第18話 黒百合の小径

本堂全体が蝿女から放たれる妖気でガタガタと震えていた。


幽玄はかろうじて動きを抑え込んでいたが、もはや蝿女からの憎悪が溢れ出ていた。


「クッ、もはや押さえきれん。涼水、涼雲を連れてはよ、逃げよ」


バタバタと這いながら気絶した涼雲の方へ向かう。

「お、お前さまを信じておったに……」


そう言いながら、蝿女は咳き込みつつ、嘔吐する。それは緑色に変色していた。


「ここには七兵衛はおらん!」


蝿女の視線の先は涼雲を揺すり起こそうとする涼水だった。


涼水は恐れながらも、蝿女に警戒の目線を送っていたが、ふと妙なことに気がついた。


血の涙を流す蝿女の目から、憎悪と共に哀傷の色が入り混じっていたからだった。


涼水は蝿女に目を奪われ、恐怖で硬直しながらも涼雲を起こして逃げようとしていた。


ただ、涼雲を抱えて逃げることは不可能だった。幽玄はジリジリと踏ん張っている足が後ろに押し込まれつつあった。


「お前さまを支え、立派な名主と言われるまで……。それだけがわたくしの願い……、それが……それがどうして……」


幽玄の黄色の札を抑える手が限界を超え、震えていた。


「こ、このバケモノめ……」

幽玄のその言葉を聞いた刹那、蝿女は怒り狂い、額の札は一瞬で燃え尽きた。


「うわぁあああ!」


次の瞬間、幽玄は吹き飛ばされていた。


蝿女は四つん這いに構え、ギョロリと涼水の方へ視線を向けて猛進しようとした時だった。


「待て! お猪や。其方の恨みの矛先はわしじゃ」


本堂の奥から和尚が入ってきて声を荒げた。


その声のする方向へ蝿女はギョロリと怒り狂った視線を向けた。

「お、和尚ざばぁ……。この恨みぃ……グゥグゥグゥ……はらさいでかぁ……」


蝿女は怒りで震えながら、首をカクカクと不気味な動きを見せながら向き直した。


「すまぬ。出家した身でありながら欲をかいた。その上、お主をそのようなおぞましい妖怪の姿に変えてしもうたのはわしの落ち度。わしを喰ろうてその恨みを晴らせ!」


——————ガァガァガァガァ


蝿女は吠えつつ、ゾッとするような大口を開けて牙を剥き出しにした。

そして和尚の右肩にかぶりつき、喰いちぎった。

——————ギャアアアア


「和尚様!」


和尚は血を吐きつつも、涼水へ言葉を返す。


「す、すまぬ。お猪はわしが地獄へ連れて行くでな……」


涼水は倒れた和尚に喰らいつく蝿女の後ろ姿を見ていた。


それは野獣が肉に喰らいつくおぞましい光景だった。


目を逸らそうとした時妙な事に気がついた。


涼水はさっきよりも蝿女の姿が人間の姿に戻りつつあることに気がついた。


どうやら、和尚を食い殺したことで一部恨みが晴れて妖気が弱っているのでは推測した。


「いつつ……」


壁にしこたま打ち付けられた幽玄が頭をさすりつつ起き上がった。そして何やら呪文を唱えると、和尚を喰らっていた蝿女が宙に浮いた。


「どうやら妖気が晴れつつあり、助かったわ。涼水、どうやら恨み晴らすまではこやつはこのままじゃ。名主殿には地獄で泣いてもらうほかなさそうじゃぞ」


涼水はあまりの恐怖に幽玄の言葉が頭に入ってこなかった。そんな様子を察してか、幽玄は多くを語らず、


「流水、そこにある、わしのずた袋を持ってこい」


涼水は言われるがまま、ずた袋を幽玄に渡した。幽玄がその中から黒い花びらを取り出した。それは黒百合の花びらであった。


「涼水、こやつら妖怪は取り憑いた場所以外はどこへも行けぬのよ。じゃが、黒百合だけは見えるんじゃ。じゃから黒百合が群生しとるところは自由に動けるんじゃ」


そういうと幽玄はボウっとする涼水をよそに封印して宙に浮く蝿女に目をやった。


「お猪よ。お主の求める七兵衛はここにはおらぬが、わしが連れてってやろう。じゃが妖怪となり、本能寺に取り憑いたお主にはそこへは行けぬゆえ、わしが小径を作ってやるゆえ、そこを通ってゆけ……」


それだけいうと幽玄はチーン、チーンと鐘を鳴らしながら黒百合の花びらをばら撒いた。


そして本能寺の本堂から外へ行き、鐘の音と共に黒百合の花びらを撒いて小怪を作った。


蝿女はその小怪を通って本能寺から遠のいて行った。


その夜、名主堀井門の屋敷からけたたましい悲鳴が響き渡った。


涼水は後日、そのことを行商人から噂話を聞いて知った。


そして幽玄のいうとおり、蝿女はその夜以降、もう二度と姿を見せることはなかった。

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