アラームを止めるためだけに街を駆け抜けた日

透水

アラームを止めるためだけに街を駆け抜けた日

『兄貴、サブのスマホ忘れただろ。靴箱の上に放ってあったぜ。今駅に着いた、近くまで行くから持ってってやるよ』


 昨夜、何年かぶりに大ゲンカした埋め合わせだろうか。恩着せがましい言い方は癪に障ったが、届けてくれるのはありがたかったので、わかった、頼むと言って電話を切った。

 心臓が鼓動を早め、あり得ないのにスッと冷えていくような感覚に陥ったのは、端末をポケットに滑り込ませて数秒経った頃だった。


 まずい。非常にまずい。


 端末を半分ほど引っ張り出して、画面の時計を覗き見る。十時二十五分になろうとしていることを確認してすぐしまった。がんばっても十五分かそこらしかない。


 俺と同じく早めに来ていた仲間達には、弟が忘れ物を持ってきてくれるらしいから、と早口に伝えて部屋を出た。しっかりしろよ兄ちゃん、とからかわれたのは恥ずかしかったが、時間までに弟と合流できなければ、もっと恥ずかしいことになる。これくらい平気だ。


 狭くて急な階段を駆け下り飛び出した先は、屋根のかかった歩行者専用道路だ。俺がさっきまでいた部屋は、この道路に沿って建てられた細長い雑居ビルの、せまっ苦しいレンタルスペースだったので、軽く開放感を覚える。


 が、それに浸っている余裕はない。俺がこんなに急いでいる理由のひとつとして、弟には嘘の目的地を告げていた、というのがある。そこは確かに、弟が今日向かうと言っていた場所からは近いが、本当の俺の目的地であるここから近いとは言えない。全力疾走確定の距離がある。


 いざ全速力、と思ったところで、ビルのすぐ脇を通る路地に、一台のキッチンカーが停まっているのが目に入った。でかでかと立っている旗には、から揚げポテトの文字。途端に、弟のあの恩着せがましい声が、頭の中にリフレインした。


 俺は上着ポケットのコインケースをひっつかみながら、店の人がいらっしゃいませ、と言うのにかぶせるように、から揚げポテトひとつ、と叫んでいた。中にいた若い男は見るからに新人そうで、多少面食らった様子を見せたが、慌てたようにすぐ準備を始めた。


 これは保険だ。届けてくれてありがとう、という感謝の言葉以上に、小腹を満たす食い物は弟に効くはずだ。その場でいきなり「お礼は言葉だけなわけ?」とか言って、スマホを渡し渋られないようにしなくては。


 予想通り、作り置きされていたから揚げポテトは、すぐに手渡された。ケースの中が空になったから、新人はこれから揚げ作業に入るんだろう。

 つかんだ紙コップの半端な温かさは、走ったらすぐに冷えてしまいそうだ。小銭がトレイに収まったのを目の端で見届け、俺はすぐさま走り出した。


 広い歩道と車道を備えた、大きな通りに飛び出す。すぐ近くの公園を突っ切ったほうが早い、と飛び込めば、休日らしく、そこにもキッチンカーや屋台が並んでいた。遊具が並ぶようなものではなく、こうしてイベントが催されるような公園だ。天気もいいし、にぎやかなものだった。俺には楽しむ余裕はないが。


 この季節でも、料理する人の中には半袖を着ている人も見えた。そういえばさっきの新人は、あったかそうな長袖の服を着ていた、きっとそのうち後悔するんだろう、なんて余計なことを思い出しながら、俺は弟に伝えた偽の目的地にひた走る。


 急がなければいけないもうひとつの理由、というかこちらが重要なんだが、それはサブ機に設定していたアラームが原因だった。俺のためではなく、仲間達のとあるひとりのために、気を利かせすぎてしまったのだ。


 仲間達、というのは、ネットを通じて知り合ったゲーム仲間だ。その中には、案外近場にいたやつらもいた。ごく少人数の彼らとは、今日のように安いスペースを借り、ゲーム大会をするようになったのだ。

