーより?」
「ゴタクはいいから」
彼は肩をすくめた。
新聞に書かれてある内容を概略すると、大体こんなだ。
新紙幣発行を記念する、とある地方銀行。営業中の店先に不思議な男が現れた。彼は銀行へやってくる客に見境なく声をかけ、両替話を持ちかけている。
こちらからは新紙幣を差し出し、相手には必ず旧紙幣を要求した。
レートは等価だしダンピングもしていない。民間同士で行われる正当な両替行為であって、そこに犯罪の疑いは一切介在していない。ただ紙幣の新旧を入れ替えているだけだ。
『窓口での両替手続きを面倒に感じたからなのか?』
けれども男は新紙幣を旧紙幣に変えている。
逆ならまだわかりそうなものだけど、一体なぜ?
男は記者の質問にこう答える。
「いえね、百年くらい保管しておけばいずれプレミアがつきますからね。まあ一種のコレクションですよ」。
彼は新聞を腕の限界まで顔から引き離して、いかにも贋作の骨董品を鑑定するみたいに目を細めた。
「どう思う?」と彼女は聞いた。
彼は首を振った。
「ノーコメントで」
「この人、百年後まで生きてるつもりなのかな」
「そこは子孫のためとか、そういう動機じゃないの?」
「西郷隆盛とは逆の考えなわけだ」
「児孫のために美田を買わず。それもどうかと思うけど」と彼は言う。「で、これが面白い話?」
「いや、それがさ、私気になったから、ちょっと調べてみたんだよ」
ブリーフケースからクリアファイルが取り出される。中身は新聞の切り抜きらしい。何枚かのコピーが一緒くたに収められている。それを彼女は一枚一枚テーブルに取り出す。
「これは04年の記事。こっちは84年。1984年」
「こんなコピー、どうしたの?」
「図書館に寄ってきた。県立なら縮刷版が保管されてると思って」
「へえ」と彼は皮肉に感心する。妙なところに情熱を芽生えさせたものだなと。「それで、なにがどうなった?」
「結論を急がない」と彼女は言った。「04年も84年も、紙幣のデザインが変更された年なんだよね。この意味、わかる?」
「もしかしてその時にも今回とおんなじような両替人が?」
「そう。まさにそう」と彼女は満面の笑みを作る。「これさ、どう思う?」
「いつの時代も考えることはみんな一緒」
「本当にそうかな」
「他にどういう想像が?」
「例えばこれ、全部同一人物とか」
「ああ」と彼はつぶやく。「ありえなくはないね。84年から24年なら40年。生きててもまったく不思議じゃない。それなら頭のおかしい一人の変なおじさんってことで片がつく」
「でもさ、だとすると、なんでこんなことしてるのかな」
「いや、だから百年後には高値がつくんでしょ?」
「つくと思う?」
「僕は知らないよ。このおじさんがそう感じてるんだ」
「や、私さ、そのことも調べてみたの」と彼女は言った。「80年代に発行されていた聖徳太子の一万円札。記載番号やデザインが特別でもない限り、市場取引価格は二万円未満。コレクターでも倍額は払わない」
「このおじさんは百年計画らしいけど」
「だからできるだけ遡ってみた。といっても日本が金本位制から管理通貨制に切り替わったのは1942年のことで、この年に発行された(実質的な不換紙幣の)日本武命デザインの千円札は、これは発行数の関係から希少価値がついちゃってる、んで、参考からは省いた。で、次に発行された、いわゆる『B千円券』って呼ばれる、1950年発行開始の紙幣が、資料としては最も適切かなと思われるんだけど……」
「ゴタクはいいんだよ」
「ああね」と彼女は笑った。「1950年。元号でいうと昭和25年。今から84年前。この千円札が、現在の市場価格で大体3千円。1千円が3千円。やっぱり特別な付加価値でもない限り、どんなに頑張っても、紙幣自体の価値ってこんな程度にしか変動しないみたい」
「それでも増えてることには増えてるのでは?」
「そうだけどさ、同時に物価も上がってるわけだよね。たとえば調味料の代名詞的な醤油で比較してみると、今は1リットルが……安いので大体300円くらいかな。『B千円券』の発行された昭和25年には、これが50円くらいだった。とすると当時から6倍も価格が上がってる。戦後の品不足で値段が高騰してただろうことを加味すれば、実際にはもっと高い上昇率のようにも思う。けど、6倍。事実の数字だけ比較しても6倍だよ。逆にいえばさ、お金の価値はそれだけ相対的に下がってるってことだよね。1千円が3千円になったところで、損にしかなってなくない?」
「相対的に見ればであって、絶対的に見れば、いずれにしろ利益はあがってる」
「絶対的に見ても損失だよ」と彼女は言った。「詳しくはやめとくけど、物価って基本的に、時代が進めば進むほど必然的に上昇してくものだよね。明治時代に1円って言ったら結構な大金だったのが、今やチロルチョコ一個すら買えない、というような。だから1円をそのままの形で保管してても、意味がない。それより株とか先物とかの、いわゆる兌換的な商品に『換金』して、倉庫に寝かせておくような方が、よっぽどいい。100年後にも1円は1円のままだけど、1円で買ったエメラルドは未来の物価に合わせてレートが変動するわけだから」
