第12話 堀井門七兵衛 ②
七兵衛は茶の間の襖をサッと開け、後ろ手で乱暴に閉めてズカズカと入った。
そして上座に腰を下ろす。しばらくすると閉めた襖の向こう側から優しい声が聞こえてくる。
「お前さま……」
今度は少し襖が開くと、その隙間から白く透き通った細い指が見えたかと思うと、サーッと品よく開いた。
そして廊下からお猪が顔を出した。泣き喚く童も心静まるような柔らかい笑みを浮かべていた。
「おはようございます。今日はいかがでしたか? よく眠れましたか。先ほど伺った際はよく寝入っていたように見えましたが……」
七兵衛は両手で顔をパンパンと叩き、ぼうっとする自身を叩き起こす。
「全然じゃ。よう眠れんかったわ……。溜池の一件がなかなか進んでおらんでなぁ……。はぁ。今日もあの怒号が飛び交う戦場に身を置かねばならぬかと思うと憂鬱じゃ」
お猪は七兵衛の言葉に耳を傾けながら、朝飯の膳を持って茶の間に入ってそばに腰を下ろした。
膳を七兵衛の前へ差し出す。そして飯びつの蓋を開けた。すると炊き立ての米の甘い香りと共に湯気が立ち上がった。
お猪は膳から椀をとると、ご飯をよそって七兵衛に差し出した。
「それなら、お前さま……、昨年溜池をこさえた半田様にどういった要領で進めたのかお聞きになってはいかがです?」
七兵衛は思わず膝を打ちかけた。全く知らぬ事案にあれこれ思案を重ねるよりも半田殿の経験を模範とすれば事はうまく進む。
それは理解できるが……。七兵衛はまたしてもお猪の助言でそこに辿り着いた事に苛立ちを覚えた。
火種が燻り、一筋の煙が立つように徐々に血が熱くなる。
「うん? ぬしゃあ、どうして半田殿が昨年溜池をこさえたと知っておるんじゃ?」
お猪は七兵衛のそばに座って静かに配膳すると、急須を手に取り茶を入れて、七兵衛の膳に置いた。
お猪は柔らかい表情をややこわばらせながら、
「あ、はい。半田様の邸宅に出入りする行商人から聞きまして……」
七兵衛は地獄を這い回っていた状況から一筋の光明を見た反面、腑(はらわた)が煮え繰り返る情をなんとか隠そうとするが椀を持つ手が震えていた。
そして温かい米を口にかき入れた。名主として自身で解決したい、しようとすればするほど空回りしている自身に腹が立った。
そして妙案でサッと解決するお猪が恨めしく、憎らしく思えてならなかった。自尊心を一刀両断された七兵衛のお猪を見る眼光を怪しくしていた。
「確かにそれが解決に早そうじゃ。半田殿に伺ってみるとしよう……」
お猪は苦笑いを浮かべながら、
「それがようございます。——————してお前さま、戸田様より書状が」
お猪が懐から書状を取り出して差し出そうとしたところ、七兵衛はご飯茶碗を膳に置くとその書状を無理やりもぎ取った。
お猪はその刹那、七兵衛から顔を背けて咳き込んだ。
「お猪、大事ないか?」
七兵衛は書状から目を離さず、咳き込むお猪に心なく声のみをかける。
「は、はい。頂戴したお薬を飲んではいるんですが……」
「そのうち、良くなるじゃろう。それより、戸田様より正月の門松についてじゃ。今年はお上より節制せよとのお達があったらしく、いつもより規模を縮小せよとのことじゃ。いつも大銭喰いの門松じゃが、助かったわ。ははは」
七兵衛は大きな問題の片割れが片付いたと心持ち身が軽くなった気がした。
お猪は胸に手を当ててやや落ち着いた様子だった。
そしてお猪は心配そうに声をかける。
「それはお前さまにとってさらなる災難になる恐れがございますね……」
七兵衛は門松こそが堀井門家にとって災い以外の何物でもないとしか思っていなかった。
武家屋敷の門松など勝手に用意すればよいものを、わざわざ名主に依頼するのは単に銭を出し渋って名主に出させているだけだと苛立つ思いを抱いていた。
しかし依頼を受けた七兵衛も出し渋るわけにもいかず、武士の顔が立つよう毎年無駄に豪勢な門松を用意していた。
それだけにこの書状は七兵衛にとって幸いだったのだが、お猪の一言に顔をしかめ、猜疑の視線を投げかけた。
「わしの災難になるとは……、一体どういう了見じゃ、お猪!」
