インスタントコーヒー
クリーム色のメモ用紙に、ぼんやりと視線を落としてる。
三分間、彼女はずっとそうしてる。
このメランコリックな退屈の瞬間になにか名前を与えたかった。肉体の行動が制限されたいま、反面、精神の活動が高まって、内なる世界を発露したい。自己表現の手立てを探してる、けど、それらしい手応えがなかなか得られない。
諦めて、彼女はメモ用紙の中心に『可愛想』とだけ書いた。
半開きのカーテンが外の景色を覗かせる。音もなく降る小雨。6階まであと一歩背の足りない広葉樹の、濡れそぼった緑の葉っぱだけ、ここから見える。なんだかダンボールに捨てられた子犬みたいにくたびれてる。どんよりと灰色だ。
納得いかないな、と彼女は思う。
世界の暗澹にじゃなく、もっと大きく色鮮やかな想像が私の頭の中を埋めていることに対してだ。言葉にするとそれがたった一単語になる。たった一単語しか表現できない自分の、いわば才能のなさなのか、表現力の不足なのか、語彙に乏しいだけなのか、ともかく何かしらの欠如に、小さな不満を覚える。
これだから雨の日は、と彼女は思う。
彼女の表現は、いわば混沌だ。次々に浮かぶ頭の中身を適当にばらまいて、選別し、並び替え、紡いでく。縫い目をうまく合わせ、あたかも初めからその形であったように、いうなればジグソーパズルのような計算された接合部になるまで、何度も、丁寧に、修正を繰り返す。始まりの混沌が際立ってれば、それも一つの芸術になる、けど、雨の日には脳の活動が低下して思うように着想をアウトプットさせられない。
のんびりと、だらだらと、メランコリックな退屈。
小さなため息が漏れる。
カーテンの隙間から空を仰ぐ。灰色の世界がそこにある。雨はしばらくやみそうにない。さっきの天気予報でもそう言ってたしな、と彼女は思う。
ドアの音に注意が向く。
「おはよう」と廊下の奥から彼がやってきた。
「おはよ」と答える。
「まあ、起きてたけどね」
「なにしてたの?」
「デイリーの消化。ログインだけと思ったんだけど」
「雨だし。良いんじゃない」
「君は?」
「無意」
答えるのと同時にクリーム色のメモ用紙を彼の方へスライドさせた。彼はそれを取り上げて、(取り上げるまでもなかったな、と思いながら、)そこに浮かぶ端的な一単語を音読する。
「可愛想」
彼は首をひねった。
「これじゃ何も思い出せなくない?」メモ用紙を彼女に返しながら彼は続ける。「それってアイデアとか着想を保管しておく作業でしょ?」
「しょうがないんだよ。思いつかないんだもん」
「そんな日もありますか」と彼は席にかけながら、簡単に納得する。「ところでそれ、字、間違ってない?」
「え?」
「かわいそう。愛じゃなくて哀れ」
可愛想。可哀想。メモ用紙と脳内の辞書を見比べて、「ああ」と彼女はつぶやいた。本当にうっかりしてたらしい。
「でもいいの。ものの哀れは愛おかし、だから」
「?」、なにかはじまった。「や。そうじゃなくて、誤字だという話」
「誤字ってほどでもないよ。もともと『かわいい』は不憫とか気の毒って意味だったんだから。そこに『愛す可き』って漢字を当てただけ」
「僕は『かわいそう』の指摘をしてるんだけど」
「語源は一緒だもん。どっちだって構わないの」
「君が構わないならそれで良いけどさ。でも僕は常識の方を尊重したい」
「常識は常識。個性は個性」と彼女はメモ用紙を指先でもてあそびながら言う。「それに、素敵な字面だと思わない?」
「なにが? 可愛想?」
「愛す可く想う。かわいそうなことは愛すべく想う状態なの」
彼は少し考えた。考えてから、言った。
「単なる字だよ」
「愛がないですね」
「僕はこれからも『可哀想』って書く。変に思われたくないからね」
「あら、かわいそう」
「それよりリモコンは?」と彼は言う。
いつもあるはずのテレビのリモコンが、テーブルの上から忽然と消えている。どうせ彼女がどこかへ置き去りにしたことを知っていて、彼はわざとらしくランチョンマットの下を覗き込む。
「そこ」
キッチンのカウンターを指差す。「朝ごはん、勝手に済ませちゃったよ」
「いいよ、それは」
彼は仕方なさそうに立ち上がる。座ったばかりでまた腰を浮かせるのは、こんな雨の日には彼にしても骨がいる。