「だろうね」と彼は言う。「でも、それ、普通の資産運用となにが違うの?」
「違わないよ。至って普通の資産運用の方法じゃん」
「ん?」
「だから、このおじさんが新聞記事に取り上げられてるのは、その『至って普通』とは違う方法を、わざわざ選んじゃってるから、でしょ?」
「ああ……ああ」と彼はぼんやり言った。「つまり……君が言いたいのは……一つ前のデザインの紙幣を苦労して集めるより、その時間と財源を信託や金先物とかの投資に回したほうが高いリザルトが出せるのに……というような?」
「百年計画なら金相場だって確実に上昇してるからね」と彼女はうなずく。「下手に注目だけ浴びるような真似をして、この両替おじさんは、一体なにがしたいんだろ?」
「そこまで考えが回らなかったんじゃない?」
「そう思う?」と彼女は言った。「40年かけて、この両替おじさんはまるで一度も違和感に気づかなかった。周りの人も誰か一人くらいアドバイスしてあげても良さそうなものなのに」
「まだ同一人物と決まったわけではないけれど……でも、世の中の奇人って大体そんなものだよ。天才的なひらめきだと思い込んだまま猛進してしまう」
うん、うん、と彼女は大げさに首を縦に振る。
「でもね」と言う。「私はちょっと、妄想してみたの」
「妄想?」
「いい、妄想だよ?」
「どうぞ」
「この40年のあいだに3回も新聞に取り上げられた両替おじさんは、やっぱり私の読み通り同一人物で、だけど唯一推理の外れている点は、彼は新紙幣発行のたびに旧紙幣のコレクションに動き出してるわけじゃなく、もっとずっと未来の時間から、何度も両替を繰り返しながら過去に遡ってるんだ、ということ」
ああ。うん。と彼は言った。妄想だものね?
「そう、妄想だから」と彼女は答えた。「でもさ、この妄想を採用すれば両替おじさんの行動も説明つくよ。というのは物価上昇の法則にのっとっていえば100年後に1兆円で買った金の延べ棒も、この時代にはたった1億円ぽっちにしかならない。返って損しちゃう。時間を遡ると先物取引が通用しないんだ」
「それは、旧紙幣と取り替えることの意味に通じるの?」
「だって未来にしか存在しないデザインの紙幣は、当たり前だけど過去では使用できないでしょ。書かれてある金額だけが重要だというなら『子ども銀行券』でも取引可能になっちゃうわけだから。つまり不換紙幣は図柄やデザインにも信用を保証されているわけだよ」
「なるほど。だからデザインが切り替わったタイミングに狙いを定めてタイムトラベルを繰り返してるわけだ?」
「その時期なら両替もしやすいからね」
「で、とどのつまり、1円で贅沢できる時代に1億円の札束を引っ提げてゆこうというわけね」
「まさに現代版わらしべ長者。ね。このおじさん、夢があるでしょ」
「現代版というかSFだけどね」と彼は言った。「そして君、残念だけど、その推理には一つ看過すべからざる問題がある」
「問題」
「両替を繰り返すのはいいけどさ、だけどそのおじさんがお金持ちでいられるのは過去の時代に限定されるわけでしょ。だって所持金の額面自体は増えてないんだから。それで、1円で贅沢できるような、冷蔵庫もない、洗濯機もない、当然スマホもないし、もしかしたら電気すら通じてない、そんな時代に、彼は満足できるのかな」
「タイムトリップすら可能なハイパー未来人が」と彼女は自己認識するように言う。
「お風呂すら薪で沸かすような時代に、一体なにを豪遊するのだろう」
彼の追撃。
「ああ、くそ!」と身悶える。「空飛ぶ車。光線銃。空想科学読本」
「アンティークな未来図だなあ」
「原色の全身スーツ、タコ型宇宙人。たしかに捨てがたい生活だ」
「理解した?」
「しました。地に足付いた生活が一番です……」
「夢はしょせん夢」
「コピー代、200円くらいしたんすけど」
「領収書は両替おじさんで」
まあ、暇つぶしにはなった。途中からなにを言い出すのだろうと思ったけれど、彼の方では十分に満足してサッカー観戦に戻る。
珍しく興奮気味だった彼女は暴走の頭を冷やすようにテーブルに突っ伏した。いや、突っ伏していた。それもしばらくするとむっくり起き上がってキッチンまでコーヒーを淹れにいった。彼の分までお湯を沸かす。
妄想から現実へ。波が落ち着いてゆく。
1963年、某日
新聞の男が、やはり銀行の前に立っている。
大都市ではなく地方の銀行を選んだのは、あまり悪目立ちしたくないからだ。男はできるだけ穏便にことを済ませたかった。
(やっと成果が見えだす頃だ。ま、このまま寛永通宝くらいまではこぎつけたいところだがね)
まったく名案だ、と男は思う。時間軸を縦に捉えた通貨スワップなんて、考えつくのは俺くらいのものだろう。世の凡人には到底まねできまい。
男の前に、今日の鴨が現れる。
(よしよし、さっそく両替だ)
男は誰にも聞かれないように小声でつぶやく。
「濡れ手に粟、濡れ手に粟」
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