第11話 堀井門七兵衛 ①

朝日が障子紙を通して拡散されて寝床を照らす。小鳥の囀りが朝を告げ、七兵衛が苦々しい表情を浮かべる。


——————また寝られんまま、朝かぁ。


夢と現実の境界線に彷徨いながら、朝日眩しさに目をしょぼしょぼとさせる。それが今日、最初の愚痴だった。


いや正確に言うと、寝ていたのか、ずっと起きていたのか自身でもよくわからなかった。


それほど眠りが浅かったのは確かで、また快眠を得られなかったのに不快に襲われていた。


やや離れたところに火鉢が数個置いてあった。先に起きたお猪が部屋の暖を取るため置いていたのだ。しかし、七兵衛はその事に今のいままで気づいていなかった。


この事実からして、少しは寝入っていたということか。それにしても、考えないと自身が寝入っていたのかわからないこと自体がやはり苦痛でしかなかった。


「あぁ! もう眠れん」


怒気を込めてむしゃくしゃを吐き捨てる。そして立ち上がって障子を開けた。


朝日が七兵衛の目に刺さる。


七兵衛は無意識に視線を板間に向けた。すると縁側には水の入った桶と、唐草模様の手拭が置かれてあるのが目に入った。


青海波や麻の葉、七宝、籠目など様々なものがある。

その中でも七兵衛は唐草模様を好む。これは今朝、お猪が用意したものだということが一目で分かる。


身の回りの雑務は大抵、お梅が担当していたが、お梅は知ってか知らずか、いつも唐草模様以外の手拭を置いていた。


しかし、自身が唐草模様を気に入っていることをお猪はなぜか知っていた。特にそんな話をした覚えはないが、いつもお猪が用意する場合は決まって唐草模様の手拭だった。


それにいつもは七兵衛が起きて用意するよう声がけするのだが、今日はお猪が事前に用意していた。


七兵衛が起きがけに冷たい水で顔を洗って風に当たって眠気を覚ますのが日課になっていたからだ。


七兵衛は今朝の冷え込みの中、水で顔を洗うはためらいがややあった。七兵衛は縁側に腰掛けて桶に手を入れたその刹那、思わず「おっ」と声を漏らした。


その水がぬるま湯になっていたからだ。

七兵衛は桶の水をすくいながらサラサラと手のひらからこぼれ落ちる水を見入っていた。その水面にお猪の笑顔をぼんやりと映っている気がする。


全てを見越して用意しているお猪。七兵衛が起きてからここに至るまでの動線を全て把握していると暗に示していた。


それは妖刀で背後から首を刈られそうな感覚に襲われた。当然、嬉しいどころか、屈辱に思えて不快でしかない。


これはよく気がつくお猪への嫉妬からだと気づいてはいた。しかし、その“敗北感”を認めると自身の立つ瀬がない。


目の前の現実に醜悪な情が血をたぎらせる。身体中に虫が這いずり回るような嫌気に襲われ、七兵衛の表情が歪む。


「チッ、余計な事をしよって! くそが!」


堀井門家は代々名主を世襲してきた家柄で、七兵衛も幼き時より、読み書き、算術を学んでいた。


七兵衛が望んでいたわけでもなく、父上のようになりたいと思ったことも、特になかった。ただ、勉学、修行に励む事が日常でそれについて何も疑問すら思わなかった。


なぜ陽が沈み、再び陽が登るのかなど考えないのと同じように。ただ、ある日、同門の徒が妙な事を口走っていたことがあった。


それは「幸福とは何か?」だった。


七兵衛は考えもしなかったが其奴の言葉が頭から離れなかった。


——————幸福とはいつも同じ事を繰り返す日々の中で気分が良いか否かの違いじゃ


其奴の何もかも見透かしたような、鼻につく物言いが気に入らなかったがその言葉は突き刺さるものがあった。


それ以来、七兵衛にある疑問が取り憑いた。それは「自分は幸福なのか」という事だった。喰うに困らず、欲しいものは手に入る。


しかし、一日の大半は自身の意志とは違って、父上の言いつけ通りにただ行動するのみと気づいてしまった。


段々と父上の目の届く範囲を理解し始めて範囲外で羽を伸ばすことを覚え始めた。そしていつの間にか色に耽る毎日を送るようになった。


ささやかな反抗だったかもしれない。どんどんと度を越してしまい、ついにはお猪との婚儀となって足枷をはめられた。


お猪はよく気が付く、気立ての良い女だ。そして何より面白い女で、人前ではお猪を褒め、仲睦まじい様子を周囲に見せよと奇妙なことを言い出した。


七兵衛は何やら面白いと思い、その通りにしてみるとギョッとする出来事が起こった。


それまで次代の名主七兵衛はただの好色でうつけじゃと悪評が立っていたが、それがどこかに消し飛んでしまった。


それどころか、七兵衛に相談すれば誰にも角が立たず、円満解決できると好評を得るようになった。


それはいつもお猪の口添えがあった。そして七兵衛はお猪の言う通りに裁断を下すようにしていた。


そうしているうちにいつしか七兵衛よりもお猪の賢妻ぶりが話題となり始め、自身が”かかし名主”と陰口を叩かれていることを知った。


侮るな!


とばかりに力んでは見たものの所詮器以上にはなれず、お猪なしでは妙案が浮かぶ事はなく、相談事は歯痒くもお猪の言いなりになるほかなかった。


——————チッ


どうやら何もかも不愉快としか思えないらしいと七兵衛は自答していた。

本来なら幸福を感じていたかもしれないが、朝起きてからずっとお猪の顔が浮かぶ状況が腹立たしかった。


七兵衛は難問を抱えていた。昨年から日照り続きで、水が干し上がって農業用水に困った事態に陥った。


年貢を管理、納める責務の名主である堀井門家としては京都所司代の戸田家に懇願して年貢を下げてもらうよう交渉した経緯があった。


渋々承知を頂いた。しかし、こういった事態に陥っても対処できるよう「なんとかせよ」と条件をつけられていた。


そこで地域農村ではこのほど近くの川から水を引いて溜池を作ろうと思案が持ち上がった。


だが話はすんなりいかず、どこに作るのか、どれくらいの大きさにするか、村民の意見があらゆる方向に飛び交い、名主の七兵衛にはもてあましていた。


それには莫大な銭がかかり、全て名主の七兵衛の経費となっていた。

そこにまた、別の問題が発生していた。


それは毎年、京都所司代の複数のお屋敷の正月に飾る門松についてだった。通常、武家は名主に発注する。


お代は受注した名主が出すことが恒例となっていた。堀井門家も例外ではなく、千本屋敷、堀川屋敷の門松を納める必要があった。


武家のお屋敷のため、ちゃっちい門松のわけにはいかず、威信を傷つけないよう、立派な門松にする必要があった。


ただ、それには莫大な銭がかかるので、七兵衛にとって頭を悩ます問題となっていた。


桶のぬるま湯で顔を洗うと、頬をパンパンと叩いてお気に入りの唐草模様の手拭で拭いた。


それでも七兵衛は晴れない表情を浮かべていた。

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