「ごはん、食べないの?」、彼の背中を目で追いながら、彼女は訊いた。
「お昼と一緒でいいかな」
「そう。私はなんにしよう、お昼」
「君はついさっき食べたんでしょ?」
「サンドイッチ一切れだもん」
「返ってお腹すく量だね」
「でも、油っこいのはヤだよね、雨だし」
「ご自由に」と言って彼は再び席に着く。
彼女の抽象的な感性を、彼は好きだった。付き合い始めの頃はその抽象を具体に変えようと、疑問が起こるたびに深く掘り下げていた。『雨だとなぜ油っこいものが嫌なのか?』。最近はそういうことはやめにして、彼女の抽象を抽象のまま俯瞰するようにしている。そのほうが具合が良いと、あるとき彼は気がついた。
リモコンの主電源ボタンが押される。
土曜の午前。この時間帯にはどこの局に回しても、『平和』の概念をワッフルメーカーで何度もプレスしたような、扁平で平坦で、毒気も味気も教養もない、垂れ流すことを目的としただけのプログラムばかり放送されている。雨の日にはそれもいいかもしれないけれど、それにしてはいちいちリアクションする芸能人の演技がやりすぎだ。
ザッピング、ザッピング、ザッピング。そのうち彼も諦めた。
「見たい番組でもあったの?」
「ニュースでもやってればと思って」
「この時間だとねえ。スマホにしたら?」
「能動的には疲れるんだよね。取捨選択が。まあ、いいよ。それよりテレビ使う?」
「ううん。消してたじゃん」
「じゃ、録画、見るよ。消化しちゃわないと、ドラマが溜まりすぎてて」
「お好きにどうぞ」
彼女のテレビに対する興味は暇つぶしの範囲に留まって、動的な映像に直覚的な刺激が受けられればそれでいい、から、わざわざ番組を保存してまでという熱意まではない。さっきも朝食を用意してるあいだ、賑やかしにちょっと付けておいただけだ。ので、たまに彼が録り溜めた録画番組の一覧を目にしたりすると、ひどく驚く。
よくこんなに観る気になるなあ。感嘆。
これで彼いわく今クールは「そうでもない」らしい。彼女は彼がリモコンを操作するちょっぴりのあいだに3つくらいの異なるタイトルを認めた。ニュアンスからいって、一つはリーガルもの、もう一つは医療もの、らしい。あと一つはなんだかよくわからなかった。彼はそのうちの医療系ドラマに目星を付けた。早回しで流されるオープニング画面に、何人もの白衣姿の役者が(緑色の手術着もちらちらと)映される。
オープニングが終わってコマーシャル、それはスキップで飛ばされて、本編が始まっても、まだ早回しが続いてる。
始めのうち彼女もその劇的な速度の映像を興がってぼんやり見入っていたけれど、話の筋も人物の相関もわからないのでは、次第にどうでもよくなって、ふっと視線を引き取った。椅子の上に体育座りをすると、イヤホンを耳に押し当てた。
こんな雨の日に似合うビリー・ホリデイの歌声が、ワイヤレスイヤホンから静かに流れ出す。端末の画面には、とある喫茶店のライブカム映像が再生されている。客席を省いた画角でカウンター周辺だけ切り取られてる。
創造性を刺激したいとき、彼女はよくこの手の動画に頼る。喫茶店、空港、世界遺産、あるいは単に都市を見下ろすだけの映像や、新幹線の車窓動画、パルクール的街歩き……そういう映像の世界観に、入り込む。
雨がもたらす気だるけな直感から『可愛想』しかスポイルできないなんて。そんなのは消化不良だし満足できるもんじゃない。どうにかもっと大物を釣り上げたい。
けど、今日はどうも駄目。
眠気と眠気の狭間にある、妙な集中力の空間に、どうしてもうまく入っていけない。それよりも今日の雨は眠気ばかりを誘ってくれる。
しばらくして彼女は小さなため息を付いた。小さいけれど決定的なため息だ。
スマホを置いて、彼を見る。いつの間にか彼は椅子の位置を動かして、一極にテレビに視線を注いでる。こちらに向けられた背中が表情で告げられるより的確に冷酷な態度を示してる。「声掛け禁止につきまして」。
も一度ため息。
窓に視線を移す。わずかにあいたカーテン。ガラスにつく水滴。ベランダ。手すり。手すりの奥では相変わらず広葉樹の緑が萎れてる。
ビリー・ホリデイに寄り添われながら、ゆっくり立ち上がる。
