第7話 爪痕

涼水は涼雲の後に続いて書庫へ入った。

そこは所狭しと棚が並び、巻物や、半紙を束ねて紐で結んだ雑記帳、証文など整頓されて天井まで積み上げられていた。


涼水は足を踏み入れた途端、紙と埃、そして墨汁の匂いが鼻につき、しかめっ面になる。書記を務めている涼雲はこの場所に来慣れているせいか、全く気にならない様子だ。


涼水は初めて目にする書物の山に目を丸くする。これらに何が書かれているのかはわからないが、長い年月をかけて、あらゆる種の記録や知識、歴史などが積み上げられた光景に圧倒されていた。


それらを眺めていた涼水は、ある書物に目が止まった。


「兄者、黒く燻んでいるものがあるようじゃが……」


涼水のいた場所からさらに先にある別の棚の向こう側から涼雲の声がする。


「あぁ、これまで何度か火に包まれた事があったのじゃ。その火から書物を守るために運び出したそうじゃ。それがそうじゃと聞いておるがなぁ」


誰かが過去に業火に焼け落ちる本能寺から、焼失してしまう書物を守ったのだろう。仮に焼失してしまえば、ごっそりと歴史が失われていたかもと思うと、今ここに保管されている事実になんだが胸を熱くする情が湧き立つ。


