第13話 名主堀井門七兵衛の妻 ④

茶の間の襖を閉じると、膳を持って立ち上がり、廊下を台所の方へ歩いていく。


お猪の歩みに合わせて板間がギィッと軋む。


お猪は体が重く、額が熱かった。

地震ではなく、めまいに襲われていることにしばらく気が付かなかった。


目の前の景色が歪む。膳がガチャガチャと揺れ、ひっくり返りそうになった刹那、後ろからサッと誰かの腕に支えられた。


「お猪様ぁ! 大事ないかい? こんなオラがやりますかい、ゆっくりしてちょうよ」


「あぁ、お梅さぁ! すまんねぇ。旦那様から頂戴したお薬は飲んどるんじゃが、どうもようならんで……」


膳をお梅に渡すと、お猪は土壁に手をかけて重い身体を支えるが、そのまま膝が崩れてしまう。


「誰か! 手を貸して」


お梅がお猪の肩に手を回して支える。


「お猪様。しっかりおし。今寝床を用意しますからしっかり。ところで旦那様はいかがでしたか?」


お梅が気を晴らそうと話を振ってくれた気持ちを思うと、その優しさに心の重みがいくらか軽くなるが、散々な結果を思い返すと悲しみが押し寄せ、涙が止まらなくなるので、気持ちを抑える。


すると笑顔が苦笑いに変わった。

「はぁはぁはぁ、旦那様は朝飯に全く気づかず、あまり気に入ってもらえず……」


お梅はお猪を支えながら、あまりに哀れな状況にため息が漏れたようで、

「はぁ、あれほど朝起きしてこんな体調崩してまで……」


お猪の額から汗が吹き出しつつ、引き攣った笑みを浮かべ、

「豆腐を用意したのは確か峰衞門さぁ……」


「——————旦那様は豆腐が気に入らなかったと」


「ええ、ご機嫌斜めに。硬すぎると」


「やっぱり、最高の豆腐なんかじゃなかった! 怪しいとは思っていたんですが」


お猪はフラフラながらも笑みを浮かべて首を横にゆっくりと振った。

「そうじゃないの、お梅さぁ。あれは最高の豆腐だったの。“わたし”にとっては!」


「え? どういうことです?」


お猪は弱々しく笑いながら、

「あれはわたしの実家の……、お父ちゃんの豆腐だったのよ。あれ以上、最高の豆腐はないよ。なんだかお父ちゃんに今日の日を祝ってもらったようで嬉しゅうて嬉しゅうて涙が止まらんかったんよ。あはははは。でも……、でもね、いつもの峰衞門さぁの豆腐と比べると雲泥の差。旦那様が怒るのも無理はありません」


「なるほど、そういう事で……」


「あんな遠いところまでわざわざ……峰衞門さぁの心遣いが嬉しゅうて嬉しゅうて……」


お猪は目からこぼれ落ちる涙を拭って、弱々しくも口の端に笑みを浮かべていたが、そのまま力無く気を失った。


それからまもなく、お猪は本能寺で病床に就く事になった。

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