信長病

真里谷

信長病

 誰のせいでもない。たまたま、原因が日本列島と呼ばれる場所で生まれ、そして時を経て死病になっただけのことである。ただし、ゆえにこそ救いがなく、誰もが振り上げた拳のやり場がない。もっとも、振り上げた誰かが、次の瞬間には織田信長になってしまっているかもしれない。「信長病」とは、そういう疫病であった。

 織田信長は、幼名の「吉法師」や自称官名の「上総介」、さらに書状でのやり取りで軽く触れただけの「第六天魔王」までが有名な戦国武将だ。だが、もはやその活躍は第六天魔王波旬さえも超えてしまった。信長は間違いなく天下人、あるいはそれに限りなく近づいた英傑であったが、なぜ信長よりも大業を成したと言える豊臣秀吉や徳川家康ではなく、この藤原氏や桓武平氏を自称する忌部氏の係累が「真の魔王」になってしまったのか。

 確たる理由は、誰にもわからない。それを当時の人間が知るには、もう遅すぎた。異変が察知されるころには、何もかもが織田信長になっていた。

 しかも、これら織田信長たちは、本来の姿をした織田家当主の信長もあれば、アニメ的美少女の姿になった信長もおり、破壊的な身体能力でダンクシュートを決められる黒色人種の信長もいた。後者の「ブラックノブナガ」の世界では、日本人はネグロイドによって構成され、近侍していた「弥助」はコーカソイドであったという。この「ホワイトヤスケ」はあまりに白いので、黒信長は「太陽を知らない世界から流れてきたに違いない」と、不遇さに涙したとも伝わる。一方で、美少女信長の世界には、美少女しかいない。美少女同士で子どもをつくるし、戦もする。そういうものである。

 これらの織田信長は、現実世界のクリエイトで生まれたイロモノであると思われていた。ところが、ひとつの数学的発見が、その考えをまったく打ち崩してしまったのである。

 解析学にたびたび登場するのが、自然対数の底であるネイピア数、ないしオイラー数である。「e」によって表記されるこの数は、代数的数ではない複素数、すなわち超越数の代表格として知られている。

 ところが、このeが「超越数ではない」ことが証明される事態が起きた。無論、これは本来の「地球」の物理法則および数学の蓄積においては考えられない事象であった。

 ちょっと待てという声もあろう。人類史を紐解けば、このような状況はいくつも現出してきた。それも確かである。いわゆる「コペルニクス的転回」という用語が残るように、「天動説に対する地動説」や「ユークリッド幾何学に対する非ユークリッド幾何学」など、常識がひっくり返るような激変はいくつもあった。

 議論は起きた。混乱も湧きでた。ただ、最も重要なのは、その過程で「不完全性定理」と「一般相対性理論」にまで狂いが生じるとともに、あらゆる世界の織田信長がより鮮明に観測可能になったという点である。

 よく考えねばならない。ニーチェが言ったように、深淵だって見つめ返してくる。ならば、織田信長もこちらを見ていないと、どうして断言できるだろう。

「で、あるか」

 初めに記録されている限りにおいて、「現実世界の現代」へやってきた織田信長は、このように言ったとされる。彼は屏風から出てきた。一休宗純がその場にいたとしたら、腰を抜かしてしまっただろう。

 さて、織田信長が現代へやってきただけなら、話は早い。世界が滅ぶこともない。宇宙さえも。

 しかしながら、信長は次々にやってきた。ある時はラッシュアワーの山手線の扉前に仁王立ちし、ある時は歴史に残るどの忍者よりも卓越した能力によってビル群を飛び交って。

 さらには、ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺を阻止した。この織田信長はマウンテンゴリラの信長であったが、自らを間違いなく織田家当主として認識し、ケネディを救うという自発的な意志によって、テキサス州ダラスへと現れた。

 信長が時空を超えた。そのうえ、人間以外が信長になった。大変な話である。

 超国家的組織としての時空監察局が統計を終えた頃には、世界人類の三割ほどが織田信長になっていた。この調査の過程でも、チームのメンバーが次々に自らの「信長性」に目覚めたし、ケネディ暗殺犯と考えられているリー・ハーヴェイ・オズワルドも織田信長だったことがわかった。まるで初めからそうだったかのように、副大統領のリンドン・ジョンソンも、FBIで大権を振るったジョン・エドガー・フーヴァーも信長になっていた。

 もはや「信長に至る病」は防ぎようがなかった。そもそも、歴史が何もかもを信長にしていくのだ。どうやって防げというのだろう。根強い論説として人気だったレプティリアン説、いわゆる「ヒトに擬態した爬虫類型生命体」の存在を声高に叫んでいたのは、実はティラノサウルス・レックスの末裔である「本物のレプティリアンの織田信長」だった。そして、宇宙からやってきていたヒト型爬虫類は本当にいて、この織田信長はうっかり少女型織田信長になってしまい、「ヒトに擬態した爬虫類の知的生命体で世界征服を企んでいる美少女の織田信長でお付きのメイド織田信長と清洲城に住んでいる」ことがわかっている。

