第8話 名主堀井門七兵衛の妻①

戸締りのための心張り棒が引き戸にかけてある。


引き戸をちょっと強く蹴れば外れるため、実質なんの役にも立たなかったが、朝、食材を売る棒手振りの行商人である由兵衛はそんな野蛮なことはせず、大声を張り上げる。


「えぇ! 納豆ぅ! 納豆ぅだよん! 朝は納豆! いらんかえ」


朝、名主堀井門家の裏口は食材の行商人でごった返す。行商人たちは大所帯で売上を見込めるところから攻める。それはすなわち、名主ということになる。


陽が昇ると起床し、沈むと床に就く生活の中で、行商人の呼び声が目覚ましになっている。


それも納豆が朝一を逃したことはない。おそらく、この納豆屋の由兵衛が来ないと一日がズレてしまうほど依存している家もあるだろう。


通常、まだ薄暗い早朝に大声を張り上げると反感を買いそうだがそうではなく、逆に気を使って何も言わない方が反感を買う。


大声を張り上げた後は、眠そうに目をこすりながら一番下っ端の奉公人が裏口の心張り棒を外す。


たんまりと納豆を入れた桶を吊るした天秤棒を肩から外し、しばし待つ。いつもその間に味噌、魚、野菜などの行商人が同じように買ってもらおうと、天秤棒を担いで堀井門家の裏口に集まってくる。


裏口前で他の行商人たちが言葉を交わし、だいぶ賑やかになってきた。


今朝はいつもと違って招かざる者もいる。異様な匂いが漂う先から波が引くように、由兵衛はじめ行商人たちは距離を取りつつ、殺気立つ表情の人だかりから罵声が飛ぶ。


「な、なんだこんな朝っぱらから!」


「また彼奴か! またやりやがった!」


肥取りの金吉だった。

農家では肥料として人糞尿を重要な原料としていた。ただ多数の家から集めて回るわけにもいかず、農家はみな肥取りから買っていた。


ただ匂いが強烈なため、肥取りは通常、町衆が寝静まった後に行われていた。ところが、金吉は大酒飲みで有名で昨晩は寝過ごしたらしく、気持ちの良い朝を汚しにきたというわけだ。


「すまん! みな! 寝過ごしちまって! わるい!」


金吉は大柄の図体を精一杯縮こまって居心地悪そうに裏口に陣取った。当然誰も近寄ろうとはしない。


そんな時、台所の引き戸が開く音が聞こえてきた。由兵衛は中に入る準備をしようと天秤棒を再び担ぐ。


しばらくして、心張り棒を取り外す音が聞こえて裏門がギィと開いたとき、由兵衛はギョッとした。


それはいつもの奉公人ではなく、名主七兵衛の内儀のお猪自ら門を開いたからだった。


由兵衛はこんな珍事は記憶に無く、慌てて挨拶する。


「あ、これはこれはお猪様、おはようございます。今日もお綺麗で!」


お猪は透き通るような色白で頬がぽっと紅葉し、切長で大きな目は笑うと糸のようになった。


いつも周りに気を使って暗めの着物だったが、今日は何やら黒地に桃色の花が咲く煌びやかな着物をお召しになっていて、見ていて心が和む。


由兵衛は思わず見惚れていた。

由兵衛の声がけにお猪の顔がほころぶ。


「あはは、よしておくれよ! 由兵衛さぁもみなさんも、おはよう。お待たせして、さぁさ、中へ入っておくれ」


朝からお猪と会話できるとは『今日は幸運かも』とそう思えるほど、お猪の笑顔は見ていて気持ち良く釣られて自身も笑顔になる。


みな目を丸くしながら、頭を下げて口々に元気な挨拶が飛ぶ。そんな中、金吉は苦笑いを浮かべて頭を下げる。


「あ、金吉さぁ! 昨日こなかったでしょ!」


「へい。お猪様、申し訳ございやせん。もう寝坊しやせん! お許しを!」


平謝りの金吉をよそに中へ入ろうとする行商人の愛ある野次が飛ぶ。


「金吉さぁはまたやるでぇ」


「こりゃあ、病じゃ! 病!」


お猪は野次に笑いながら金吉を見据えて言葉をかけた。


「金吉さぁ、これから朝は勘弁してちょうだいね。ささっとすませておくれ」


「へい! お猪様。ありがとうごぜいやす」


金吉は強烈な肥桶の天秤棒を担いで裏門をくぐると逃げるように厠のようへ消えていった。


台所へ入っていく行商人のあと追いかけるように由兵衛も台所へ入って行った。

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