第9話 名主堀井門七兵衛の妻②
お猪が名主の堀井門家に嫁いだのは政略結婚だった。
お猪の実家山口家は代々組頭の家柄で名主を支える立場で、地位の安泰を図るために同じく代々名主の堀井門家と婚姻関係を結ぶことは重要だった。
子がいなかった山口家へお猪が養子で入り、そのまま嫁に出された。お猪は裕福な出ではなく、実はそれよりも貧しい家で育っていた。
行商人の父が山口家に出入りしていて仲良くやっていた。毎年、正月の挨拶で父と母に連れられて挨拶に行くのが恒例となっていた。
お猪にとって、普段くちに出来ない美味しいものを食べられる唯一の機会だったので、楽しみにしていた。子がいない山口家では自身の子供のように可愛がってもらっていた。
十七になった時、お猪はすれ違う人たちが見惚れるほどの美女に成長していた。見目麗しい女に成長し、まさに咲き誇っていた。
そんなお猪に山口家は養子として迎え入れようと声をかけてくれたのだ。ちょうど、堀井門家の先代藤五郎が後継の七兵衛の嫁を探していると声がけがあったからだ。
山口家の養子に決まるとトントン拍子に話は進み、輿入れとなった。
当代名主の内儀ともなれば、何もしなくても奉公人への指示だけですむが、行商人の母の背中を見て育ったお猪には、どうしても馴染めなかった。
母は父よりも早く起き、朝から行商人を走って捕まえたり、支度を整えるのに大忙しだった。
お猪も幼ながらに火の番をしたり、成長に従って買い出しに出かけたりと、様々な人と関わって生活していた。
桶の中でピチピチと動く魚や、泥だけの大根、ネバネバの納豆など全てが新鮮でそれらを見たり、触ったり、そこで生まれるちょっとした交流を楽しんでいた。
お猪は人の出入り激しいこの裏口にいると、行商人の父や忙しそうにしている母に会っているようでとても好きだった。そんなお猪は指示を出しつつ、自身も教えを乞いながら手伝いをして切り盛りしていた。
台所の土間は、桶から食材を吟味する奉公人とその行商人達でごった返しとなっていた。お猪はパンパンと柏を打って見渡した。
「みなさん、今日は一番良いものを持ってくれるように頼んでいましたがいかがでしょう」
「へい、お猪様! 持ってきたで! 一番新鮮で美味しいやつを! 危なそうなのは近所に売りまさぁ!」
どっと笑いが起きる。
「お猪様! うちもうちも! ええの仕入れやしたで!」
お猪の表情に自然と安堵の色と笑みで溢れた。和気藹々と和む裏口の土間で、鼻に鉄砲玉くらいのホクロがある行商人がお猪に声をかけてきた。
「お猪様、今日はなんかあるんかいのう? お祝いでもあんのけ?」
今日、お猪が嫁いできて五年目に当たる日だった。七兵衛はそうでもなさそうだが、お猪はこの婚儀が行われた日を大事にしていた。
そして毎年この日は新鮮な食材を用意して自身が七兵衛の朝支度をすることにしていた。
実は七兵衛がそのことについて何も気づいていないのは、寂しい想いをしつつ知っていた。
だからといって七兵衛に記念日を押し付けるつもりはない。ただ、もし何かいつもと違うところを褒めてもらえればと微かな希望は持っていた。
——————今年こそは!
お猪はうつむきながら照れ笑いを浮かべて、
「それは秘密! 聞かんでおくれよ」
その言葉を聞いてほくそ笑む奉公人がこそっとその行商人に耳打ちする。
「——————それはそれは、おめでとうございやす」
ニタニタしながら行商人が声をあげる。
そうすると耳打ちした内容が気になったらしく、なんだなんだということになり、瞬く間に全員の知るところとなった。
それで土間にいた全員が何やら柔らかい笑みを浮かべていた。
「もう、お梅さぁったら、話してしもうて! 秘密じゃって言ったのに、もう」
「いいじゃあありませんか! お猪様! オラたちも嬉しくて、そんな幸せそうなお猪様を見られるのが!」
奉公人のお梅の裏表ない言葉は心から祝ってくれているのがわかり素直に嬉しかった。
それに、他の奉公人やその場にいた行商人達も皆、「そうじゃ、そうじゃ」と笑顔をくれた。
「おめでとさん、お猪様!」
「おめでとさん」
皆がこぞって祝ってくれるのは嬉しいが、旦那様の耳に入るのは恥ずかしいので、お猪は他言せぬよう言ったが、行商人達のおしゃべりはよく知っているので無駄だなと半ば諦めた。
「お猪様、伊予様をそろそろ起こす時間なんじゃ……」
「あ、いけない。義母様のことを忘れてた。 起こしてきます」
……ゴホン、ゴホン、ゴホン
突如、お猪は咳き込み、息が苦しくなり、その場に膝をついた。
「お猪様、どうしたんだい! 大丈夫かい」
その場にいた誰もが顔色を変える。お猪は袖から赤い花柄の巾着袋を取り出して、紐を緩めて紙で包んだ粉薬を取り出した。
「お、お梅さぁ、すまんけんどお水を……」
お梅は巾着袋が目についたらしく、
「綺麗な巾着で……」
お猪は疲れた顔色にうっすらと笑みを浮かべて、巾着を見つめている。
「ええ、旦那様から頂いたんよ。こちらに輿入れして初めての祭りでねぇ。『気に入ったのを言いなさい』って……。甘えさせてもろうて。大事に使わせてもらってて。この病もらってからは『身体を労わりなさい』ってよう効く薬を頂いたんよ。ホント、嬉しゅうて
——————それでこの巾着に入れて持ちあるいてて……」
この巾着を見ると、七兵衛の優しさに触れたあの時の熱い情がじんわりと身体に広がり、なんだか胸を暖かくした。
……ゴホン、ゴホン、ゴホン
お猪は包み紙を広げて粉薬を口に入れると、お梅が汲んだ水で流し込んだ。
「お猪様、あんま良くないようだし、朝の支度はオラがやろうか。休んどいた方がええで」
お猪は『今年こそは、旦那様に最高の朝飯を』と準備していたので、ここで諦めるわけにはいかず、気を取り直して大事な巾着を袖に入れた事を何度も確かめると、『もう大丈夫』とばかりに無理矢理明るく振る舞った。
そんなお猪にとってお梅が心配そうにそばについていてくれることが何よりも嬉しかった。
「ありがとね。お梅さぁ。でも大丈夫じゃ。湯を沸かしといておくれ。先に義母様を起こしてくるで」
そういうとお猪は自身の体を引きずるようにして継母の伊予の寝所へと向かう。
「あ、もし、お猪様! 少しお話が……」
奥へ引き返そうとしたお猪は、引き止める行商人の声に反応する。
そして土間で申し訳なさそうな顔を浮かべる行商人とその連れの方へ向かうと、いつもの笑みを浮かべ膝を折って耳を傾けた。
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