極限ジャンパー、誕生

桁くとん

極限ジャンパー、誕生




 おそらく誰もが一度は密かに経験している危機一髪な状況。


 俺はまさにその状況に直面していた。


 朝の満員電車の中。

 3年に渡る大病禍の以前よりは空いているとはいえ、前後左右の乗客と体が密着した状況。


 そんな中で、俺は猛烈な便意に耐えている。


 朝、冷えた牛乳を一気に飲んだのが悪かったか?

 それとも昨夜友人と痛飲したテキーラが悪いのか?


 思えばこの便意は、朝家を出る時から小さな種として俺の内にあった。

 だが、それは本当に小さな種だったため、俺は出勤時間を優先してトイレではなく玄関直行を選んでしまった。

 そして電車に乗った後、その種は徐々に、だが確実に膨らんだ。

 だがタチの悪いことに、次の駅で降りてトイレに駆け込もう、そう思う度にスッと落ち着く。

 それを繰り返して今や便意は大きく育ってしまった。


 あと2駅で会社最寄駅に到着する、それが今だ。

 だか、今回の波はとてもあと2駅持ちそうにない!


 俺は吊革に掴まりながら、尻を微妙に突き出した格好で、己の体と対話する。


 どうなんだ、今俺の肛門付近まで降りて来ているオマエ、オマエはエアーなのか、それともウォーター状のPoopウンチなのか?


 いや、エアーであっても、おそらく相当な悪臭が車内に漂う。

 おそらくすぐに発生源は特定される。

 であれば、肛門から排出する訳にはいかん!


 ぐっと括約筋に力を籠めると、俺の腹にとぐろを巻く便意が排出を阻まれたことに反発するかのごとく冷えた痛みにも似た不快感を強烈に主張し、暴れ出す。


 更に悪い事には腸で荒れ狂う便意の影響で膀胱が刺激され、尿意も蠢き出した。


 ぐはあっ!


 俺の背筋に、電撃のように悪寒が走る。


 俺は冷や汗が滲み出るのを感じつつ、吊革に両手で掴まり目を閉じながら必死で耐えるしかなかった。


 こんな時に電車が揺れ、前後左右の誰かが俺の腹に接触すると、それが刺激となって俺の中のダムが、なみなみと満ちたダムが、決壊しかねん!


 俺は更に腹を守るように、尻を更に突き出して前傾姿勢になる。


 もし満員電車の中でなく、俺がただ一人この姿勢で荒野に佇んでいるのであれば、俺の姿を見かけた者は、俺が敬虔に神に祈っているとそう感じるであろう。


 そうだ、俺は祈っている。

 俺の中の便意に、これ以上暴れぬように、と!


 ガタン、ギギィーッ


 その時電車の車輪が軋み、電車が止まった。


 俺の周囲の乗客がその反動で俺の体にぶつかるが、どうにか俺は腕と突き出した尻でその衝撃を受け止め、核心部分の腹だけは死守した。

 だが、僅かな振動であっても、じわりと下腹部の尿便意は蠢く。


 ――只今、信号の確認のため、停車しております――

 ――ご迷惑をおかけ致しますが、しばらくお待ち下さい――


 ふ・ざ・け・る・な!


 神よ、もしも存在するのならば、何故こんなむごい試練を俺に課すのか!


 このままでは、俺の人としての尊厳は、間もなく完膚無きまでに叩き落とされる。

 この電車に乗っている人々は、俺のことを永久にニオイと共にクソ漏らし野郎として記憶する。

 もはや通勤でこの路線に乗ることはできなくなる。

 そればかりか、会社の人間にもクソを漏らして遅刻する締まりのない人間として評価される。

 社会的に、死ぬのだ。


 頼む、神よ、もしもこの卑小な俺を少しでも哀れに感じてくれるのであれば、この荒れ狂う尿便意を鎮めてくれっ‼


 だが、そんな俺の祈りをよそに、俺の下腹部のどす黒く渦巻く尿便意はどくん、と脈打つ!


 むはっ!


 思わず漏れた吐息。俺は必死で耐える。


 どうにか今は耐えられたが、次の波には耐えられるかどうか……


 引いて行く便意の波が沖合で満ち、またしても押し寄せる。


 がはっ‼


 どうにか俺の括約筋と前立腺は今回も耐えてくれた。


 だが……もはや時間の問題だ。


 既に俺の括約筋と前立腺は、長時間の収縮によって疲労しヒクヒクと緊張が解けようとしている。

 次の波には耐えきれまい。


 少し、ほんの少しだけ、尿だけでも、パンツが少しだけ濡れる程度、放出ベントしてやってもいいんじゃないか……?


 甘い囁きが俺の脳裏をよぎる。


 だが、わかっているだろう、俺。

 そんな微細なコントロールをするのは不可能だということを。

 一度出口を見つけた尿は、わずかな一穴であっても、その細い穴を大きく押し広げながら留まることなく排出するに至る。

 それと連動するように便も、一気に排出されることは明白だ。

 まさにダムと一緒だ。

 僅かな隙間からの漏水が、大決壊へと直結するのだ……


 そして俺の中の引き波が満ちた。

 次はおそらく最大と思われる波がやって来る。


 俺は吊革に体重のほとんどを掛け掴まった中腰姿勢で、目を閉じながら俺の中の尿便意との対話をずっと続けて来ていた。

 どす黒い尿便意は、俺の意思や俺の問いかけとは無関係に暴れ回っていたが、その様子を俺は観察して来ている。

 次に来るであろう尿便意の波の圧力に、もう既に俺の括約筋も前立腺も耐えられないのは、波が到達する前に悟ることができた。


 神なぞいない!