 奇妙なことに、これら織田信長のほとんどすべてが、自らの居城という名の住まいを「清洲城」と称していた。「岐阜城」でもなければ「安土城」でもなく、何なら生誕した場所と考えられている「勝幡城」でもない。

 ユリウス・カエサルが織田信長になったころ、人類の生き残りは「信長タイムライン」からの退避壕を作製することに成功した。すでに物理学的レベルで「時間そのものが信長になりつつある」なか、三つもの計画が成功に導かれたことは、驚きに値することだった。

 確実に、驚くべきだったのだ。すぐれた頭脳が結集したとはいえ、何もかもが順調に進んだことに対して。

 信長は三つの「方舟」プロジェクトのうちの二つ、「トム」と「ディック」に紛れ込んでいた。方舟には遺伝子学的な検査装置を初めとした「検問」があったが、それらをもってしても信長の侵入を防ぐことはできなかった。

 方舟トムと方舟ディックの管理者たちは、信長を理解しきれていなかったのだ。歴史上の織田信長は、英邁な父である織田信秀の跡を継ぎ、親類や兄弟との争いを制し、堅実かつ柔軟にその勢力を広げた新奇にして珍奇な存在である。そこに藤原氏ないし平氏ないし忌部氏の血筋が関わっていたことは、完全に無視しきれるものではない。ただし、構成する要件としての重みは小さい。

 ゆえに、増殖する信長にとってみれば、もはや遺伝子情報に「信長性」は不要だった。そもそも、「ジャスティスゴリラ信長」が「時空スナイパー信長」と激戦を繰り広げた歴史的事実からもわかっていたが、極限状態での人間種族の保護という大目的の前に、「信長とは何ゆえに信長であるか」の省察をする時間的余裕が残っていなかった。

 したがって、方舟トムと方舟ディックは信長となった。ただ、残った最後の退避壕たる方舟「ハリー」だけは、信長とはならなかった。

 方舟ハリーは、なぜ助かったのか。それはハリーへ逃げ込んだ人々、ひいてはあらゆる生物が「非歴史化手術」を受けたためである。

 残念ながら、それは人間の歴史において、あるいは理性と呼べるものの考え方において、「非人間的であることを受け入れる」代物だった。すなわち、純然たる意味での人間は、もはやどの方舟でも生き残れなかったと考えていいだろう。

 それでも、ハリーで「自己」をつないだ人々は見た。世界が、宇宙が、歴史が、これまでの自分たちが信じてきたありとあらゆるものが信長になっていくのを。信長は破壊と変化をもたらす。否応なくやってくる、不可知にして不可避の災厄にも似た存在である。だが、災いの後には再生があり、新たな希望の種が播かれる。

 ただし、生き残った先で同じ過ちを繰り返さぬためには、必ずや成さねばならぬことがある。「変わる」ということだ。「変化を受け入れる」と言ってもいいし、より能動的に「変化する」とさえ表現すべきかもしれない。

 信長はすべてを変えるが、同時に保守性も有する改革者でもあり、何より極上の破壊者だった。今やハリーの外において、数字の始まりはゼロではなく信長である。あまりの事態に、弥勒菩薩が数十億年ほど前倒しで下生されたが、そこにブラフマー信長、ヴィシュヌ信長、シヴァ信長が立ちはだかり、一秒に一回は信長世界が滅んでは生まれた。

 かくして、太陽系は当然に信長系で、かつオリオン腕は信長腕であり、やがて天の川銀河は「天下布武」にして「天の川布武」によって信長銀河となり、ついにはおとめ座銀河団をも信長が席巻した。

 だが、幾億幾兆もの破壊と再生を経てたどり着いた乙女・ザ・信長銀河団を待ち受けるように、とてつもない勢力が現れたのを、方舟の人々は見た。それはケンタウルス座銀河団をまとめあげた、信長とはまるで違った「信長ならざりしテーゼ」であった。

 信長は、新たなる正対者との戦いに挑む。一千兆と一千兆の戦いの果てにあるものは、また次なる一千兆の戦いである。これら銀河団とて、ラニアケア超銀河団を形成する一部に過ぎない。グラハム数のような巨大自然数をもってしても、その戦いの規模や回数を表記することは困難だろう。

 それが信長であり、歴史なのだ。方舟の人々はそう知っていた。同時に、彼らはすでに歴史なるものを永久に放棄した。ゆえに、そこに抱く感傷はない。ただ、生まれては消えてゆくのを、「破壊のあとに生じたる『在り得ないもの』」の知覚でもって、超越する円の外側から観測するのみである。

 信長もまた、逃げ延びた人々を知っている。だが、もはや厳密には「人々」ではなくなった彼らに対して、一切の興味を失った。信長の悪疫にも例えられるような進撃は、決して止むことはない。そこには、性や生の壁すら破壊した熱情のみがある。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

信長病 真里谷 @mariyatsu2022

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