#603のアマルガムな閑話

内谷 真天

入居案内


 閑静とも喧騒ともいえない街の、新築とも建て替えともわからない賃貸の、高いとも低いともいえない中途半端な階に、今日、一組の男女が越してきた。それからたった32分で彼らは新たな既成事実を打ち立てた。

 要するに彼らはあまりにも手慣れてた。

 大量のダンボールのうち、今日中には整理のできそうにないものを素早く判断すると、それらをまとめて一つの部屋に押し込んで、その部屋に暗黙のうちにサービスルームという名前を授けてしまったわけだ。

 他の名前の候補(たとえばトレーニングルームだとか)はサンドイッチの包装紙みたいに、不必要なものとしてあっさり捨てられた。

 それが転居後32分の一大功績。

 でも32分という厳密な数字に信憑性なんてない。

 今はもう夕方の一歩前、だけど引越し業者の青い制服は午前中から頻繁に出入りしていたし、新しい家主であるこの一組の男女も、ずっと指示やら手伝いやら、し続けていた。

 32分というのは引越し業者が引き上げた瞬間か、彼らが「引っ越してきた」と実感したときからか、まあ、とにかく、一応どこかに分水嶺はあるんだけど、あんまり突き詰めなくてもいい。

 第一、部屋の一つがサービスルームと名付けられるより前から、すでに二人はここにいくつもの『決定事項』を刻み込んでいた。

 たとえば玄関からすぐ横手の部屋は、内見の時点で寝室と決めつけてしまったし、一番奥の広々した空間にも、どこになにを置こうかの青写真を描いてた。

 そしてサービスルームの一大功績より15分くらい前には、洗面室の棚にドライヤーや電気シェーバーや使いかけの美容液や、そういうのをさっそく置いて、これからの長い入居生活に、彼らの居場所を断定してしまった。

 保湿クリームはその場所が定位置で、わずかにでも動かしたら喧嘩の種になる。たった入居後15分の決定が、そうやって未来を大きく断定してしまう。

「生活というのは断定の積み重ねだよ」

 二人のうちどちらかが、いつかそんなことを言っていた。彼女の方かもしれない。いかにも言いそうな人だから。

 だから36分後にはコーヒーサイフォンが、38分後には空気清浄機が、それぞれリビング・ダイニング・キッチンに断定された。ソファとかテーブルとかカラーボックスとかの大掛かりなものはそれより前から断定されていた。

 断定は生活の積み重ね。

 なら、断定を重ねることで生活が明確にされてゆく、ともいえる。

「ほっともっとか蔵かすき家か」

「なにが?」

「とりあえずその3つなら、来る途中で看板見かけた」と彼女は言った。

「うん。だから、なにが?」

「夕ご飯はお好みの店からお選びください」

「いや、作るよ」と彼は言った。「初日はコンロに火をかけます、って、毎回言ってるじゃない。何事も最初が肝心なんだから」

「はいはい」

 知ってましたよ、そうですよ。返事なんて初めからわかってる。

 わかっているくらい、長い付き合いの二人だった。

 二人は恋人なのか、夫婦なのか、それとも不貞恋愛的なやつなのか。いや、そんなことはどうでもいい。

 どうでもいいのはそればかりじゃなくて、二人の名前も、職掌も、本来的には性別も、謎のままで構わない。ただ、それだと何かと不便そうだから、一応、「彼女」とか「彼」とかの差別化はしておく、し、この転居先とおんなじで二人に関する諸々も、いずれ「断定」されてゆく。

 今はまだ謎だらけかもしれないけれど。

 一つずつ、一つずつ。ルービック・キューブだって一手では解けないから。

 生まれたばかりの彼女と彼。生まれたばかりの603号室。そういうことにしておこう。603号室は6階だから見晴らしもいい。それも一つの断定。

 掃き出し窓をまたいでベランダに出てみると、眼下には地元の古い商店街が広がっている。景色の奥には新幹線の高架橋が斜めに走ってる。周りに高いビルがないから景色の一番奥にある山々まで、パノラマにくっきり見渡せる。

 そういう景色の最も手前には、一本の青々とした広葉樹がある。建物の敷地内に一本だけ生えていて、4階と5階のあいだくらいまで伸びてる。巨木。でも603号室までは届いてない、から、存在感はあってもあんまり景色は邪魔されない。

 ふわっと柑橘類のフレグランスが漂ってくる。広葉樹からかな、と彼女は思ったけれど、どこかの部屋の洗濯物だ。

 前とは違う場所。新しい匂い。新しい場所。やがて私たちのホームとなる場所でもある。

 横風を受けて髪をなびかせながら、彼女はうっとり目を閉じた。

「油売ってる暇、ないよ」

 はあ。ため息。

 手すりに背中を預けるようにしてリビングに振り返る。

 買い出しリストを書き出す彼の姿があった。彼女が問いかける。

「ドラッグストアと、カインズと、あとどこだっけ?」

「スーパー。うちの冷蔵庫は中身が空なので」

「今日の分だけでしょ?」

「近くに何軒かあるっぽいからね」と彼は暗にうなずく。

 会話の間も彼はずっとメモを取っていた。律儀に店ごとに用紙を分けている。

 スマホに入力しないのは、手書きの方が効率的だからなのか、それともロートルだからなのか。わからない。そういえば二人の年齢は?