体育座りを続けてたせいで膝頭が妙に気持ち悪い。や、それよりも素足に吸い付くフローリングの感触の方が気になった。指先になだれ込む無生物の冷たさ。まったく我慢してしまえる程度なのが、返って意識を強くする。雨の憂鬱がそこに集約されてるみたいだ。
ぺたぺたと音を鳴らして窓辺に寄ると、彼女はカーテンの隙間を少し大きくさせた。風向きの影響もあってベランダは水浸しだ。とてもそこまで出ていこうって気になれない。
ちょっと背伸びして見下ろす水滴ごしの街は、やっぱりどこもどんよりと灰色がかってる。古い商店街は地下迷宮みたいにごちゃごちゃしてる、のに、意識を後ろに引っ張って見てみると、なんだか一個の集積回路みたいな、均整の取れた印象を覚える。そのまま視線を奥の方まで伸ばしてみても、この集積回路の感覚が、どの区画からも感じられる。集積回路の寄せ集めによって街が完成される。
晴れた空のもとでなら、場合によって美しくもあった。茜が差せば郷愁感にも彩られた。彼女はそれを残念に思う。
惜しむらくはいまは、ジャンク品の堆積物って程度の感動しか得られない。
「カーテン、閉めてくれない?」
唐突に彼が言った。
けれどもビリー・ホリデイのさざなみによって彼女の耳には届かない。灰色の空と、しとしと降りの雨、美しさのかけらもない退廃の街並み。
集中はいまこの憂鬱に吸い寄せられるために温存されていたみたいだ。
こんこん。
ちょうど卵を割るときの、硬質な音が2回、聞こえた。
振り返ると彼と目が合った。彼は興味深そうに彼女をしげしげ眺めながら、もう一度、愛犬家が飼い犬の背を撫でるような手触りで、テーブルをこつ、こつ、と叩いた。中指の第二関節が慇懃に彼女を呼んでいる。
すぐに片方のイヤホンを外した。
「ごめん、なに?」
「悪いんだけど」と彼はどちらかといえば言葉とは裏腹の冷静な様子で言った。「カーテン閉めてよ。テレビが見づらくって」
「見づらい?」
「光が反射する」
「曇ってるよ」
「それでも眩しいの」
「雨なのに」
ふっと彼女は思いつく。でもそれは一旦脇に置いといて、ひとまずカーテンをきっちり閉める。彼の「ありがと」を背に受けて、ふらふら席まで戻った。
再び体育座り。立ってるあいだは仕方ないといえ、素足に直接フローリングは気持ち悪い。それが椅子の表面ならそうでもないのが、不思議といえば不思議だ。フローリング過敏症。と彼女は密かに名付けてみた。
ぎゅっと腕の力を強める。足と体を密着させる。圧が加わると、なんとなく愛というものが感じられてくる。
膝の上に頭を載せて、彼女は聞く。
「ねえ、最近いつも倍速だよね」
「うん」
テレビ画面の人物たちが機敏に体を動かしている。二人の男に挟まれた白衣の人が、左を向いては右に振り返る。
「チャップリンみたい」
「チャップリン?」
「サイレント映画のフレームレートって、ちょうどこんな感じ」
「ああ」
「まともに見ると、結構へんてこな映像だよね。笑っちゃわないの?」
「真面目なドラマだよ」
「声まで早いしさ」
「真面目なドラマ」と彼は二度言った。
変なの、と彼女はつぶやいた。
それがどうも捨て台詞に聞こえたらしくって、彼は一時停止ボタンを押すと、半身だけくるっと彼女に振り向いた。
「いいかい、よく聞いてもらいたい」と彼は相手に冷静になにかを訴えようとする人がよくやる、手のひらを天にかざす仕草をして言った。「ご存知のこととは思いますが……僕は毎平日、決まった時間に出勤して、決まった時間に退勤する生活を続けてる。自由業の君と違って、時間を自分の裁量で都合つけたりは、できない。きっかり決められた時間だけ個人的自由を剥奪されている。そんな僕にも人並みに娯楽が必要で、だけどその娯楽を十分嗜むには、時間の余裕が足りてない。だから可能なときに倍速で一気に見てしまう。わかってもらえるかな、僕はそういうことを合理的に選択してるんです。それで改めて訊くけれど、倍速再生がそんなにおかしいかい?」
なぜか部分的に敬語なのは、喧嘩に発展しないための彼なりの配慮、だと思う。場合によって逆効果の気もするし、彼女にはもとからそんなつもりもなかったから、そもそも効果のほども薄かったようではあるけれど。
それで彼女は明後日の方向に切りかかった。
