第16話 魔物来たりて・・・
そろそろ日暮れどき。蒼空から夕景に変わり、涼水に不吉な夜になることを暗示するかのように西空が、鬼灯のような真っ赤な色に染まった。
そして逢魔の刻、どす黒い血に染まったような怪しげな空が広がっていた。
カァー、カァー、カァー……
本能寺の空を旋回しながら舞う烏の不気味な鳴き声が、本堂の窓から聞こえてくる。
やがて満月を覆うように暗雲がたなびき、すっかり分厚い雲がかかると、シトシトと雨が降り、やがて鬼雨となった。そして天が悲鳴をあげるかのように稲光と共に唸り声をあげた。
本堂で涼雲と共に写経をしていた涼水は、全神経を集中していたのは、写経ではなかった。
当然、奇妙な音がしないか索敵に集中していた。
それでも聞こえてくるのは、激しく打ちつける雨や稲妻の轟音、そして幽玄坊のイビキだけだった。「何かあれば起こせ!」と言いつけ、幽玄はそのまま寝入っていた。
「呑気で良いのう、幽玄坊は! 楽しみじゃと言うとったのにこれじゃ! それにしても、気持ち良いくらいの立派なイビキじゃなぁ」
涼雲は呆れた様子で言葉を捨てる。一方、涼水はいざとなれば幽玄坊に頼れるので、いくらか弦を緩めることができた。
「ところで兄者、今朝、名主七兵衛さぁの奥方のお猪様がここで亡くなったって話をしとったが、なんか妙な噂がどうのって……、何があったんじゃ?」
涼雲の顔にサッと仄暗い影がさしたのがわかった。その刹那、冷たい空気が張った。
「あぁ、お猪様は高熱で体調を崩してなぁ。こちらに見えられた時はすでに和尚にも手の施しようがなかったそうじゃ。お猪は毎夜うねり声をあげて苦しみ、やがて長い黒髪が不気味にも抜け落ちてなぁ。その奇病で顔は赤く腫れあがり、およそ人間とは思えぬ顔に変形したそうじゃ。誰も近づけんようになって悶えながら狂い死にしたとか……」
涼雲の口から奏でる恐怖の戦慄が辺りを静寂にさせる。その刹那、落雷して轟音が響く。
「ひゃあああ」
涼水は驚いて悲鳴をあげる。涼雲は猜疑に満ちた顔つきで続ける。
「そこで奇妙な話があってなぁ。どうもお猪様は病が原因で亡くなったのではなさそうじゃという話があってなぁ……。変じゃろ? もっとおかしな事があってのう。お猪様は常ノ魔で床に伏せっていたはずじゃが、死んだのはそこじゃのうて、ここ本堂じゃった。それにそこら中、血飛沫が飛び散っておって血の海じゃった。和尚も血まみれになっとったって噂じゃ」
「何が起こったというんじゃ?」
「わからん。ちょうどその晩、あの名主の七兵衛様がその本堂で寝とったらしいがなぁ」
「兄者は何も見とらんのか?」
「ハハ、わしゃあ、地震でも起きんよ。朝までぐっすりじゃ。その代わり、血溜まりの拭き掃除させられたわ。吐きそうじゃった……」
涼雲はわざとらしいくらいに身震いして見せた。
涼水は何か胸に引っかかるものを覚える。小さな殺生すら嫌い、弟子に厳しく生の大切さを説き、思いやりあふれる和尚だと思っていただけにこの寺で血生臭い事変があったなんて、しかも誰もそれを口にせんのが変だと思えた。
病なのに血の海とはどういう状況だったのか、なぜ死に場所が常ノ魔ではなく、本堂だったのかもわからなかった。
涼水が頭を悩ましている間、外では稲光が放たれ、轟音が体を貫いた。
庭先の木の枝の影が障子に落ちる。それはまるで妖怪婆の細くシワシワの不気味な手が伸びて襲いかからんとするかのようにみえて背筋に戦慄が走る。
その時、ちょうど幽玄が腹をボリボリかきながらムクっと上体を起こした。