 その中に、遅刻常習者がいた。幸い、そいつはこの集合場所から近いところに住んでいて、今の俺みたいに大急ぎで準備して走れば、なんとか間に合う距離だった。


 忙しい合間を縫って来ていたり、仕事の兼ね合いで、終了時間までいられない人もいる。事前にトーナメントを組むこともあるから、そいつがいないことで時間通りに始められないのは、結構痛手だ。


 そいつは性格もいいやつで、欠点と言ったら遅刻魔だ、というところしかなかった。だから、特に仲よくなっていた俺は、そいつが寝過ごしてても間に合う時間――今日は十時四十分だった――に電話することにしていたのだ。家を出てすぐ、その設定を確認したから間違いない。


 その時ひどく暇だった俺は、アラーム音に、そいつが好きな美少女アニメのオープニングテーマを設定していた。俺はアニメにはとんと詳しくないから、そんな雑なカテゴリ分けしかできないのが、本人にも申し訳ないと思っている。


 それで、なんでそんなものがサブ機に入っているのかというと、そいつがあまりにそのアニメを推してくるもんだから、オープニング曲くらいならいいか、とダウンロードして持っていたからだ。


 つまり、四十分になったら、弟が持っている俺のサブスマホが、そのアニメの曲を大音量で再生するわけだ。冒頭からぶっ飛ばし気味の、テンポもテンションも高い、コーラス付きのハイトーンボイスが響き渡る曲を。


 歩行者信号に止められたところで最悪の未来がよぎって、焦りと羞恥で背筋がゾッとなった。そんなことになったら、兄貴に恥をかかされた、と昨日のケンカが振り出しに戻る可能性より、ゲラゲラと笑いながら、「ロック好きの兄貴が、こんなかわいいのも聞くようになったみたいだぜ!」なんて、今日から毎日夕飯の席で蒸し返される可能性のほうがめちゃくちゃ高い。というか、それしか考えられない。


 俺の友達が好きなやつなんだ、と弁解したところで、聞く耳を持つ弟ではない。弟はこういう曲も、ゲーム好き同士で集まって騒ぐ、というのも興味ないタイプで、知られてちくちくネタにされるのが嫌だったから、いつも嘘の予定を話していた。


 信号が青に変わるのを見切って、横断歩道を一番乗りで駆け出す。から揚げポテトが詰まった紙コップを片手に、一心不乱に突っ走る男。間違いなく視線を集めてるだろうが、このくらいの人目なんて気にしてる場合じゃない。


 このペースを維持できれば、偽の目的地まであと一分たらずだ。できれば二、三分は余裕を持って着きたい。この上がり切った息を、少しでも整えたいからだ。むしろ待ちくたびれた、という様子であるべき俺が、ぜえぜえ苦しそうにしていたら、それだけで何かを感づかれてしまう。


 片側三車線の道路に面した、老舗の本屋が偽の目的地だ。弟が来るであろう方向とは逆から来た俺は、こぢんまりとした自動ドアから店内に入る。から揚げポテトを上着の内側に隠し、ひりつく喉を休ませようと、大きく深呼吸しながら時間を確認。三十七分だ。バクバクと鳴る心臓を落ち着かせなきゃいけないが、弟も見つけなければ。


 あいつの歩幅とスピードなら、時間までに余裕でここに着くと踏んでいたが、早足で店内を見回しても姿かたちもない。急ぐあまり見逃して、あのノリノリの曲がその本棚の影から鳴り響いてくるのではと、気が気じゃない。


 まだ外か、と広いほうの入口から転がり出る。そのせいかわからないが、歩道に響いた自転車のブレーキ音が、あの曲のイントロに聞こえた。

 それにビビった俺はよそ見をしてしまい、ちょうど店に入ろうと方向転換してきた人とぶつかりそうになってしまった。


「うわ、あぶな……って、兄貴じゃん」

「文也! 今来たのか」


 弟の顔が、は? と言わんばかりにしかめられたのは、多分、俺がこいつのことを天の助けかのような眼差しで見ていたからだろう。本当に天の助けとなるか、はたまた地獄の使いとなって俺に高笑いしてくるかは、せいぜいあと一分の残り時間にかかっている。