「じゃあさ、あらすじだけ読むってわけには、いかないの?」
もちろん彼はまったく予期してない。
「あらすじ?」と言う。
「そんなに忙しいなら、物語の筋だけ読んじゃえば、5分くらいで済むんじゃない?」
「だってドラマだよ、文字ではなく、映像であることに意味があるとは思わない?」
「その意味っていうのは?」
「つまり役者の演技だったり緩急の付け方だったり……」
「倍速で? わかるの?」
彼は(寸前に自分でも矛盾を認めてしまったから)急に押し黙ってしまった。
「本当に時短するなら文字が早いし、意味を求めるなら等速が一番だし、とすると倍速再生って選択はどっちつかずだよ。どっちつかずが心地良いっていうんなら話は別だけど」
彼はちょっとすねた子どもみたいに、気難しい表情で肩をすくめた。
「ねえ、思うんだけど――」と彼女は構わず口を切る。「あなたに足りないのは時間じゃなくて、愛なんじゃない?」
「愛?」と彼は言った。「愛すべく想う、の愛?」
「べつに、これ(さっきのメモ用紙をひらひらさせて)にかこつけてるつもりはないけどね」
「じゃあ、実際に僕が薄情な人間だってこと?」
「本当にその作品が好きなら、倍速再生なんて、もったいないよ」と彼女は彼の質問に直接には答えずに、言った。
「それは時間との兼ね合いだよ」と彼もそれをすんなり受け取った。「余裕さえあれば僕はいくらでも愛を注いでやるんだけどね」
「そう?」と彼女は言う。
「でも残念ながら僕のワイナリーには必要最低限の樽しか置かれてない」
「しかもこうして私が天使の分け前をかすめ取ってゆく」
「なかなかうまい返しだね。や、そんなふうに感じたことはないけどさ」と彼は言った。けど直接的には否定もしなかった。「君との会話は大切で、有意義だと、思うよ」
「でもさ、あなたに個人的な時間が足りないのなら、私たちにしても、倍速の関係にシフトしてしまった方が、いいのかもしれないよ」
「倍速の関係?」と彼は言った。「そんな関係が存在するの?」
「するよ。どこの世界にもそうしてる人たちが一定数いる」
「具体的には」
「簡単だよ。会って、やって、別れる。三ヶ月くらいで他人に戻る」
聞いて、彼は思わず笑った。
「そういうのは『腰かけ』って呼ぶんだよ。僕たちの関係とは違う」
「かもね。愛はある?」
彼はその瞬間、清々しい笑みとため息を同時に供出した。
「なるほどね。確かに僕のドラマ鑑賞のやり方は腰かけ的だった。そう言いたいんだろう? それについては、わかった、素直に認めるよ」
「でもまだ納得はしていない」
「だって、どれだけ頭で理解したところで、現実的には何も解決されてない。結局時間は足りないままなんだ」
「こんな会話に割いてるからじゃない?」と彼女は相変わらず膝と膝の間に顔を寝かせながら、くすりと笑った。「無理して付き合ってくれなくても、いいよ?」
「なにか面白い意見があるなら聞くよ。物理的な制約(つまり時間的な制約のことだけどさ)を、愛はどうやって克服するのか、もしくはそういうことは可能なのか?」
「面白いかどうかは別にして、それって簡単なことだと思う」と彼女は言った。「単純に、観るドラマの数を減らせばいいんだよ。言い方を変えれば、厳選すれば。だって、恋愛関係になぞらえれば、同時に複数の相手と交際してるようなものだもん」
「なるほど。一人に絞れ、と」
「ね。簡単でしょ」
「一つに愛を注げば、たしかにそれは可能だね。だけどそれだと新しい問題が発生するよ。というのは要するに視野が狭くなる。いや、僕の趣味のことは、もうこの際べつにして、それよりも『たった一つ』より『あらゆる』が求められるこの情報化社会で、君のその考えは危険を孕んではいないかな。そうでなくたって情報は増えてゆく一方なのに」
「ふむ」と彼女は古風に言った。「つまり情報の供給量と歩調を合わせるためにも、倍速的・合理的・能率的選択、つまり愛とは真逆の判断基準が必要、と、いうわけだ?」
「情報と愛はアマルガムしないんだよ」
「それについては私も概ね同意見だけれども」と彼女はひとまず肯った。「ところで肝心のとこだけど、情報はあなたが言うように、実際に増えてるの?」
情報は増えてるの?
えっと? 情報は増えてるの?
