第38話

 今、自分は私小説を書くことを目指しているわけだが、私小説は自分自身が主人公となってその周りの情報を発信するわけだ。それに対して共感したり、反発したりはあるのだろうが、エッセイ、ノンフィクション、ブログといろいろないいかたがある。それらの共通点はやはり、自分が主人公になっているという点だろうか。ノンフィクションは若干違うか。


自分が主人公になっているということは、多分ネタに事欠かないだろうと最初に考えた。その反面、他者から見て面白いのだろうかというのが常に付きまとう。


以前、私小説家の方のお話をラジオでお聞きしたが、フィクション作家の方の収入と桁が違うそうだ。もちろんフィクション作家の方が多い。ただ、ネタに尽きないので長く書けるそうだ。


そんなわけで、あっさり私小説家を目指そうと思ったわけである。少々浅はかなのだが。


書いてみると意外に書けた。自分に向いているのかもしれない。フィクションも面白いが、私小説には独特の面白みがあるように感じる。自分自身の人生の中の記憶から文章を作成するので、まったく創作ではないのだが、一つの事実に対していろいろな見方をすることができる。さらに言うと、自分の勝手な解釈がある程度認められている気がする。そうできないと、あまりにも面白みに欠けるわけなのだが。


自分の経験の一つを客観的にあるいはまったく独断ドクダン偏見ヘンケンで、自由気ままに書けるのはなかなか気分のいいものだ。誰にも非難されないのだから。そんなこと言っていいのだろうか。


それはそれで、常識は常に身につけなければという緊張感はある。すごく恥ずかしい自分の文章を他人様にさらし続けるのだから当然なのだが。それに慣れてしまい、読者に甘えたらダメなような気がする。


いうのは簡単だが、実行に移すとなると、どうすれば?とりあえず、諸先輩方を見習って、重い腰を上げ、推敲を重ねる。ときには、とても駄目なように見えて、ときには、とてもよくも見える。だからと言って特別に何かなおそうという気持ちにもならない。そんな感じだ。


文章を書き終えると、発表した時点でその作品はどんどん読者のものとなっていく気がする。時には意図しない方向に読者はその作品を評価というか、持って行ってしまう。それはそれで成り行きを見守ることが面白いこともあるが、事態が悪化することもあるかもしれない。


作品を生んでしまったのだから、常に責任を感じなければならない。そんな気がする。




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