「何じゃ、何事か?」
「あ、いや雷で」
「……左様か」
それだけいうとまた幽玄は寝てしまった。
三人のいる本堂を鬼雨の音と、稲光や轟音、そして幽玄のイビキだけが覆っていたが夜半過ぎ、ようやく雨がおさまってきたかと涼水が気づいた時だった。
突如、耳に届く雨の音の合間をぬって、思いもよらぬものが聞こえた気がした。
——————空耳かもしれん。
涼水はそう思ったが、どこかしらで何か聞こえたかもしれないという期待と不安の様なものがそう聞こえさせただけかもしれないと思い直し忘れようとした。
しかし、耳の奥で異様な音を確かに聞き分けていた。遠くの方で女子の啜り泣く声が聞こえてくる。
うぅ……うぅ……
涼水は全身の毛が逆立つ感覚を覚え、鳥肌が立った。
……き、聞こえる。本当に聞こえてくる。
急に心臓の鼓動が激しくなり、身体に収まりきれないほどに感じ、体温がカァッと沸騰する。
自身の聞き間違いであってほしいという願望をこめて、涼水は恐怖で凍りついた視線を涼雲に送る。
しかし、涼雲からも恐怖と緊張の糸を張っている空気感が伝わってくる。
「な、泣いておる……、何奴かが……。いや待った! それだけじゃ……」
涼水が障子の向こうの音に耳を傾けると、確かに誰かを呼んでいるかのように聞こえる。
「七……兵衛?」
涼水の声に涼雲がギョッとする表情を浮かべる。
いつの間にか幽玄のイビキが止まっていた。ふと見ると寝転がったまま、カッと眼を剥いて天井を凝視していた。
「七兵衛、七兵衛と泣いておるぞ。凄まじい妖気じゃ。やはり宗鑑から聞いておった通りじゃ。探しておるわ……。おぉ、こわや、こわや!」
涼水は、幽玄が軽口を叩いているように聞こえたが、さっきまでとは違い、緊張と恐怖感で胸が怪しく踊る様子に、急に喉の渇きを覚える。
そして“宗鑑”という意外な名を口にしたこと聞き逃さなかった。
「い、いかん! 近づいてきとる」
幽玄が血相を変え、ガッと上体を起こす。
その時、風が行灯の火を和す。そしてスッと消えて一筋の煙をくゆらした。
本堂内は仄暗くなり、周囲は何も見えない。
先ほどまで降っていた雨がやみ、雨雲が引いたのか、障子に月明かりが当たり、淡く光る。
——————涼水の額から妙な汗がしずり落ちる。
本堂の外に群生する竹林の梢が風でなびき、ザアザアと音をたて気味悪い空気がみなぎる。
涼水は、妖怪に囲まれているかのように思えた。
蛇に睨まれたように身がすくみ、冷たい汗が吹き出す。
そして身体中から体温が消え失せた。
「醜悪な憎悪が亡霊ではなく、妖怪に化けさせたようじゃ」
幽玄坊の言でサッと異様な空気が張る。
幽玄は障子近くにいたがゆっくりと後ずさるたびに板間が軋むギィという音が本堂に響き渡った。
「ゆ、幽玄坊、七兵衛というのは……」
涼水が七兵衛について早口に説明するが、恐怖のあまり震えて、しかも口が絡まり上手く話せない。
聞き取りづらく、しかめっ面する幽玄の顔が曇る。
「じゃとしたらわしらじゃ、妖怪化した女子を止められんかもしれん。猛烈な憎悪を放っておる。こりゃあ相当な恨み辛みがあったんじゃろうのう。何したんじゃ、その七兵衛とやらは!」
その刹那、揺らめく女らしき影が障子に写る。しかし、雲の流れが早く再び月を覆い、かげる。
カサカサカサ……
障子のすぐ向こうに何かがいる。
涼水は固唾を飲む。
そして再び雲が流れ、淡い月光が差した刹那、およそ人影とは思えぬ輪郭を写し出す。まさに得体の知れぬ妖怪だった。
「ひゃあ!」