彼はちょっぴり困惑した。あまりに当たり前のこと過ぎて、どう答えていいかわからない。「君はインターネットと無縁なの?」、せめてこう、皮肉でやり返すしかなかった。というよりこれ以外に相手を侮辱しない方法が思いつけない。
彼女は彼の困惑を見て微笑んだ。彼女は言った。
「それは、情報へのアクセスが容易になったというだけで、情報量自体は、別になんにも増えてないんだよ」
「いや、だって、君だってさっき動画を見てたじゃない。そういうのを一般の人がアップロードできる時代だよ? 情報の供給量は現実に増えている」
「それは何を『情報』とするかだよ。つまり『情報』の定義の問題。で、私は情報というものを、経年変化を起こさない書き換え不可能な概念だと定義してる。簡単にいえば、今ここであなたの写真を撮るとする。その写真を十年後に見返してみても、写真の中のあなたは何一つ成長もしてないし着ている服も変わらない。でも十年後の生身のあなたは様々な変化を起こしてる。しわが増えたり、ちょっとぽっちゃりしたり。そんなのちょっと幻滅だけど。は、いいとして、だから同一人物でも後者は情報じゃないのに前者は情報といえる。私の考えではね。
で、その定義に従うと、私たち人間ひとり一人、動物の個体いっぴき一匹が生きるだけで、彼らの過去すべてが情報化される。タイムマシンでもない限り『断定された過去』は書き換え不可能だから。それで、一般の人が動画をアップロードするという行為は、要するに、彼らが自分たちの過去(この時点で情報と言い換えてもいいね)を『アクセスの容易な』情報にコンバートして、大衆の目に晒してるにすぎないわけだから、これは情報の量が増えたり変わったりしてるんじゃなくて、ただ位置が変化してるだけ。だって同じことは、山村のおじいちゃんおばあちゃんを一箇所に集めて彼らから思い出話を聞くことでも再現できるわけだから。それをもうちょっと見方を変えて表現するなら、情報は増えてるんじゃなくて、意図的に増やそうと目論む人たちが増えただけ」
「つまり……」と彼はなにかわかりやすい例えを探しながら言った。「極めて無名な作家の極めて無名な作品が、たった一人の読者の目にさえ触れられなかったとしても、それでも情報としては存在してる?」
「そうそう。それがなにかのきっかけで大増刷されて、ギネス新記録のベストセラー、みたいなことになったとしても、情報の量(文字数とかページ数ね)自体は増えないもんね?」
「だけど『あらゆる過去』が『情報』だとしたら、やっぱり情報は増えてく一方じゃない? 時間が先へ先へ進むほど、情報は積み上げられてゆく」
「だけどその分、しっかり淘汰されてる。だって平安時代の文学タイトルなんて、何個挙げられる? そりゃ今でもずいぶん継承されてるけど、当時はそれこそ星の数ほど存在してた。おそらくね。でもどこかのタイミングで未来に受け継がれずに、誰の記憶にも留まらない闇に、その情報たちは消えてった」
「や、その理屈だと、無名の作家の無名の作品の喩えと矛盾するよ。人の目に触れなくても情報は情報なんでしょ」
「ああ。たしかに」と彼女はぼんやり言った。「まあ、でも、情報の量はそれほど増えてない、と私は思うよ。情報へのアクセスは劇的に容易になったとは思うけど」
「だからさ、それなら擬似的にしろ、情報量が増えたって言ってしまっていいんじゃないかな。あくまで擬似的にだけど、アクセスが容易になったことで、必然的に僕たちは相応の情報量の吸収を要求されてるわけだから」
「それって、誰から?」
「誰だろうね。言うなれば社会から?」
「情報化社会から情報の吸収を要求されてるの?」と彼女は笑った。「なんてマッチポンプなんだ。それって、もはや、情報へのアクセスが、権利じゃなくて義務と化しちゃってるよ」
「だってそういう時代だからね」
「でも実際は義務になんかなってない」と彼女は頑として言った。「それってさ、食べ放題の料金プランで『元を取らなきゃ気がすまない』って発狂してるのに似てる。大量の情報が津波みたいに押し寄せたって、ただスルーしちゃえば、それで済むことなのに、もったいないから『あれも』『これも』って闇雲に手を伸ばしてる」
「かもしれない」と彼はひとまず認める。「ただそれに関しては君も似たようなところがあると思う。君の知的好奇心と闇雲に手をのばすこととは、どう差別化されるの?」
「だって私は倍速で見たりもしないし情報に流されてるわけでもない。純粋に私自身が心地よいと感じるものに触れてるだけだよ」
「知ってるよ。十分にわかってる。そして僕は、世間的にそういう状態を『知識の偏り』や『視野狭窄』と呼ぶことも知ってる。君の場合は、こういう傾向に該当しかねない」
