第37話

 空想ものを最初に読んだのは、もう記憶にないが、絵本とかから始まったに違いない。子供のころそういった絵を見て楽しんだので、本を読むとき、その本の内容を空想するのが好きなのだななんて今思ったりする。


フィクションが面白い。反対に全然関係ない話だが、ノンフィクションが現実の話なのは昔から不思議な感じがした。フィクションをノン、つまり否定して現実の話なのか?感覚として何かおかしい。言葉と内容が反対ならなんか納得がいく。だから単純な語彙ゴイのフィクションが面白い、という理屈は通らない、当たり前だが。


それはともかく、勉強が嫌いで、本を読むこともほとんどなかった自分が本を読むようになったきっかけは、ラノベのフィクションが面白いと思ったからだ。もともと漫画派マンガハの自分が、字だけの本を読めたのはその漫画の面白さを文字でも想像できたからだ。


思春期シシュンキのモヤモヤ感を漫画同様、またはそれ以上に、字だけで解消してくれるラノベにはかなりはまった。異世界ファンタジー物もその当時にはすでにあった。世界観などの細かな設定などにはまったような気がする。


自分ではできないような想像力で物語が展開していくため、先が読みたくて仕方が無かった。そんな感じで青春時代は読書に明け暮れものだ。つい先が気になりすぎて、今読んでいるページよりも先のページを読んだりもした。


その巻が読み終わる前に、次の巻が気になりそれを読んでしまったりした。今考えると少しお恥ずかしい次第ではある。


フィクションという分野は何もラノベだけではなく、昔から日本の文学にもあったものだ。夏目漱石の『吾輩は猫である』も立派なフィクションだと思う。とにかく昔から、日本人は空想ものが好きだ。かぐや姫なんか月からの使者なんて話、発想がすごすぎる。


おむすびころりんや舌切り雀、などもフィクションだ。動物たちが擬人化ギジンカし、生き生きと物語の中で活躍する。まるで、本当の歴史上の人物のように。


フィクションといっても全く現実の人と全く異なったものでは、共感できない。ミジンコの気持ちを考えることはふつう人にはできないことだ。そんな話をされても多分面白くない。理解できないからだ。


だから、友情や努力、恋愛などが仮想空間にも存在し、現実的な人たちにも受け入れられる。そして、仮想空間の現実を構築していくのかもしれない。


まあ、でも、はまりすぎるのもあまりよくないかも。





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