七兵衛の言葉の語尾にやや怒号が混じりながら、飯を乱暴に口に運んだ。お猪は胸に手を当てて、咳き込んでいた。
七兵衛はそのことに心配する様子を見せず、お猪の言葉を待つ。
「はぁはぁ……、お、お前さま……。半田様が既に納めた門松で行商人が不安を口にしております。半田家は何かしら戸田様より見放されておるのではないか、このまま商売続けて大丈夫なのかと」
「それはどういうことじゃ。わからぬ。ただ戸田様よりの命に従ったまで」
「行商人たちはそのような事は知りませぬ。派手やかな門松は武家屋敷の威厳だけなく、名主である半田様やお前さまが戸田様を後ろ盾に繁栄している事を暗に意味しているのです。その規模を縮小してしまっては、周囲は堀井門家が衰退したと勘違いするでしょう」
「それではどうしろというのじゃ、お猪!」
七兵衛は自身の意見に真っ向から当然のように反対するお猪に穏やかならぬ情が胸に広がる。
そして、明らかにイラつきながら吐き捨てるように言って、椀を乱暴に戻し、お茶を啜る。
「お前さま、戸田様へ毎年の如く、門松をお納めさせて頂く旨、お願いするのです」
「な、なんと! あえて無駄銭を出せというのか!」
「は、はい。お前さま……、無駄銭ではありませぬ。全ては堀井門家の名主として威厳を買うため……。お家安泰のため。——————お前さまのため」
お猪は息苦しそうに、また七兵衛を気遣うような眼差しで七兵衛を見つめていた。
七兵衛は、お猪が同じ名主の半田家の内情を掴んでそれを基に堀井門家の行く末を按じていた事に気づいた時、敗北感に言葉を失った。
七兵衛は当初、お猪の的確な助言に感心していたが、”かかし名主”と陰口叩かれ始めた事に気づいた時から不愉快に思っていた。
七兵衛にとってお猪の情報網は欠かせないものとなった。
それどころかお猪の助言がそのまま七兵衛の言となっていた。まさに“かかし名主”そのもので面目丸潰れ。“名主”の顔をして表を歩く自身を見て陰で失笑を買っていると思うと屈辱感で身が震えた。
それでも「お猪へ相談すべきか」と迷いが生じ、自身の判断に自信を持てずにいること、そのある種の敗北感のようなものが殺気に満ちた空気感を産んでいた。
それでも“名主の笑顔”を作って表通りを歩かなければならない事が、まるで晒し首にでもなった気分だった。
「ふうん……、ようわかった」
七兵衛は痛恨の思いを悟られまいと、無理やり平然を装いながら膳から味噌汁をとってすする。ただ七兵衛の目に怒張した毛細血管が何本も走り、怪しげな空気を張った。
「うん? なんじゃ? 今日の味噌汁は! 豆腐がやけに硬いぞ。こんなもんは食えん!」
七兵衛はお猪の意見を退けることは出来なかった。その屈辱から、関係ない味噌汁への難癖になった事に気づいてはいたが撤回する気にはなれなかった。
こんな些細なことで仕返しすることしかできぬ自身にも腹を立てていた。
お猪はオロオロと慌てた様子をみせ、
「申し訳ございませぬ。お前さま、本日のご用意はわたし自身がおこなったもの。お前さまのために最高の食材を準備させましたものを……」
「な、なんじゃと! わしの味覚を疑うなら喰うてみよ!」
七兵衛が乱暴に膳に戻した椀を手にとってお猪は味噌汁をすすってみた。するとお猪の目から大粒の涙がしずり落ちた。
お猪は止めどなく流れる涙を手の甲で受け止めていた。突如涙を流すお猪を見て、七兵衛はやや狼狽する。
「なんじゃ! 泣く事はなかろう。それほど強う言うた覚えはないぞ、お猪!」
お猪はその場をつくろうかのように無理やり笑みを見せ、
「あ、いや、申し訳ありませぬ。すぐにいつもの豆腐で作り直しまする」
「もう良いわ。何やら喰う気が失せたわ。膳を下げぇ」
「——————はい、お前さま。いつでもお申し付けくだされ。膳を用意しますに」
「……あぁ」
七兵衛は、戸田家からの書状から顔を上げると、膳を持って引き返していくお猪の背中に憎々しい視線を送った。
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