第10話 名主堀井門七兵衛の妻③

鼻に鉄砲玉くらいのホクロがある峰衞門は、辛そうに背を丸めながら奥に引き下がるお猪を土間から見送っていた。


「かわいそうになぁ……。あんなええ子が」


天秤棒の端に吊るした桶から豆腐を取り出しながら、峰衞門はボソッと言葉を漏らした。


「伊予様はかなりキツく当たってらっしゃるし。オラたちは時々、隠れて涙をこぼしてらっしゃるお猪様をお見かけして……。それはもうおいたわしゅうて、おいたわしゅうて」


豆腐を受け取るお梅が声を細めてそういうと、周りにいた他の奉公人も「そうじゃ、そうじゃ」とばかりに同情の色を浮かベた顔をつき合わせた。


それにはやや伊予のお猪への当たりが強すぎる事への批判も込められているようだった。


お梅は怒りが収まらないらしく、口が止まらない。

「いくら子が出来ないとはいえ、それはお猪様のせいじゃない。”かかし”の”ししおどし”がいつも違う方向向いとるからええ音が響かんだけじゃ!」


お梅の下世話話に周囲がゲラゲラと下品な笑いを立てる。


峰衞門も世間で名主の七兵衛が色々浮世話を流しているのは知っていた。ただ、お猪が類まれな夫想いの賢妻だったことも知っていただけに、七兵衛のことを快く思っていない。


お猪は行商人が話好きという習性をよく知っているようだった。それもあって、夫婦仲睦まじい話をわざとらしいくらいに聞かされていた。


それは七兵衛の良い噂を流すようにという事を峰衞門含め、出入りする行商人全員が忖度していた。


なぜなら、お猪は通常よりも高値で取引するよう奉公人に話し、奉公人が「お猪様から」と一言添えられていたからだ。


峰衞門もはじめはお猪の意志を尊重して噂を流すようにしていた。貧乏な行商人にとっては、ただ噂を流すだけで通常よりも高値で取引してくれるので、涎を垂らすほど美味しい儲け話だった。


ただ、その甲斐なく、七兵衛の良い噂はすぐに収まった。


それよりも愚鈍な夫を支え、名主に相応しい人物にしようと奮闘するお猪の姿を噂するようになった。


世間では、天上人の“良い人ぶり”の噂よりも、自身の身に置き換えやすい立場の人情話を好むもの。


行商人の娘から名主の嫁にまで上り詰めたお猪が好きだった。


そのお猪に子が出来ない事で辛い立場でいるにも関わらず、それでも一途に夫を想う姿にいつしか関心の目が変わっていたのは当然といえば当然だった。


峰衞門も“実は……”ネタの方が好きだったこともあって、七兵衛よりも、七兵衛の良い噂を流そうとするお猪の一途な姿を暴露するようになっていた。


表立って七兵衛の悪い噂は流さなかったが、その代わりにお猪の賢妻ぶりはそこかしこで話題にしていた。


本来名主とは自治の争い事などの仲介をしたりする事にあったが、誰も七兵衛に相談事をしなくなり、代わりに行商人を通して台所に持ち込まれるようになっていた。


峰衞門もいくつか得意先から頼まれてお猪に話したこともあった。


そうするとお猪が七兵衛に話を通してくれた。そうして下準備をしてから七兵衛に相談を持ちかけ、事前に手を回した判決をもらっていた。


峰衞門もいつしか周りにつられるように、“かかし名主”とからかって話すようになった。


「それはそうと、わしゃあ、お猪様のご注文通り、最高の豆腐を持ってきたぞい」


峰衞門がそういうと、お梅はイタズラっぽい表情を浮かべてその豆腐を自身の桶に移しながら、


「ほんまかえ、峰衞門さぁ! どこぞの安い豆腐で銭ぼったくる気じゃなかろうね!」


峰衞門は心外と言わんばかりに言葉を返す。

「ばか言うでねぇ! 近所にはそうするが、おいらがお猪様をコケにするような事するかい! 豆腐とは水じゃ。最高の水で豆腐をつくりゃあ、最高の豆腐ができるわけよ」


お梅は胡散臭そうな表情を変えない。

「おうおう、真っ当な豆腐屋みたいなこと言っとるわぁ。あはははは」


「本来なら、それが最高の豆腐じゃと思うんじゃが、どうもわしは違うように思うたんじゃ」


お梅はいつも冗談で返す峰衞門の雰囲気を察したのか、心配顔をする。


「峰衞門さぁ、どうしたんじゃ。悪いもんでも食ったんけ」


「違うわ。お猪様にとって最高の豆腐ってなんじゃろうなぁと思ったのよ。元々豆腐屋の行商人の娘じゃろ、お猪様は! 口が肥えとうじゃろうと思うたのよ」


お梅は「ほほう」と感心の色を浮かべる。


「じゃからほれ、わしはこの最高の豆腐を持ってきたんよ」


お梅はふと桶の中の豆腐に目をやった。お梅は釈然としないようであった。

「ほうか、峰衞門さぁ。オラにはいつもと変わらん豆腐にしか見えんがね……」


峰衞門は自身にしかわからない“最高の隠し味”に心躍っていた。


「おぬしらにはわからんわ! お猪様が食えば違いは一目瞭然じゃわ!」


お梅は最高の豆腐を入れた桶を持って食事の用意のために腰を上げて挑戦的な笑みを返した。


「まぁ、それならいいけど……。お猪様をがっかりさせんでおくれよ」


「大丈夫じゃ。食べんさった時のことなどまた聞かせてくれやぁ!」


そういうと、豆腐が入っていた桶を天秤棒にかけ直して、他の行商人でごった返す中をかき分けながら、峰衞門は外へと出ていった。

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