フィクション

頭痛

序章

「ねぇ、そこでなにしてんの?」

 背後から突然話しかけられるが、驚く気も起きない。振り向くどころか微かに肩を揺らすことすら億劫なのだから、きっと相当に疲れているのだろう。

 いや、違う。もうとっくに疲れていたのだ。それなのに無理矢理走り続けたから、伊波は今ここに立っている。ズキズキと痛み続ける頭も、重い肩も。止まない吐き気も一足先に転落死した自己肯定感からも。この世の全てから解放されて、伊波はやっと楽になれるというところだった。

 高い高い高層ビルの屋上。風がこんなにも強いだなんて、ここに来るまで知らなかった。彼女はさっさとここから転落して、自ら生命を絶つ予定だったのだけれど。背後にいる見知らぬ少女のせいで、どうしてかまだ生きていた。

「あぁ、もしかして死ぬ予定だった?邪魔してごめんね。」

 少女はちっともすまなそうに思っていなさそうな声で謝罪を吐く。その声は鈴が転がるように高いのに、どこか暗い雰囲気を孕んでいた。段々と革靴で歩く音が伊波に近づいてくる。音の限りは迷いのない足取りだが、それでもどこか踊るように軽やかであった。

「遺書とか書かないの?こーゆうのって書くんだと思ってた。」

「…別に、書く人もいないし。」

 久しぶりに声を出した。そのせいか声はやや掠れており、思ったよりも小さな音となってしまう。それが少女の耳に届いたのかなんて後ろを向いたままの伊波に知る由はないが、そんなことは彼女にとってどうでもよかった。

 今すぐに飛び降りて脳をぶちまけて躰をひしゃげて死ななければ。半ば使命のような思いで、再度足元を見る。そこには誰もいない真っ暗な道があった。夏なのに明け方前のせいでまだ冷たいコンクリート。飾り気のない煉瓦の通路。普段ならば人通りのあるこの道も、この時間では誰も息をしていない。

「本当に死んじゃうの?ここから降りたらめっちゃ汚い死体になって死ぬんだよ?」

 くすりと笑うように言葉を放った少女は楽しそうで、声だけでも見目がいいのだと分かる。少女の言葉に僅かに反応した伊波を、彼女は見逃すはずもなかった。高くはないフェンス越しにぎゅうっと抱き締めて、伊波の躰を縛り付ける。

「どうせ死ぬなら、私のために生きてよ。」

 その台詞は優しい鎖のように、二人の躰をガチャリと締め付けた。明確に何かを縛ったわけでも、約束したわけでもない。

 ただ、そう頼まれたから。死ぬ前のちょっとした余興のような意味合いで、伊波は少女の願いを叶えようとした。

 それが自らの終焉となることも知らずに。

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