一軒家の内側、そして外側

夢月七海

一軒家の内側、そして外側


「本当にいたよ」


 初夏の平日で真昼の公園。小学生くらいのワンピースの女の子が、ベンチに座ってぼんやりしているのを見て、俺は思わず独り言をこぼした。彼女を探していたとはいえ、いなければいいのにと思っていたからだった。


「座敷童子、何してんだ?」


 その子に声をかけると、こちらを見上げて、パチパチパチと三回瞬きをしてから、驚いた様子で口を開いた。


「なんだ、ぬらりひょんか。どうしたの、韓流アイドルみたいな格好だけど」


 今の「彼女」のマイブームなんだよ、と言いかけたが、話が長くなるので、「まあ、それはいいけど」と濁す。はっきり言うと、無駄話している暇はないのだ。


「ターボばあさんから、家に寄り付かずにふらふらしている、とは聞いていたけれど、その通りだったな。一体いつから放浪中だ?」

「ええと、三年くらい」

「長いよ。人間の中学生や高校生が、入学してから卒業するまでじゃないか」


 妖怪ならば、さほど気にならない年数ではあるのだが、あえて人間に例える。その重要さが伝わっているのか、座敷童子は何も言い返せずに顔を顰めた。

 人間は、生まれてから死ぬまで、どんなことをしても人間のままだが、妖怪は違う。自分の行動と存在意義が直結していないといけない。例えば、ぬらりひょんなら家人に気付かれずに侵入する、座敷童子だったら住み着いた家に幸福をもたらす、のように。


「座敷童子が『何もしていない』時期をこれ以上過ごしたら、お前は消滅してしまうぞ。なんでこんなところにいるんだ」

「分かっているよ。分っているけれど、なんかいい家が見つからなくて……」


 座敷童子は気まずそうに目を逸らして、靴の先で地面をグリグリとえぐる。

 俺からすると、ただのわがままにしか思えない。苦いからと、風邪薬を飲みたがらない子供のようだ。


「この辺りの良い感じの家をリストアップしたから、一軒選んで取り憑けよ」

「わざわざ作ったの? 意外とマメね」


 俺から手渡されたファイルを、眠そうな顔でペラペラ捲っていた座敷童子だが、すぐにその目を大きく見開いて、こちらを見上げた。


「何これ。独居老人ばかりじゃないの」

「ああ。あえてそうした」


 座敷童子が文句を言おうと口を開いたが、俺はそれよりも先に厳しく言い切る。


「お前の好みが、三人以上の親子というのは分かる。だがな、小さい頃は味が苦手だった食べ物が好きになるように、急に平気になることもあるかもしれない。これを機に、克服したらどうだ?」

「……そうね、あんたの言う通りかも」


 普段だったら皮肉が返ってくる場面だが、座敷童子はファイルに目を落としたまま、寂しそうにそう言うだけだった。俺は、思った以上に重傷だぞと、頭の中で呟く。

 それどころか、「ファイルありがとう」と言って、ベンチから離れて歩き出したのだから、俺はそれを呆気にとられたまま見送ることしかできなかった。






   〇






 最近、家の中に誰かがいるような気がする。

 そんなはずがないと、私は頭を振る。私は一人暮らしだ。確かに年老いているが、ボケていないはずだと。


 だが、可笑しいと思う事は時折ある。自室で寝ている時に、廊下でパタパタと走り回る音が聞こえたり、障子の向こうをふっと誰かが横切ったり。

 幽霊だろうか、と考えたこともある。だが、その割には主張が大人しい気がする。遊び盛りの子供のような、可愛らしいものだ。


「ああ、今日も茶柱が立っている」


 そんなことを考えながら、こたつで湯飲みを覗き込むと、茶柱が立っていた。昨日も一昨日も、茶を飲むと茶柱が立つのが普通になっている。

 無くしたものがすぐに見つかる。日用品が切れる前に気が付く。室内で転ばない。洗濯物や布団を取り込んだ後に雨が降る。そんな小さな幸福が、この家の中で起きていた。


「もしかすると、君は座敷童子なのかい?」


 思わず、虚空に呼び掛けてしまう。もちろん、誰からも返事がない。それでも私は、続けずにはいられなかった。


「もしそうだったとしたら……贅沢は言わない。もう少しだけ、この家にいてくれないか」


 ぽつんと呟いた言葉が、湯飲みの上で波紋に変わった。あまりに寂し気な響きに、自分で笑ってしまう。

 子供が家を出て、妻にも先立たれ、もう何年も独りぼっちだ。たとえ見えない相手だとしても、一緒に暮らしている幸福感に、ずっと浸っていたかった。


「ああ、そうだ。ばあさんの湯飲みがあったんだ。君も一杯どうかい?」


 私はそう呼び掛けてから、立ち上がった。そのまま、今の襖を開けて、隣の台所へと向かう。

 暖房の類をつけていない台所は、身震いするほど寒かった。その瞬間、私は心臓に繋がる血管を、誰かに直接つねられたかのような痛みを覚えた。


 胸を押さえて唸っても、全く良くならない。その場に倒れ込んでしまう。そのまま、目の前も、掠れていき……。


 —―おじいさん! おじいさん! 駄目よ、死なないで!