 俺の中の眠れる力よ、目覚めてくれえっ!

 この尿便意の大波を、どうにかやり過ごしてくれ!

 いや、やり過ごせなくてもいい、せめて俺の尊厳を守れる形で、この苦しみから脱出させてくれえっ‼


 俺がそう祈った次の瞬間、黒々と渦巻いた脈打つ尿便意の巨大な波が俺の下腹部を直撃した。


 これまで耐え続けた俺の括約筋と前立腺は、その波の圧力についに抵抗を諦め、肛門と尿道から勢いよく便と尿があふれ出す感触が俺の体を突き抜ける。


 もはや我慢する必要はないのだ。

 その甘美な快楽と解放感に俺は身を委ねようとした。


 だが、次の瞬間、目を閉じながら体との対話を続けていた俺はその甘美な快楽が


 パシュゥンッッ!


 という感覚と共に消滅したことに気づく。


 同時に体重の全てを掛けていた吊革が消滅し、俺は前につんのめる。


 うわっ、と思い目を開くと、目に飛び込んで来たのはくしゃくしゃの枕。

 俺はベッドの上にいて、そのまま枕に向かって倒れ込んでいた。


 何がどうしたのか、俺は狐にハナをつままれた気分だ。

 さっきまでの強烈な尿便意は嘘のように消え失せている。


 ここはどこだ?


 頭を上げて辺りを見ると、俺の部屋だ。

 倒れ込んだ枕からは、いつもどおり自分の頭皮の匂いがする。


 夢だったのか?


 だが、俺はスーツ姿で鞄も持ち、革靴を履いたままの恰好でベッドに突っ伏しているのだ。

 決して夢などではない。


 時計を見ると、今から再び駅に急ぎ電車に乗ったとしても、もう出勤時間には間に合いそうもない。


 俺は会社の上司に病欠の連絡をした。


 そして人心地ついたところで、トイレに行って履いているパンツを確認したところ、前と後ろは僅かに濡れていたが、沁み出してはおらずスーツは汚していなかった。


 新しいパンツに履き替えて部屋に戻ってTVを点けると、まだ朝の情報番組をやっていたが、アナウンサーが突然喋り出した。


 ――たった今、京浜東北線の電車内に多量の排泄物がばら撒かれる事件が発生しました――







「それがあんたが超能力に目覚めたきっかけかい、『極限ジャンパー』」


 廃工場のような薄暗くだだっ広い場所。

 デッキブラシと水の入ったバケツを持った厳つい外見の男は、今話し終えた男にそう訊ねた。


「ああ、そうだよ。どうも極限まで高まった尿便意から脱出するためにテレポート能力が発現したみたいなんだ。人前での失禁という社会人としての死から危機一髪逃れるためにね。

 まあ、恥ずかしい話ではあるけども、今後コンビを組む君には知っておいてもらった方がいいかと思ってね」


 話しかけられたひょろりとした優男は、軽妙に応えつつも表情だけは硬く険しく、苦しそうだ。

 優男はその表情のまま大きなコンテナに取り付けられた背負い紐を慎重なゆっくりとした動作で背に通し、震える内股姿勢でコンテナにもたれかかる。


「それで、受け答えはやけに余裕のようだが『飛べる』のかい」


 水の入ったバケツを床に置きながら厳つい男が言った言葉に優男が返答する。


「ああ、慣れたもんでね、今も便意は極限なんだが、こうして平気そうに話すことは出来るようになったのさ。

 おっと、来た来た! じゃあ後は頼んだよ」


 優男がそう返答し、苦しそうだった表情が何かから解放されてだらしなく緩んだ瞬間、優男の姿はコンテナと共にふっと掻き消えた。


 そして、直前まで優男の姿があった場所の空中には尿と下痢便が入り混じった汚物が飛散し、床に飛沫をあげて撒き散らされる。


 厳つい男はしばらく鼻を手で摘まんでいたが、空気が落ち着いたところでふうっ、とため息をつき独り言ちる。


「まあ、ロケットの排出物なんかに比べりゃ、まだ環境にはいいのか? 重量、容積に制限はあるが、一瞬でどんな遠隔の現地でもモノを運べるんだからな。

 しかし、尿便意キッカケのテレポーターって、どんなんだよ。

 体内の溜まりきった便と尿から逃れるためにテレポートしてるんだろうが、結果その場に糞尿まき散らしてくってえのは……社会人としては間一髪アウトだろうよ。

 ま、そうは言っても、これの後始末すりゃいい金は払うってんだから、他の危ない仕事に比べりゃ文句は言えんがな」


 そう呟いた厳つい男は、バケツの中の水を床にぶちまけ、デッキブラシでガシガシと『極限ジャンパー』のまき散らした糞便の付着した床を擦り始めたのであった。





     










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