第5話 お友達は小さな騎士様



 


「イグルス・エルツベルガーが参りました!」



 それはまだ日の沈む前。

 初夏の暑さに窓を開けて寝始めた事もあり、はっきりと聞こえた元気な声に私は目覚めた。


 イグルス、いくら何でも早すぎでは?と思いながらも恐らく本体ではないアルトゥルに着替えを手伝って貰う。

 アルトゥルの吸血鬼の力は“複製”であり、その能力故にこの公爵邸で働く者は彼1人だった。

 以前は大勢いた使用人達は、ロッテンマイヤーからの刺客だったり盗みを働いたりで、数百年前にアルトゥルが全員まとめて暇を出したと1度目に聞いていた。

 寝ぼけ眼でこの有能な執事にイグルスの所在を聞くと、応接間に案内される。



「へぇ、なるほど。イグルスは弟がいるんだ。君にはついこの前加護をあげたけど、弟には加護を授けた記憶はないなぁ。何色なの?」


「はっ、はい。弟は母に似て、栗色の髪に僕と同じ青い瞳をしています!」


「そうなんだ。可愛いねぇ」



 ソファ越しにお兄様に絡まれているイグルスは、完全に萎縮しきっていた。

 当たり前である。吸血鬼の恐れる最高齢の“宝石”だ。少年が立ち向かえる相手ではないのだから。


 緊張のせいかしっかりと握った両手はズボンに皺を作っていて、それを見るに見兼ねたアルトゥルが会話を遮って声を掛けた。



「我が君。お嬢様がお目覚めです」


「ああおはよう、私の可愛いリーゼ。今日の菫色のドレスは瞳によく合っていて似合っているよ。お姫様は今日も美しいね」



 全く私に気がついていなかったのに、よくもまあ次から次へと褒める言葉が出るものだとお兄様に関心する。

 一度目の人生からお兄様の本気か分からない褒め言葉はよく聞いていたので、嬉しいですわと適当に返したが、初めて聞いたイグルスは頬を真っ赤に染めた。とても可愛い。



「さて、リーゼ。イグルスと遊んでおいで。屋敷でも案内してあげるといい」


「分かりました」



 イグルスは失礼しますと礼儀正しくお兄様に頭を下げて席を立った。いい子である。

 イグルスはそう言えば一度目の時も礼儀正しく、作法に厳しかったなと思い出した。

 そうだ。お茶の時間、クッキーを喉に詰まらせかけた事がある。その時にはあの妖精のように綺麗な顔を般若にさせて怒られたのだった。

 王太子妃様、お行儀が悪いですよと幾度となく言われた記憶がある。

 私、ひょっとして問題児だったのでは?と一瞬思ったが大丈夫。二度目の人生ではしっかりやりますもの。


 こうして毎日断片的に記憶を思い出せば、いつか誰に殺されたか思い出すのかな。

 もしその誰かを思い出した時、私はその誰かに対してどうするんだろう。

 それが少し怖くはあった。




「此処が最後で温室よ」


「流石、公爵様のお屋敷ですね。うちの5倍はありました……」



 子イグルスと子リーゼロッテの小さな脚では、普通の屋敷の探索にも時間がかかった。

 イグルスは初めこそ1度で覚えようと頑張っていたけれど部屋の数が50を超えてから諦めたようで、そこからは少し楽しそうにしていたのでよかった。


 珍しく灯りを付ける当番のアルトゥルが忘れていたのか、温室前のランプは着いて居らず、月の光だけがイグルスと私を照らす。


 歩くのも疲れたし、もう花壇の淵に座ってしまおうと思ってドレスの裾を少し持ち上げると、イグルスは少し驚いた顔をしてあの、と小さな声を出した。



「ドレスが汚れてしまいます」


「気にしないわ」



 どんなに血だらけにしても次の日には魔法のように超有能な執事が綺麗にドレスを洗濯出来ることは一度目で学習済みだ。

 だからこそ、どれだけ血だらけにしても大丈夫とでも思ったのか何度もぐちゃぐちゃにされたけれど。


 気にしないと言えば、イグルスは黙った。

 その海色の瞳は気まずそうに揺れていて、花壇の淵に座った私が目を合わせようとこの少年を見れば一瞬目が合ってまたすぐに気まずそうに逸らされる。

 何か言いたげなのに言えない。そんな葛藤が感じられた。



「どうしたの?」


「何でも……ありません」



 いつもは狼が吠える屋敷のすぐ側の森も何故か今日は静かな日のようで、この場は静寂と月の光にだけ支配されていた。


 昔から沈黙はあまり得意ではない。

 ジークが側近だった頃はお喋りなジークが延々と話していたし、お兄様はあの調子だから沈黙に困る事はなかったんだけど、王家に嫁いでからは私にたくさん話してくれる人はいなかったから、いつもつまらなかったような気がする。