 その時、鈴の鳴るような可愛らしい声が聞こえた。






   〇





 人間のことを嫌いになったわけではない。でもいつの間にか、期待しなくなった。

 幸運にも巨万の富を得た人間は、すぐに調子に乗る。暖かく、楽しい家庭だったのに、すぐにお金のことで喧嘩し始める。場所も時代も関係なくて、そんな瞬間を何度も見てきた。


 とある夫婦が喧嘩の末に、離婚を決めたのを見て、私はその家を出て行った。自分のことを幸福の神だと思ったことはないけれど、もうそんな事態を招いてしまう事にうんざりしていた。

 あてもなく放浪して、このまま妖怪として消えてしまうと分かっていても、中々どこかに取り憑く気持ちにはなれないときに、ぬらりひょんが現れて、一人暮らしの老人たちの家のリストを渡された。流石、家に憑く妖怪というのか、こういうことに彼は詳しい。


 とあるおじいさんが暮らすこの家に決めたのは、元々いた公園から一番近かったから、というのがある。あまり気乗りはしないけれど、ぬらりひょんがとても心配してくれるので、その顔を立てるつもりで取り憑いた。

 初夏から冬にかけて、そのおじいさんの生活を眺めていたけれど、全く変わり映えのしない日々だった。生活サイクルが決まっていて、たとえば宝くじを買うとか、懸賞に出してみるとか、そんな冒険もしないので、座敷童子としてはやりがいのない家でもあった。


 でも、そんなに悪くない日々だと感じていた。私がもたらすささやかな幸運に、おじいさんは素直に喜んでくれる。それでまた、私も嬉しくなった。

 このまま、このおじいさんが亡くなるまで、一緒にいてもいいかも。そんなことを考えて始めた時、茶柱が立っていることに気付いたおじいさんが、突如「私」に話しかけてきた。


「もしかすると、君は座敷童子なのかい?」


 おじいさんの真後ろに立っていた私は、その場に飛び跳ねてしまった。こんな風に姿を見せないまま、人間に正体を見破られるのは珍しい事だった。

 でも、おじいさんの言葉に返答できなかった。この家に座敷童がいると分かったら、おじいさんが幸運で儲ける方法を考えるのかもしれない。そうなったら、おじいさんも豹変してしまいそうで、怖かった。


「もしそうだったとしたら……贅沢は言わない。もう少しだけ、この家にいてくれないか」


 そんな私の懸念をひっくり返すことを、おじいさんは言った。これも返答できなかった……今度は私が、泣き出していたから。

 存在してきて、こんなに嬉しい一言は聞いたことがない。人間たちは、私ではなく、私に付随する幸運しか見ていないと思っていた。こんな人に出会えるなんて、奇跡的だ。


「ああ、そうだ。ばあさんの湯飲みがあったんだ。君も一杯どうかい?」


 おじいさんがそう言って立ち上がる。涙をぬぐった私は、じゃあ、ご相伴に預かろうかしら、なんて呑気に考えていた。

 ぞわり。霊体の私に、鳥肌が立った。この感覚、知っている。濃密な死の気配だ。


 まさかと思って駆けつけると、おじいさんがリビングの床に倒れていた。苦しそうに胸を押さえている。

 このままだと、おじいさんが死んでしまう。焦った私は、すぐそばでおじいさんを呼びかけながら、全身全霊をかけて、幸福を招いた……。






   〇






「なんだか、シーサーみたいだな」


 門の上に座っていた私を見上げて、いつの間にか現れたぬらりひょんが言った。

 普通だったらムッとするけれど、おじいさんを助けた私は守護神と呼ばれても可笑しくないので、「そうかも」と呟く。ぬらりひょんもそんな反応を想像していなかったのか、虚を衝かれた顔をしていた。


 おじいさんが倒れた後、近くの公園で野球をしていた子供が、ホームランを打った。それはありえないほど遠くまで飛んで、おじいさんの家の庭に落ちた。

 子供たちは、ちゃんと謝ってボールを返してもらおうと、おじいさんの家を訪ねた。しかし、チャイムを鳴らしても誰も出ない。留守だったら、こっそりボールを回収しよう……そう思って庭に侵入してみたら、大きな窓の向こうに、倒れているおじいさんを発見した。


 子供たちは慌てて救急車を呼んだ。病院に運ばれたおじいさんは、一命を取り留めた……それが、私が呼び寄せた幸運の顛末だった。


「しっかし、人の命を救うなんて、ずいぶん無茶したな」

「うん。だから説教された」

「誰に?」

「死神」


 私が幸運を招いたのと同時に、死神が来ないようにガードもしていた。おじいさんが助かったのをちゃんと見届けると、渋い顔をした死神が現れ、勝手に運命を変えるなと怒られた。

 ごもっともな説教に、私も頭を何度も下げながら聴くしなかった。しかし、死神が「そうしたい気持ちは分かるけど」と言っていたので、彼自身も何か訳ありなのかもしれない。


「そのじいさん、今も病院か?」

「そうだよ。しばらくは帰って来ないと思う」

「このまま、子供と暮らし始めるか、施設に入るかして、帰って来ないんじゃないか?」

「帰ってくるわよ、きっと」


 意地悪ではなく心配してそう言ってくれるぬらりひょんに、私は微笑みながら言い切った。あの日のおじいさんの言葉を、私は信じてみたくなった。

 そんな思いを汲み取ったのか、ぬらりひょんもふっと笑った。


「そうだな。妖怪の勘が、外れるわけがない」

「ええ。年が明ける頃には、ね」


 そして、あの日の続きで、おじいさんは私にお茶を入れてくれるだろう。その時は家族も帰省していて、賑やかで明るくて温かい家に変わるだろう。

 青い空を見上げていても、そんな楽しそうな笑い声が聞こえてきそうだ。私に釣られて空を見たぬらりひょんも、「いい天気だな」と言ってくれたので、頷いた。




















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