第17話 事件③
「七兵衛殿、もう寝られたか」
月夜に虫の音が響く本能寺の本堂の襖の外から和尚は声をかけた。
するとスーッと襖が開いた。奥の暗闇から七兵衛が顔を出した。
「おお、和尚か。入られよ」
そういうと七兵衛は和尚を中に入るよう手招きしてみせた。そして寝床に腰をおろすと、和尚も七兵衛を見据えて腰を下ろした。
「あれで良いのじゃ。良い芝居じゃったぞ、和尚。わしとお猪が仲睦まじい夫婦となっておるからのう。見舞いにもいかなんだと噂されては“名主”に傷がつく」
——————腐っても名主じゃなぁ
先ほどまでのお猪を心配し、見舞いに来た七兵衛とは別人のように人が変わり、冷たい声で話す七兵衛の態度に愕然とするが、状況によって自身の見せ方を変える術は人の上に立つ名主には必要な心得というところかと皮肉な笑みを浮かべた。
和尚は薄ら笑いを浮かべる七兵衛から目を背け、
「七兵衛殿、約束のものは……」
「あぁ、わかっておるわ。慌てるな和尚」
七兵衛の薄ら笑みはお猪への憎悪で薄汚れた不気味さが滲んでいるように和尚には見えた。
「お主に言われた通り、風邪薬と称して少しずつこの魔薬を混ぜてきたからのう。まさにゾッとさせる薬よ。ケッサクなのは、その薬をわしが買い与えてやった巾着に大事そうに持っとることよ。毒じゃと知らずに……ガハハハ」
ふと懐から小さな包みを取り出して開いてみせた。それは変色した緑色の粉末だった。
「ただ、なぜあのような容姿に成り果てたかとんと分からん。し、死病を発する魔薬だがあのように変わり果てるとは……」
和尚は自身の悪行に恐れをなし、顔を覆った。和尚が後悔の念に苛まれていると察してか、声を殺して七兵衛は和尚に言葉をかける。
「何やら体調崩し始めたのはこの薬とは別に、蝿を誤って飲み込んだとかなんとかお梅が心配しておったがな……。そうじゃ。そうじゃ。こりゃあ、薬のせいではないかもしれん。偶然じゃ、偶然」
「は、蝿とな……」
和尚は七兵衛の口車に乗って魔薬を処方してしまった。
実は、高熱が出るのみで死に至るほどのものではないはずだった。
それがあのようなおぞましい姿に成り果てた事に内心激しく動揺していた。ところが、蝿が紛れ込んだことが原因となると思い違いかも知れない。
——————これは確かにわしのせいではないかもしれぬ。事故じゃ
「和尚のおかげで、わしの顔が立つ。お猪がおりゃあ、わしが世間に侮辱されるだけじゃ。女子の浅知恵なんぞに頼らずともわしは立派に名主を果たせる事を証明してやるわ。ハハハ、感謝するぞ。ほれ!約束の五両じゃ」
七兵衛はぞんざいに包みを和尚の前に差し出した。
五両を両手に取ってみても素直に喜べぬ自身がいる。元々このようなことに加担するつもりなどなかった。
——————ただどうしても必要じゃった、銭が……
この銭によって救われる命がある。生まれくる新しい命がある。そのための銭であり、決して道を外しては……。
和尚はもはや良心を直視することができず、罪悪感に押しつぶされ、表情は冴えなかった。
その時、襖の外で啜り泣く女の声が聞こえてきた。
和尚はハッとして顔をあげ、襖の方へ視線を向けた。驚いた七兵衛もギョッとした表情で和尚に続いた。
そしてゆっくりと襖が開くと、そこにお猪が立っていた。
「お、お前さま! おおおぅ……お前さま‥‥これほどお慕いもうしておりましたのに、このような仕打ちをなさるとは……、あぁ熱いぃヒィ! 痛い」
お猪は蝿のようなギョロギョロした不気味な眼から涙を流し、両手で喉を押さえながら悶え苦しんで本堂に倒れ込んだ。
そのお猪の姿を見た時、七兵衛は声にならない悲鳴をあげ、腰を抜かしたまま、後退りした。
倒れたお猪は袖から巾着袋を取り出して、両手で握りつぶした。
力が入りすぎた拳はブルブルと震えている。
「こんなことって……よりによってこの中に毒を……」
お猪は、その蝿のような眼は怒りで吊り上がり、握りつぶした巾着を見つめていた。血反吐を巾着に吐きかけながら、号泣する。
「ヒィヤァ! お、お主は誰じゃ。このバケモノめ!」
「お、お前さま、なんという……ううぅ。猪でございます。お前さまぁ……」
お猪は病の苦しみと、七兵衛からの仕打ちに信じられぬ様子だった。
なんとか悶え苦しみながらもフラフラと立ち上がり、お猪は七兵衛に迫った。
「ば、バケモノめ! こっちにくるな! バケモノ!」
お猪は醜悪な蝿のような眼から大粒の涙をこぼし、口からは血反吐を吐く。
「お、お前さま……、あんまりでございます。なぜこのような仕打ちを! お前さま!」
七兵衛は顔をこわばらせ、恐怖で這いつくばりながら、枕元に置いてあった刀を手でまさぐるように慌ててつかんだ。
「お前さま……、これまでお前さまを立派な名主にと、そればかりを願っていましたものを……、なぜ……なぜでございます。お前さま! ううぅ……痛い! 熱いぃグググ」
七兵衛は恐怖で凍りつきながらも立ち上がり、お猪と距離を取りながら抜刀した。
「お、お前のようなバケモノなんぞ、知らぬ!」
お猪は怪しく光る刀に恐れ慄く表情を見せつつ、涙で頬を濡らす。
「お、お前さまぁ……」
恐怖で顔を歪めつつ、叫びながらお猪めがけて刀を振り抜いた。
「バケモノめ! 死に去らせ! キエェ」
——————ぎゃあああああああああああああああ
お猪の絶叫と共に血飛沫が七兵衛とその横で口あんぐりと呆然自失の和尚に飛び散った。
そしてさらにとどめを指すように七兵衛はお猪の胸に刀を突き立てた。
お猪は自身を貫く刀に目をやり、そして恐怖に歪む七兵衛の顔を睨んだ。
その怒張で赤く光る鋭い眼光から憎悪と殺気が放たれていた。
「お、お、お前さま……恨めしや……恨めしや! 呪うて……呪うてやろうぞ!」
七兵衛は絶命させるため、さらに貫いた。その刹那、お猪は七兵衛の顔に血反吐を吐いた。
そして仰向けに倒れ込んだお猪のおぞましい視線の先に、愕然とする和尚がいた。
和尚はただ茫然と地獄を眺める以外なかった。
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