 断定はじっくりすればいい。初めから大量に買い込んでしまったら他の店を見て回る機会が失われてしまう、と彼は言っている。

 けど、彼女はため息をついた。

 まったくこういう時に驚かされるのは彼の勤勉っぷりだ。ひとまず一段落ついたわけだから、彼女の方ではちょっと一息入れたい(いま既に休んでるっぽいのは別にして)。

「すぐ行くの?」

「準備でき次第」

 と答える彼の語調には、ちょっと有無を言わせないところがあった。

 でも結局、一旦ファミマでコーヒーブレイクを、が決まった。商店街の先にそれらしい店が見えてたし、折よく買い出しに向かう方面でもあった。土地勘のないところでチェーン店の看板や外装は大きな目印だ。

 で。

 玄関に鍵をかけてる最中に、彼は一つ気がついた。

「表札」

 と見上げて言った。

「差し込み式なんだねえ、ここ」

 と彼女も見上げた。

 どうして忘れていたんだろう。内見のときも契約のときも、なんなら今も、完全にうっかりしてた。そこまで重要でもないと感じてるのが理由かもしれない。

 実際に彼女の方は、

「べつに要らんくない?」と言った。

 彼はどちらかというと、その反対だった。両隣を見回して、表札が出ていることを指摘した。それからエレベーターまで向かう最中にも601号室の表札を指さした。

「ウチもつけとこうよ」

(というからには二人は同じ苗字なんだろか? それとも二人分?)

 でも彼女は言った。

「ウチだけ出してなければ、出してない人んち、で通じるよ」

「君、そんなにプライバシーにうるさかったっけ?」

「単に必要性の問題で」

「ついでだよ。たぶんホームセンターで作れるでしょ、プレート」

 ま、いいけどね。と彼女は言った。

 言ったあと、すぐひらめいた。

「んじゃ『A』とか『#603』とか、どう?」

「ソレは表札じゃなくて識別記号」

 エレベーターのボタンを押して、言う。

 そう。いみじくも表札なんて識別記号だ。だからそれとわかる形なら、なんだって構わないんだ、と彼女は言った。

 面白そうだから聞くことにした。店に向かうまでの暇つぶし。閑話、の始まり。エレベーターのドアが開く。

 表札なんて単なる識別記号だ。と彼女は繰り返す。

 だから『A』や『#603』が嫌なら『山田』さんでも『田中』さんでも、本来的には、なんだっていい。

「だけど、もし私たちが『田中』さんであったとするならだよ」

 そうすると、私たちのどちらかは、祖先が農村地帯の中心地に住んでいたっていう由来を負わなきゃならないわけだ。田の真ん中だから田中、ってわけなので。つまり何かしらの苗字を名乗ろうとすると、必ず、それに付随する何かしらの由来まで背負い込まされる。

「山田さんなら山の方に田を持っていた歴史を?」

「きっとね」

 識別記号の代わりに適当な名前で済ませばいいや、といっても、そんなことは歴史学的に許されない。一つそこに意味のある何かを加えると、そこには、徹底した考証とか、考察とか、そういうのが要求される。

「なるほどね」と彼は言う。(や、僕は本名で済ますつもりだったんだけどね。)と頭の片隅に思いつつ。でも続きを聞く。

「で、さ、こういう中で一番面倒なのは……」

 助手席のシートベルトを締めながら彼女は言う。

 名字には大体のとこ、由来以外に、発祥地というものもありまして。で、また、世の中にはそういうことに詳しい人も案外たくさんおりまして。

「だから字面がカッコイイからなんて、簡単に『五十嵐』なんて表札を掲げようもんなら、大変だよ。あなたのご両親は新潟の生まれではありませんか、とか、元々はこの苗字には濁音がつかなかったんです、とか、色々言われるわけだ」

『山名』さんですか。それなら山陰のご出身ですね。

『新納』さん。じゃ先祖はかの有名な戦国武将の……。

『渡辺』さん。やっぱり節分のときは豆を撒きませんので?

 ほら、こんなのキリがない。

「だけどなにか一つの骨格に特定の要素を与えようとするときに、私たちはその要素に付随する由来や、そういうのまで、しっかり飲み下さなきゃいけないわけだ。だってそれらのことは、もしかしたら私たちの人格やバックボーンにまで影響するかもしれない。や。確実に遺伝的に何かを与えられている。つまり現実ならね」

「なんか、創作論になってない?」

「だよ?」

「表札の話だったよね」

「どっちも同じだよ。誰が見たって偽名だとわかる『A』なら、そんな面倒なもの背負いこむ必要ないし、部屋番号とイコールの『#603』なら、みんな一目で納得してくれる。それに管理人さんも宅配業者もご近所さんも、誰も困らない」

「覚悟はするだろうけどね」

 彼は静かにハンドルを切りながら言った。

「なにを」

「厄介な奴らが引っ越してきた」

 彼女は肩をすくめた。言う。

「何かアクションを起こせば必ずなにかしらのリアクションがあるものだよ」

 サイドブレーキ。エンジンが切られる。

 コンビニまでは案外近かった。ので、閑話はこれにて終わり。

「表札。プレート。本名」と彼は言う。「覚えといて」

「へい」

 これが彼らの日常。

 独りならきっと持て余すであろう時間を、愚にもつかない閑話という手段でゆるがせに過ごそうと試みる。

 ときにゆるがせで済まないときもあるけれど。でもそこはアマルガム。うまく融和させていけばいい。

 603号室の新たな住人。

 表札のプレートは、メモしてないから結局忘れた。

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