「視野狭窄?」
「僕はさっきもこの点を指摘したよ。一つのことや自分の恣意に委ねて愛を注いでばかりいれば、視野の狭くなる恐れがある」
「や。そうじゃなくて。視野狭窄?」
「視野狭窄」
「ねえ、そんな観念こそ、はっきり言って幻想だよ」と彼女は言った。「あなたのいう視野狭窄ってのは、あくまで人的限界の範疇でしかないよ。神さまやアカシック・レコードみたいな概念からしたら、誰しも視野狭窄なんだ。ランドルト環の視力検査で2.0を取ったところで、マサイ族からしたら、そいつだって『目が悪い』というようなこと。所詮こんな程度の争いだよ。私はそういうことはバカバカしいと思う。目くそ鼻くそ。五十歩百歩。一体何を競い合ってるの?」
「僕は別にそこまで言ってない」と彼は思わぬ熱量に苦笑する。「単純に、一つの物事に凝り固まってたら、周りが見えなくなるって、それだけの話だよ」
「だからさ、周りをちゃんと見えてる人なんているの?」
「それは……どの程度の規模……いや」、彼はそこで言葉を切って、頭の整理にリソースを費やすことにした。「……つまりアカシック・レコード的規模で周りが見えてるかどうか、ということだよね?」
彼女は判然とうなずく。といっても首は依然として寝かせられてるから、彼女的には横向きに顔を上下させたわけだけど(でも首を振るのとは明らかに違ってる)。
彼女は続ける。
(その皮切りに、学問的や学究的に知識を広げようとする態度は全然否定しないけど、と断りを入れてから)「どれだけ知識を獲得したところで、私たちのやってることは、周りの見えてない間違いだらけのことばっかりだよ。で、どうせ間違いだらけなら、私は私の自由に選択したい、つまり、強迫観念を行動原理になんかせずに、それより好奇心の対象を愛すべく想いたい」
「愛すべく想う、ね」
彼は肩をすくめて、それからテレビのリモコンを手に取った。一時停止は自動的に解除されて、今は録画番組の一覧まで画面が戻されている。カーソルはさっきまで観ていた医療ドラマに合わされてる、けど、それをもう一度再生、という気にはなれなかった。一方で情報を消去してしまうのも惜しい。ひとまずこの場は保留して地上波でも流しておくことにした。
相変わらず雨は降り続き、部屋の中はじっとり暗い。
会話はぷっつりと途絶したけれど、まあ、往々にしていつもこんな幕引きだ。彼女はテレビ・モニターが映し出す晴天のロケ地にも興味を示さないで、さっきよりも気持ち強めに膝を抱き寄せる、と、ぼんやりした眠気に誘われるがまま静かに目をつむった。
「ソファで寝なよ」と彼がそっと注意する。
「寝たくはないの」と答える。「こうしてるのがいいの」
「そう」
ザッピング、ザッピング、ザッピング。でも結局気に入る番組はなかった。地上波から衛星放送に変えて、荒野や山岳の自然美を鼓吹するようなのに合わせておいた。毒もないし害もない。ついでにやかましさも。
リモコンを握ったまま、彼はぐっと伸びをする。今になってやっと体が眠りから覚めてきたようだ。
「紅茶。ティーパック。まだ切らしてなかったよね?」
「私、手つけてないから、残ってるなら残ってるよ」
「君も飲む?」
「ああ」と彼女は言った。「んじゃ、私、淹れる」
足裏がちょっぴり温められたせいか、フローリングの床もさっきよりは気にならない。「スリッパ履きなよ」と一応注意はしてみるけれど冬にでもならない限りソックスさえ毛嫌いすることは承知してる。必要なのは生身の感触だ。
ケトルに水を注いで電源プレートにセットする。
カップを2つ、一つにはティーパック、もう一つにはインスタントのコーヒーを。
「砂糖、3グラムのしかないや」
「なんで3グラム?」、なんとなく義理でそう反応はしてみるけれど、「じゃ、2本お願い」
「ミルクは」
「少なめ」
けれども僕たちは一体どれだけの年月こうして一緒にいるんだろう、と彼は考える。つまり……いつもの4グラムから変更の加えられたスティックシュガーは、まあいいとして、ミルクが要ることも、その量も、聞かずしてわかりきってることだ。僕は気分によってその量を変えたりしない。
だからこそ、彼はこの場面でも『愛すべく想う』に思いを馳せる。
コーヒーや紅茶を入れるたびに、彼女が毎回わざわざ聞いてくることも、結局はそういうことなんだろか。ほんのわずかな、些細な、どうでもいい対話。でももしかしたら彼女の方では『愛すべく想う』大切な対話と感じてるのかもしれない。
ふっと、彼はカーテンの隙間の外を見る。隙間はリビングに来たときよりも細められている。ほとんど密着してるといってもいい。なぜそうなったのか。