「わざわざありがとな。これ、手間賃だ」


 から揚げポテトの紙コップを押し付けると、弟は困惑したようにおう、と呟いて、空いた片手でウエストポーチのファスナーを開けた。


「はいこれ。何回か通知来てたみたいだけど」


 何も見てないぜ、と言った時には、俺は既にサブ機をひったくるように取り上げていた。三十九分。落ち着いてロックを解除しアラームを開いて――


「……あれ? ない?」


 設定がない。そもそも、十時四十分という時間設定そのものがない。馬鹿な、確かに俺は家を出た時に――


 待て、


「文也すまんこれ持ってて」

「は!?」


 たった今渡したスマホをまた手に戻され、弟は抗議の声を上げる。空いた俺の手はポケットのメイン機を引っ張り出して、ロックを解除しアラームを開いて……


 設定を、解除した。画面上部の時計が十時四十分になったのは、その瞬間だった。


 間抜けな話だ。俺は昨日、確かにこの時間にアラームをセットしたし、確かに例のアニメ曲をアラーム音にしていた。でもそれは全部、今日ずっと持ち歩いていたメイン端末でやったことだったのだ。端末データを同期させていたから、メイン機でもダウンロードした音楽が使えたんだ。


「なんだよ、急な連絡か?」

「ああ、まあそんなとこだ」


 俺の肩から力が抜けて、突然何かを言われることもないと思ったのか、弟はから揚げを一個つまんで、口に放り込んだ。


「遅れそうなやつがいてな、電話しなきゃいけなかったんだ。助かったよ」


 じゃあな、と弟に背を向けて、俺は例の遅刻魔に電話をしようと、メイン機を操作する。その時、画面が急に着信に切り替わった。相手は、イベントスペースを出てくる時にからかってきた仲間のひとりだった。


 まさか、遅刻魔のあいつがもうやって来たのか。今日の俺はとことん無駄なことばかりしている、功を奏したのはから揚げポテトを確保したことくらいだ、とげんなりしながら、通話ボタンをタップした。


『おい、お前どこにいる?』

「え? ええと、本屋だ。一階が全部本屋の、あそこだ」


 つい十五分ほど前とは打って変わって、早口で急いでいるような声色だ。しかもやたら騒がしい。近くに行列のできるような店はなかったはずだ。しかもサイレンらしき音も聞こえる。というか、なぜ彼は外にいるんだ?


『そっちまで行ったのか、逆によかったな。いやな、俺らのいたビル、さっき火事になっちまったんだ』

「なんだって!? おま、いやみんな無事なのか?」

『大丈夫だ、ビルにいた人は全員避難してる。火事っつっても、ビルは壁が焦げたくらいみたいだけど、今消火作業中だよ。野次馬がうるさいんで、離れてるんだ』


 俺を驚かせるには突拍子もなさすぎるし、電話をかけてまで驚かせる理由がない。つまり、マジでボヤに巻き込まれたらしい。煙でも吸ったんだろうか、相手は苦しそうな咳をひとつして、話を続けた。


『ビルのすぐ横にいた、キッチンカーっていうのか? そいつが火元らしくて。詳しいことはわかんねーけど、揚げ物の店だったらしいから、油が燃えたんじゃないかって話だよ』


 俺の体は当然のように向きを変え、目は引き寄せられるようにある物に向けられた。腰より少し低いくらいの高さの花壇に腰かけている弟の、その手にあるから揚げポテトへと。


『今日の大会、中止するしかないかもな。落ち着いたらまた電話する。ああ、例の遅刻魔にはもう電話したか? あいつにも伝えといてくれないか』

「あ、ああ、もちろん、言っとくよ。気をつけてな」


 通話を終えると、俺の視線に気づいたのか、弟と目が合った。まだいたのか、と胡乱げににらんでくる。


 結果的に天の助けとなった弟か、間抜けた勘違いをした俺自身か、すべての元凶の遅刻魔か。一体誰に感謝すべきなのか、俺にはすぐに答えを出せそうになかった。

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