第一輪

 伊波の目の前にいる少女はこの世のものとは思えないほどに美しく、儚く、それでいて恐ろしかった。ふわりとした亜麻色のロングヘアはリボンのバレッタによってハーフアップに結われ、上品に彩る。影を落とすほど長いまつげは僅かに上に上がり、二重の目を更に大きく見せていた。背丈は伊波より僅かに小さいくらいか。

 ふと、少女が伊波に手を差し出してきた。黙ってその手を握ると、美しい顔は満足そうに笑う。手は冷たく、小さかった。

「初めまして、今日から私のために生きてね。」

「…あたしは伊波。伊波香織。あんたの名前は?」

 少し考える素振りをして、少女はにんまりと微笑む。黒目がちの瞳を細め、桃色の薄い唇をくいっと上げた。まるで幼子がいたずらを企んでいるような、そんな無邪気さがそこにはある。

「なーいしょ!伊波の好きなように呼んでよ、私はそれに従うからさ。」

 口元に人差し指を立て、歯を見せながら笑う。この人はよく笑うのだな、なんて。向日葵が似合いそうもない少女を見ながら、伊波は心の内に呟く。

 ごうごうと強い風が響いた。少女の唇が何かを象ったけれど、あいにく伊波に読唇術なんてものはない。本当ならば、彼女が切なげな表情を浮かべながら吐いた言葉を聞きたかった。しかし、伊波がそれを知る時は来ないのだろう。そんなことを無意識に感じながら空を瞳に映すと、東の端っこがやや明るく照らされていた。朝の気配がじんわりと感じられる、絵画のような景色である。しかし、だからといって特別何かを考えることもない。あぁ朝だ、と事実を受け取るだけ。それ以上でもそれ以下でもない。そんな伊波の耳に入ったのは、太陽と同じくらい晴れやかな、それでいてどこか大人びた少女の声だった。

「伊波見て、夜明けだよ。」

 あんたの方がよっぽど夜明けらしいとは言わなかったけれど、伝わってしまった気がして。伊波は急いで取り繕うように言葉を紡ぐ。自らの心を見透かすような彼女の瞳が、伊波は怖かったのだ。

「なっ、な、名前…イヴって、呼んでいい…?」

 脈絡もない文だったけれど、それに少女は特に気を悪くするようなことはなかった。寧ろ伊波の放ったそれに歓喜を滲ませ、白い肌を紅潮させる。

 美しいよりも可愛らしいが勝るような表情は、伊波の心に柔らかく刺さった。刺した刃は蕩けて心をどろどろに溶かし、ぎゅうっと痛めつける。それを見て見ぬ振りして、伊波はイヴの抱擁を黙って受け取った。程よい軽さが預けられ、生きている温もりが肌から伝わる。その感覚がたまらなく愛おしくて、目の奥がツンと痛む。

 けれど、少女は伊波に涙を落とす猶予を与えなかった。がばりと上を向き、伊波と目を合わせる。人形のように良くできた顔は変わらず笑っており、橙色の太陽に相応しい。

「私の名前はイヴね!イヴ!ありがとう伊波!」

 キラキラとしたブラウンの眼は、宝石よりよっぽど純粋無垢に見える。この世の穢れに触れていないような煌めきが眩しくて、すっと目を細めた。猫のようにつり目の彼女はそうすると睨んでいると思われがちだったけれど。それは嫌悪どころか慈しみだと、イヴははっきりとそう感じ取った。

 同時に、これはチャンスだとも思った。彼女は伊波の想いに、胸の内の振動にいち早く気がついていたから。今しかないと思ったのだ。思考が現実に帰ってきた頃には、イヴの唇は言葉を発していた。殆ど意識せずにしたこれに、彼女自身も驚いている。

 抱き締めていた腕を離し、二人の躰は再び二つへ戻った。交わっていた体温が解けて、夏の空気に溶けていく。

「私ね、伊波にお願いがあるの。あなたにしか頼めない、大切なお願い。」

 伊波の頭の中はガンガンと警鐘が鳴っており、これ以上彼女の近くにいてはいけないと誰かが叫んでいた。ここは猛毒が蔓延る地獄への入り口だと、本能が必死に訴えている。けれど、どうにも足は動かなかった。瞳孔が細くなって、息がやや浅くなって。それでも、伊波の何かがこの場から去ることを止めていた。

 イヴの声が空気を震わせ始める。視界の端の朝焼けの色が、段々と濃くなっていくのがスローモーションのように見えた。強制的に彼女のピントはイヴへと合わせられてゆく。この躰の支配権は、とっくにイヴのものだった。

「一緒に世界を変えてほしいんだ。」

 イヴの表情は美しい人形にも、天使にも見えなかった。そこにいたのは、美しい征服者。堂々とお天道様の下で言うには突拍子も倫理も配慮もない、無礼な台詞。しかし、伊波の耳はそれをとんでもなく甘美な囁きのように感じた。

 いけないと分かっているのに、彼女について行ったらもう二度ともとに戻ることなんてできないのに。それでも、彼女の手のひらで踊りたかった。

「……イヴがそうしたいのなら、あたしはそれに従うだけ。だから…上手くあたしを殺してね。」

 出逢ったばかりの人間に放つにはあまりにも重い一言。しかし、鎖にするにはちょうどよかった。

 

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