悪いことをしたな、と彼は感じる。じっと、その奥の景色を眺める。
雨粒が一つ、空から降り落ちて、地面で弾ける。雨粒が落ちて、弾ける。何度も落ちる。無数に弾ける。無関心の粒が音もなく大量におちてゆく。弾ける。アスファルトが悲しい色に溺れてく。
ことん、と音がする。優しい音だ。
「熱いからね」と彼女が言う。湯気からダージリンの香りが漂う。
席に戻ると、再び体育座りの姿勢になった。しばらくはカップに手をつけそうにない。猫舌の彼女はいつも少し冷ましてから口にする。
「それは舌の使い方が間違ってるんだよ」と彼は以前、彼女に指図した。
なんだか妙な感傷にあてられて、急にそのときのことを思い出す。
あのとき彼女は「知ってるよ、舌先の方が熱に敏感だから、口の奥の方だけ使って飲むようにすればいいって理屈でしょ」と正面からぶつかってきた。「だけど熱いの飲んだときって、舌だけじゃなくって、口のなか全部やけどするじゃん。上あごの裏の、薄皮が剥げてくるあの感じ、生理的にヤなんだよ」
彼女は更に続けた。
「だから猫舌ってのは正しい防衛反応なの。舌先が熱いと感じたものを無理に飲み下そうなんて、体の機能も経験則も、まったくどっちも無視してる。そういうのは知恵に比べて遥かに劣る、近視眼的な賢しさでしかないね」
――なるほど、アカシック・レコード的見地か――と彼は思う。
なんだか今は、どんな彼女の言動さえも『愛すべき想う』と結びついてしまう。普段からその一挙手一投足に深い意味が備わってでもいるような……もちろん彼女の方じゃそこまで考えを持って動いてるつもりはないんだろうけれど……
体育座りの寝姿。はだけたくるぶし。首筋の普段は目立たない位置にあるほくろ。スリープ状態になったスマホ。片方だけ外されたワイヤレスイヤホン(ということはずっと片耳で聞いてたんだろか?)、そして湯気の立つ……
ん? と彼はそこで気づく。それまで方々に動き回ってた視線が、彼女のカップを捉えたところで、ぴたっと留まる。湯気の正体に彼は注目する。
「君も紅茶にしたの?」
というのはコーヒーにしてはベージュみが強かった。いつもの焦がしすぎたクッキーみたいな色じゃない。だけど彼女は、
「や。コーヒーだよ?」と言った。
「そう?」
「ああ、色がね。薄いんでしょ。牛乳半分くらい入れたから」
「なるほど。今日はオ・レの気分でしたか」
「違う違う」と彼女は微笑む。「このインスタント、あんまり美味しくないんだよ」
「そうだっけ?」
「うん?」
「あれ。いつものやつだよね?」
「のとは違うよ。スーパーさ、そっちじゃなくて、あっちの行ってきたんよ、散歩ついでに。したらなんにも取り扱ってないの。やっぱ行きつけのお店じゃないとだめだね。砂糖もつまり、そういうこと。しばらく我慢してね」
「でも結局そこで買ってきたんだ?」
「二度と行かんけどね」と彼女は遠回しに言った。
うんしょ、と体を伸ばして、ようやく一口すする。これ見よがしの渋い顔をする。そのあとで、酸っぱいんだよね、酸っぱいの、と一所懸命に訴える。
「なら無理して飲まなくても」
「だって捨てるのももったいないしさ、しょうがないじゃん」
「じゃ、可能な限り協力しますよ」
「なに。声援でもするの?」
「僕も次からコーヒーにするってこと」と彼は愛想っぽく笑いながら言った。
「ああ。牛乳がんがん消費するから、その点、気をつけて」
彼は頭をぽりぽりかいた。
「もったいないっていうなら、その方がもったいない気もするけれど」
「というか、そもそも牛乳も切れかかってるんだよね。もったいない以前に」
「それ、明日までもつの?」
んーん、と首を振る。
「雨だよ」とその仕草を見届けて、言った。
「雨だねえ」と彼女は眠たげに答えた。「それに、わざわざ牛乳だけ買いに行くのも、ねえ」
「なら、いつものコーヒーも買ってきちゃえばいいじゃない」
「え?」
「失敗作は僕が時間かけて処理するから」
「や。いいよ」と彼女はその譲歩をあっけなく断った。そのあとで彼は思いがけない言葉を聞いた。「せっかく楽しんでるんだから」と。
せっかく、だそうだ。楽しんでる、だそうだ。
なぜかわからないがこのスクリプトはエラーを吐いている。
「君、さっきのあの渋い顔は」、彼はプログラミング言語のスペルチェックをするように、入念な態度で訊いた。「買った店には二度と行かないんだよね?」
「私はね、なんであれば、この雨さえ楽しんでいるんだよ」
「僕の目にはアンニュイとデカダンの板挟みに遭ってるようにしか見えてないけれど」
「だって真実その通りだもん」
「わからない」