 何か話題を…と思って周りを見渡したら、向かいの花壇に見覚えのある花を見つけて、ちょっとした記憶を思い出した。



「見てイグルス。あの赤い花、人喰い花なんだけど人じゃなくて吸血鬼だったら食べると思う?」



 真っ赤な薔薇に似た綺麗な花だ。

 私の夫となったシンシア・カルロ王太子があの花にカルロ帝国に無断侵入した人間を近づけてばくっと食べさせて処刑していたのを思い出す。


 小さな花なのに花弁に触れた途端、巨大化して人間を丸呑みするのだ。

 もし人間だけではなく吸血鬼も食べたら花の名前を変えてあげなければな、と笑えない冗談を言う王太子と叫ぶ人間を見て私は考えていたな。


 …あの時は王太子妃だったから危険だって言われて出来なかったけど、今なら試しても怒られないよね。

 腕の一本なら何時間かしたら勝手に治るし、最悪お兄様に助けてもらおう。

 立ち上がって花に向かって手を伸ばした。

 まさに花弁に触れようと思った瞬間、私の手は叩き落とされる。花弁に触れた白い指は私ではなくイグルスの指だった。


 結果としては花弁に触れても花は巨大化しなかった。

 そして、豹変したのは花ではなくイグルスだった。

 リーゼロッテ様…とさっきの可愛さとは真逆のトーンの呻き声を皮切りに可愛い少年は爆発した。



「人喰い花だと知っていたのでしょう?!危ない事はしないで下さい!何考えてるんですか?馬鹿なんですか?さっきだって…ドレスはレディなら汚さないようにして下さい!」



 一息に言い切ったしかめ面のイグルスは、ぜえぜえと息を整えて5秒停止し、明らかな絶望を顔に出してその後膝から崩れ落ちた。

生意気を言って申し訳ありませんでした、リーゼロッテ様と小さな声が聞こえて以来、顔を上げようとしない。

 大丈夫?と声を掛けて私自身も屈めば、ぽたぽたと雫が地面を濡らしている事に気がついた。何故かイグルスは泣いているのだ。

 泣いている子供を放ってはおけなくてヨシヨシと頭を撫でると嗚咽が漏れた。



「やっぱり僕はっ、リーゼロッテ様の側仕えには向いていないのですね……」



 顔を上げたイグルスの青い瞳はゆらゆらと揺れていて夜の海のように見えて、不謹慎にも綺麗だなと思う。

 今のやり取りで側仕えに向いていないと感じたイグルスの思考が分からなくて、どういうこと?と聞くと感情を爆発させてイグルスが話し始める。



「側仕え選考の時にっ、僕はエスメラルダの髪色で選ばれたのだから務まらないから辞退しろと言われて…っ、悔しくてしっかり、完璧に務めようと思ってたのに…っ、リーゼロッテ様が無茶するから怒ってしまうし…」



 なるほど。

 一度で部屋を覚えようとしていたり聞き分けがやたら良かったのは、そういう背景があったからなのね。

 可哀想に、私がイグルスを選んだ事で嫌な事を言われてしまったのだろう。

 でもやはり、イグルスは強いなと思う。

 1度目の私が10歳の時に同じ事があればきっと辞退していると思う。

 イグルスが近衛騎士になるなんて信じられないと思ったけれど、きっとこの強さがあったからなんだろう。



「私が良くないことをしたら止めていいし、反論していいの。それに、そう…側仕えだけど、私たちはお友達同士なんだから完璧じゃなくていいじゃない」



 “完璧じゃなくていい”

 話を聞いている途中に思い出したこの言葉は、私がイグルスに貰った言葉だった。

 エインお兄様は私の“宝石”を愛していると気がついてから、自分を見て欲しくて、価値があると思って欲しくて王太子妃に立候補したのだ。

 やっぱり“宝石”の子供だから私は王太子妃になれたけれど、本当に出来の悪い子だったと思う。

 屋敷にいた時はアルトゥルに、王宮で暮らすようになってからは王妃様にいつも叱られていたし、他の人が一度で出来ることも私は何度も練習しないと出来なかった。


 完璧以外価値はないと努力する日々は私にとって辛いものだった。

 でもある時、失敗して落ち込んでいるときにイグルスに言われたのだ。


 “王太子妃様が努力されているのを皆知っています。いつも完璧でなくとも…たまには及第点位でいいのではありませんか。”


 努力を認められて、完璧じゃなくてもいいと言われて私はその時確かに救われた。

 言ってくれた人にその言葉を返すなんておかしな事だけど、悩んでいるなら今度は私が伝えたい。



「完璧じゃなくても、嫌になりませんか?」


「当たり前よ。」



 涙が止まったのか、じっと私を見つめる瞳は真剣だった。

 まだ残っている涙の跡をそっと拭って微笑めば、イグルスもようやく笑った。

 良かった良かった。

 それにしても一体誰がそんな事を言ったんだろう。

 イグルスに辞退されたら困るし、そもそもイグルスを選んだのは髪色なんて関係ない。

 あの中でただ1人、私が困ってることに気がついて心配してくれたからなのに。


 そう思って少しむっとして言えば、イグルスはぱちぱちと目を瞬かせた。



「僕の髪が“宝石”だからではなく?」


「あっ、そこはノーマークだったわ。でも確かに、お友達同士でお揃いってちょっといいわね」


「全く。リーゼロッテ様ったら、奇跡の“宝石”をそんな扱いして……」



 言葉では咎めるみたいに、だけどとても嬉しそうにイグルスは苦笑いを浮かべる。

 そんな彼はさっきよりずっと生き生きしているように見えた。

 きっとこの子ならいい友達になれる。きっと、2度目でも味方になってくれるはずだ。



「ねぇイグルス。出来ればその……味方でいてくれない?出来るだけ長い間……」


「いいですよ。リーゼロッテ様が間違えた事をしても、僕が怒ってあげます」



 出来るだけ長い間、と少し弱気に保険をかけて恐る恐る尋ねれば、案外あっさりとした返事が返ってきた。

 …怒られるのは遠慮したいけど、言いたい事も言えないよりはいい関係だよね。


 叱ってくれる妖精さんみたいな可愛いイグルスがいれば、きっと大事になる前に止めてくれるはず。

 私が痴情のもつれに巻き込まれる前に今度はストップが入る。間違いない。


 2度目、案外余裕じゃないか…?

 後にこの判断を甘すぎると泣く事になるがこの時はそんなことに気が付く訳もなく、私はただ新たな子供時代の始まりを喜んでいたのだった。


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