姿が見えなくなっていた涼雲が木棚の奥から顔を出した。その手には一冊の雑記帳があった。宗鑑様の胸のうちを覗けるかもと、涼雲はやや興奮して声がうわずっている。


「これじゃ! これ!」


涼水は涼雲から雑記帳を受け取った。

私生活をのぞき見するようで、他者の日誌を見るのは後味が悪いけれど、閲覧禁止の書物を、禁を破ってこっそり覗き見る時のように、やや心臓の鼓動が弾む。


その雑記帳の表紙には特に何も書かれていなかった。表紙をめくると、日付に続いて数行の文章という形式でぎっしりと書かれていた。


画数の多い字もそうでない字も全て正方形に収まるように書かれ、等間隔で整列された文字列からはまるで市松模様のようにみえる。


「うわぁ! 綺麗な字じゃ。一切の乱れがない。宗鑑様らしい、几帳面な文体じゃ」


涼水の言葉に涼雲は笑いながら、


「まっこと! 綺麗すぎて感情が見えんわ。怒ったり、笑ったりで字がヒョコ歪んだりがないしのう。宗鑑様らしいわ」


涼水は涼雲と笑いながら、一枚ずつをめくっていく。宗鑑様はその日行った事や本能寺内で起こったちょっとした事変なんかを書いていた。


はっきりいって涼水も涼雲ももっと宗鑑様の剥き出しの本音が書かれていることを期待していた。


規律が衣を着て歩いているような宗鑑様が、他の僧や、和尚の悪口などを書いていたとしたら、どんなことを書くか興味があったからだ。


しかし、そういう意味では全く面白くなかった。まるで第三者が目にすることを想定していたかのように、建前という仮面で感情を隠した文面になっていたからだ。


そのため、一枚めくるたび数行に目を通したが、だんだんと飛ばし読みになり、ついには興味が薄れていった。


「それにしても面白うないのう。この日誌は! どこまでも宗鑑様じゃ!」


「兄者、気持ちはわかるが、まぁ、他ならぬ宗鑑様の日誌じゃしなぁ!」


涼水は、この状況だと期待外れに終わるだろうと、もはやこれ以上見ても無駄ではないかと思い始めていた。


「あ? この辺りじゃぞ。七兵衛様の内儀の世話をやっていた時期は……」


「兄者、そりゃあ、何の話じゃ?」


「まだ言うとらんかったか? 七兵衛様の前のご内儀が亡くなったのは其方も知っておろう? お猪様というそれは綺麗な奥方じゃったが、ここ本能寺で亡くなったのよ」


涼水はギョッとして「ここで?」と思わず聞き返したが、和尚は医術の心得があってよく病人が訪れるのでさもありなんと思い直していた。


「あぁ、それはそうなんじゃが、どうもおかしな噂があってなぁ……」


ペラペラと日誌をめくりながら涼雲は日付を確認していたが、見たかった箇所に辿り着いたらしく、話は途中までとなった。


「あぁ、このあたりじゃ……」


〈和尚様、七兵衛様の見舞いを拒否。心穏やかならず〉


涼水は何か妙な文面だと引っかかった。

七兵衛の内儀への見舞いを和尚が許さなかった。


それほど内儀の病が悪く、和尚が七兵衛をも呪われるのを警戒したのは良いとして、わざわざ追記した “心穏やかならず”の言葉が心に引っ掛かる。


これは和尚が!なのか、それとも七兵衛のことか、はたまた宗鑑様自身なのか。涼水にはいずれのことなのか読み取れなかった。


見舞いを拒否された七兵衛が“心穏やかならず”だったのか。宗鑑様は七兵衛の見舞いを拒否する和尚の考えを図りかねていた。


もしお猪の最後が近いとわかっていたとしたら、死目に合わせようとするのが思いやりであろう。


涼水は宗鑑様ならそう考えるに違いないと確信していた。だが和尚はそうしなかった。だから宗鑑様が“心穏やかならず”だったのかもしれない。


だが、自身のことを書いたにしては他人行儀すぎる気もする。


“心穏やかならず”が和尚であったとすると奇妙な事になる。見舞いにきた七兵衛に激怒して拒否した事になるからだ。


どういう状況でそうなるのか理解できなかったが、以前、寺請証文をとりにきた七兵衛と和尚が奥ノ間にいる時に妙なものを目撃した事が頭をよぎる。


宗鑑様は七兵衛が内儀を見舞うのを和尚が拒否したように見えたが、実はそういったことはなく、全く別のことについて言い争っていたとしたら……。


例えば、和尚が要求した銭を七兵衛がその当日持参していなかった。そのため和尚が七兵衛に激怒して見舞いを拒否していたとしたら……。


「——————有り得ぬことじゃと思いたいが」


涼水が思わずつぶやいた言葉に涼雲は意味がわからなかったようで、


「涼水、なんのことじゃ?」


「あ、いや、別になんでもないんじゃ」


涼水は和尚について、確信のもてない事を口にして、これ以上妙な噂を流すことだけは避けたかった。


流水が次の一枚をめくったその時、全身に戦慄が這い回り、絶句する。涼水の眉があがり、驚愕の色を隠せずにいた。


「な、なんじゃ、こりゃ……」


筆が乱れて殴り書きで埋め尽くされていた。

それまでとはまるで違い、線の太さもバラバラで字が歪み、震えながら書かれたことが見てとれた。


そして、紙いっぱいに繰り返し奇妙な言葉が書かれていた。


〈有声读物有声读物有声读物有声读物有声读物有声读物有声读物有声读物〉


涼雲は恐怖で震える文字を追いながらつぶやいた。

「聞こえる……聞こえる……聞こえる……」


涼水は、その文面の中に、怖気立って筆を持つ手がブルブルと震えている宗鑑様を容易に想像することができた。ゾッとする。


「…………あの宗鑑様のものとは思えん有様じゃなぁ」


涼雲もこれほど乱れた宗鑑様に驚愕しているようで独り言のようにつぶやいた。その言葉に涼水は無言で頷く。


涼雲は常ノ魔から女の啜り泣く声が聞こえたなどと全く信じてはいなかった様だが、この宗鑑様の文面から心底恐怖に震えていたこと、それに先ほどの幽玄の言葉からも、涼水は亡霊が現れたのは真実ではないかと思えてならなかった。


そして最後の殴り書かれた言葉に釘付けになった。

「——————誰かを呼ぶ声が……」


涼水の全身は震えていた。


そして何気なく格子窓から外を覗いた時、本堂前の庭園を歩く幽玄が見えた。

ウロウロと行ったり来たりヒョコヒョコと歩きながら、ホジホジと鼻くそをほじる様を見ると少し恐怖が和らいだ。

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