第2話
現実感の無さは自分との対話から始まったかもしれない。
頭の中で、自分の考えを整理するとき人と対話するようにすることがある。そうこうしているうちに本当にその人がいて、対話をしていると錯覚してしまうこともある。その人からその人の持っている情報を引き出そうとしても無理だ。なぜなら自分の世界の創造物なので、自分の世界を出て情報を得ることはできない。わかっているけど歯がゆい。代用品のインターネットに依存してしまうのはそのためかもしれない。
それに関しては注意が必要だ。もし実際まわりに人が現実にいる場合、自分の内面の相手との対話を重視してしまうと現実の対話がおろそかになる。現実の相手との話を聞きそびれて、下手するとつじつまが合わないことをしゃべってしまったりする。細心の注意が必要だ(笑)。そういうことは、あえて言わせてもらうと誰にでもあることだと思う。規制されていない考え、歴史的に見て原始的な生活の中で、生活様式も確立されていなければ、試行錯誤を繰り返すことである考えを決定していたはずだ。それならそれは誰にでも起こりうることで、想像でものを言わせてもらうと、歴史上いろんな人が、生活はこうあるべきだ、だからこの時の考えはこうだ、と決めていって初めて考え方に一貫性を持たせ、自分以外の他人とも話が合うようになるのではないかと思う。そう考えると、人と話が合わないのも当然といえば当然か。うがった考えである。反省。
また、もう一つの要因は空想好きというものがあるように思う。
空想とは別に、一時期超能力に傾倒したことがある。現実には起こりえないことを起こしてみたいという欲求。そのため、動くはずのない鉛筆を手をかざすだけで動くことを願う。動くことは全く信じていないのだが、動かしたいという気持ちが風船のように広がり一心不乱に念じる。結局動かないけれども。
結果として欲求不満となり、想像力は広がっていく。その助けになるのは本だった。文字という記号を頭の中で想像力を働かせ、自分なりの疑似現実を作り出す。
だから、今文を書くことは楽しい。
小学生まではあまり読書をしなかったように思う。中学に入り、母親がライトノベルを買ってきてくれた。その文庫本には結構な衝撃を受けた。内容は伏せておくが、今までの何か常識的な価値観がひっくり返って、ライトノベルを読み漁るようになった。それからは結構な活字中毒になった。
自分を思春期の時を評価すると、アニメではなく漫画派でそれは自分の中では譲れなかった。そこから漫画というものを卒業したくて無理して読書家になったという感じだ。しかし、うまく卒業はできず後々、アニメに没頭したりする。
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