涼水は悲鳴にならない悲鳴をあげ、あんぐり口を何とか両手で覆い隠す。影が物音に気付き、本堂へ向く。
「七兵衛様……、そちらにおいでに? 七兵衛様」
およそバケモノの声とも思えぬ女のか細い、涙声が聞こえる。
……顔が熱いぃ。痛い。ひぃ……七兵衛様! お、お助け下さいましぃ……
その女の首の影はカクカクカクとあらぬ方向に首が曲がったかと思えば、別の方向へ曲がりくねり、まるで蝿のように複雑怪奇な動きを見せていた。
戦慄が涼水の背筋を貫いて走る。ゾ〜ッと全身の毛が逆立つ感覚を覚える。
七兵衛様……、く、苦しい……、助けて下さいまし……七兵衛様ぁ
妙なほど背を曲げた女は、犬のようにガリガリと両手の爪を研ぐような素振りを見せながら不器用に障子を開けようとする。
そして破れた隙間からギョロッと中を覗き見た。長い黒髪の合間から覗くおぞましい蝿の眼をギョロギョロさせていた。
——————ギャアアアアアアア
涼雲が悲鳴をあげて倒れた。
女はガッと障子を開け放つと、蜘蛛のように四つん這いでガサガサと這い進んできた。
女は蠅の様な頭をもたげ、滴る血をそのままに大きな牙を生やした口から女のか細い声で泣き叫ぶ。
七兵衛様ぁ、七兵衛様ぁ……
蝿の両眼に怒張した毛細血管を走らせ、口から血がしずり落ちる。
女はカクカクと、昆虫のような不気味な首の動きを見せると、既に気絶した涼雲と、水揚げされた魚のようにただパクパクと口を動かすだけの涼水をギョロギョロ見ると、けたたましい声をあげ、蜘蛛のように牙を剥いてガザガサガサと猛進してくる。
七兵衛様ぁ……ギャガガガガガガガガァ
黒髪の合間から覗く蝿の眼から獰猛な殺気を放つ。
——————ギャアアアアアアア
涼水は無意識に悲鳴をあげ、尋常でない恐怖心で凍りつき、ただ眼を剥いて襲いかかる蝿女から逃げられず、全身の毛がさかだった。
そして怒り狂う蝿女が襲いかかるのをただ真正面で眺めるしかすべがなかった。
幽玄は呪文を唱えながら、左手の人差し指と中指を伸ばして手刀を作り、横へ縦へと払う。
涼水にまさに襲い掛かろうと覆い被さる直前に幽玄が立ちはだかった。
蝿女は勢いを失い、後退りする。そして幽玄は右手の人差し指と中指でサッと素早く黄色の札を蝿女の額に貼り付けた。
「グゥグゥグゥ……、何をじだぁ! 何をじだぁ! 動けぬ」
蝿女は猛り狂う唸り声を吐き出す。
その声で気がついたように涼水がハッと我に返った。幽玄は必死に襲いかかる蝿女をくい止めていた。
「お主は何者ぞ! なぜ本能寺を呪い、坊主に襲いかかる!」
「七兵衛ぇ様ぁ……、しぢべぇざまぁ……、グゥグゥグゥ……」
「七兵衛が如何したか! 七兵衛の所業が其方を妖怪へしたのか? 答えよ」
「我はお猪……、しぢべぇざまぁ、お慕いもうしておった……、なのに…だぁどに…」
蝿女は黄色のお札の奥から獰猛な殺気を放つ蝿の眼から大粒の血の涙を流し出した。
すると今度は蝿女が来ていた白い着物の内側から血が滲み出てきた。
それは左の鎖骨から右の腰あたりまでの刀傷のように見えた。その血のシミはどんどんと広がり、白い着物のほとんどが血まみれに変わった。
「うぅ……」
蝿女は動こうにも動けずモゾモゾしながら、血の涙を流し続けた。
「こ、これは……一体?」
幽玄の真後ろで腰を抜かして座り込んでいた涼水から思わず声が漏れた。
蝿女は血の涙を流しながら、顛末を話し出した……
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