第2話

 ――それから何があって、どうやって帰ってきたものか、架凛は覚えていない。


 気づけば彼女は、自分の考える最高のお洒落と最高のメイクのまま、一人暮らしの玄関の床にへたり込んでいた。

 まだそれほど寒い時期でなかったのはせめてもだっただろう。本格的な冬であれば、あっという間に凍えてしまったはずだ。


 嘘だ。

 嘘だ。嘘だ嘘だ。

 蒼維が。

 ソーイが死んだなんて。


 もっとも、寒いとか寒くないとか、そんなことを考えている余裕はなかった。


 蒼維が死んだ。

 目の前で。ファンたちの、架凛の目の前で。

 数十キロはあろうという器具に、潰されて。


 ネットもテレビもその話題で持ちきりだったが、架凛は全く見ていなかった。架凛が握手会に行ったことを知っている友人たちから彼女を案じる着信やメッセージもきていたが、開くこともできなかった。


 何も考えられない。何も考えられない。何も。


 彼女はそのまま夜を明かした。


 いや、いつしか気絶するように眠っていたらしい。いつものアラームが鳴って、彼女を起こそうとしたからだ。

「ん……」

 架凛は重いまぶたを開け、枕元の目覚まし時計に自分が起きたことを知らせた。

「あれ……」

(いつの間に、ベッドに?)

 全く覚えていないが、「休まなければ」という理性でも働いて横になったのだろうか。着替えてもいるし、メイクもちゃんと落としているようだ。

「……全く、覚えてない」

 独り言を呟けば、声ががさがさだった。ごほごほと咳き込む。身体がだるい。

 だがこれは風邪ではない。思えば昨日はあれから何も食べていないし、ろくに水分も取っていなかった。

 どんな衝撃的な出来事があっても、身体の方は空腹になるし乾きもする。「食欲がない」という状態に陥ろうとも、食べなくて済むわけではないのだ。


 架凛はふらふらと起き上がり、水切りかごに置いたままのマグカップを手に持つと冷蔵庫に作ってあるお茶を取り出した。とくとくとカップに注ぎ、飲み干して、違和感を覚えた。


「ちょっと待って!」

 彼女は知らず、叫んだ。

「このマグカップ……先月、割っちゃったやつ!」


 かわいい三毛猫柄の、お気に入りだったのだ。不注意で割ってしまったとき架凛は大声を上げ、三毛猫ちゃんに謝った。前に買ったお店へ行ったが同じものはもう売っていなくて、仕方なく別のデザインのものを買った。鳥の絵が描かれているそれも気に入っているが――。

「鳥のは……ない」

 彼女は水切りかごをチェックし、食器棚をチェックし、食卓やリビング、ベッド脇も見たが鳥のマグカップはない。そして確かに、割れて泣く泣く捨てたはずの三毛猫が手元に。


「……待って」

 彼女は額に手をやった。

「どういう、こと」


 呆然と架凛は三毛猫を見つめ、それからもう一度部屋中を見回した。

(布団が、薄い。少し前に涼しくなってきて、もう一枚出したはずなのに)

 壁を見る。

(ジャケットがかかってない)

 ハッとしてもう一度冷蔵庫を開ける。

(ナスがある! 夏場は安かったけど最近高くなってきたから買ってないのに)

 まさか。

 壁のカレンダーを見る。

 11月だったはずのそれは、9月になっていた。

 スマホを見る。

 11月15日であったはずのそれは、9月15日に――。


「いやいやいや、待って待って待って」


(夢? 昨日の件がショックで夢を見てる? あ、そうじゃなくて昨日のことが悪夢なんじゃ!?)

 とっさにそう思った、あるいは期待した。たが二ヶ月間の記憶はある。二ヶ月分も夢を見ていたにしては具体的すぎる。

「――そうだ! 握手会の当選メール!」

 スマホのカレンダーをチェックする。9月15日と言えば握手会のチケット抽選に当たった知らせがきた日だと彼女は気づいた。


(メールは、まだきてない。確か当落は夕方頃にわかったはず)

 SNSが悲喜こもごもだったのを覚えている。

 いまの時刻は朝。いつも目覚める時間帯。平日だ。本来なら身支度をして出社しなければならないが、知ったことか、と架凛は思った。それどころじゃない。

(ちょうど、二ヶ月前)

 馬鹿な、と思う。そんなことあるわけがない、と。

 だが同時に、それじゃ、と思う。

 それじゃ、自分にはできるのではないか。あの怖ろしい出来事を防ぐことが。

(いまから、二ヶ月後に……あれが)

 昨日の地獄絵図が蘇る。いや、それとも二ヶ月後、ということになるのだろうか?

 ふるふると架凛は頭を振った。大きな照明器具。その下から広がっていく大量の赤い液体。その光景を振り払おうとするかのように。


(まずは、真穂に話を聞こう)

 架凛は唇を結んで、メッセージアプリを開いた。

(あの子ならいろいろ詳しいはず)

 素早くメッセージを送ると、架凛は返事を待ちながらあれこれ考えはじめた。

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