彼は首を振った。スペルも構造もカッコの綴じ方も、全てこちらの入力にミスはないらしいのに、なぜか結果だけが予想に反したものになる。わからない。
「楽しいっていうのはさ、ディズニーリゾートだとか、カールトンホテルだとか、そういうことばっかりじゃないよ」と彼女はぎゅっと膝を抱きかかえながら言った。「私の口には合わないこのコーヒーにも、ああ、なんだこいつ、くっそまずいな、なんでこんなの買ってきちゃったんだろ、早く終わってくんないかな、って、そういう楽しみ方がある」
「それは楽しんでるんじゃなくて苦行と言うんだ。もしくはわざわざ苛立ちを買っている」
「楽しんでるの。この瞬間を」と彼女はそれでも断定的に言った。「それで語弊があるなら『面白い』って方が伝わるかもね。辛いことも苦しいことも、面白い。経験の一つとして」
「なるほど、そういうことならわかりかけてきた。けど『面白い』というわりに君の表情は、全然おもしろそうじゃないんだよ。ただただ辛さや苦しさだけが表現されている」
「だから、そういうことが『面白い』んだよ」
ああ。と彼は心の中でつぶやいた。ようやくエラーの原因が見えてきた。
つまりこの出力機は1つの単語に2つの意味を共存させている。僕の感じてる『面白い』と彼女の認識する『面白い』に決定的に差異があるわけだ。そしてインプットとアウトプットのあいだにこっそり命令が切り替えられている。
「たとえば君はある日、悪夢にうなされる。そして予定より早く目が覚める。二度寝しようと思ってもうまく寝られずに、その日は睡眠不足で過ごす羽目になる」と彼は言う。「頭も回らないし、ムカムカしてたまらない」
「わかってきたね」
「そして君はその日、調理中に誤って指を切ってしまう。それだって痛くてたまらない」と彼は言う。「でも、面白い?」
「人生の、あらゆることが」と彼女はうなずく。例によって横向きに。
「何事も経験、というやつだね」
「そう表現しても構わないかもしれない」
「あるいは『喉元すぎれば』ともいえる。過ぎたことは何でも笑いの種だ」
「や。それは違うよ」
「違う?」
「今この瞬間に苦しいということを楽しんでるの。過去を振り返って懐かしんでるときに楽しさや面白さがやってくるわけじゃない。あくまで同時並列的。二律背反的。苦しいと楽しいがこの場所に同居してる」
彼は首を振った。やっとわかりかけたのが、また元の木阿弥だ。
「それは禅問答のようなこと?」と彼は訊いた。
「かもね。私にはよくわかんない。その、宗教的な価値観は」
「僕にもわかんないけどね」
「わかってるのは、あなたが今感じてるもやもやも、それさえ『面白い』んだということ」
「ちなみに、愛すべく想うときの面白さというのは?」
「変わらないよ。『苦しい』『痛い』『眠い』とおんなじ度合いで面白い。ふざけんな、くそ、なんで私だけこんな目に、って感じてるときとおんなじ度合いでね」
紅茶を口にする。ため息を一つ吐く。それから小さな決心をする。これまでカタカタとキーを鳴らして羅列し続けたスクリプトの集合体を、ダストボックスにシュートする決意。
「まったくわかりそうにない。言葉ではわかりそうだけどね、感覚的には、ちょっととっかかりも見えないな」
「それでいいんだよ」と彼女はすっと笑う。「私もあなたも十分に理解してるなら、こんな閑話は生まれない」
「閑話とはいっても、僕には元々暇つぶしの道具があったんだけどね」
彼女はそれには答えなかった。せめて笑顔の強度を高めたくらいが返事といえる。それよりも彼女はまるで卵から孵ったばかりのヒナみたいに、恐る恐る姿勢を崩して、ぺたり、フローリングに足をつけた。
貧血に気を払うかのようにゆっくり体幹を縦にする。
「もう一つ混乱させることを言うけれど、このコーヒーはくそまずい」と彼女は指差し言った。「そしてくそまずいの瞬間は面白くともなんともない。ただ本当に純粋に真剣に、くそまずい。ぜんっぜん面白くない」それから子どもじみた得意満面の笑顔で、「でもそういうことが面白い」
捨てたばかりのファイルが入ったゴミ箱、の中身を、彼は不断の決意で空にした。もはや理解することを諦めた。つまりその方が具合がいい。
それよりソファの上に投げっぱなしになっていた財布を彼女が拾い上げたので、そっちの方にこそ気が向いた。
「出かけるの?」と驚いて訊いた。
「そこなコンビニまで」と彼女は言った。
雨はまだやまない。広葉樹の緑が萎れてる。掃き出し窓には水滴の粒。
ベランダに向けた彼の後頭部に、彼女の声が届く。
「ちょっと牛乳買ってくる!」
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