第3話 血だらけの女幽霊
今日は雲がなく、満月が煌々と闇夜を照らしていた。心地よい虫の音が本能寺を包みこむ。涼水は本堂で腕枕しながら寝転がって天井を見つめていた。
——————どうしたんじゃ? 宗鑑様! 顔が真っ青じゃ
涼水は朝、涼雲と奥ノ間の掃除に向かう途中で、寝ずの番が終わった宗鑑様と顔を合わせた。
その時の光景がぼんやりと浮かんでくる。
よく言えば、いつも落ち着いていて、悪く言えば、何を考えているか感情を表に出さない宗鑑様が目の下にクマを作り、蒼白い顔で現れた。
それはひどく憔悴しきって何やら怯えていた。
「ププッ」
宗鑑様に何か起こったのか心配するよりも、珍しく感情露わな様子が面白く、意外と怖がりだったのかとやや蔑んだ笑いが込み上げてくる。
そして吹き出してしまったことで寝ている仲間を起こしていないか気になってふと頭を上げて周囲を覗く。
——————夜半、廊下に亡霊がおったんじゃ! 涼雲
「ププッ、クククッ」
宗鑑様は涼雲の両肩に手をかけ、詰め寄るような態度で訴えてきた。そばにいた涼水は、その様子を茫然と見守っていた。
いつも同じ表情の宗鑑様が眼を剥いて恐怖を露わにした表情はケッサク以外の何物でもなかった。
——————何か女子の啜(すす)り泣く声を聞いたんじゃ! それもあの常ノ魔の方じゃ!
「クククッ、そりゃあ、そうなっても……ププッ」
涼水は血相変えて訴える様子を思い出しては、周囲で寝ている者を起こさないよう大笑いするのを必死に堪えた。
少し落ち着こうと大きく息を吐いてあらためて目を閉じた。
あたりには寝息とイビキ以外は虫の音が響き渡るだけ。
きっと宗鑑様は誰かのイビキの聞き間違いしたに違いない。それに昨晩は風が強かったのでどこか隙間を通り抜ける際に不気味な音がしただけ。
『何かいる……』と不安がよぎり、恐怖がジワリとすり寄ってくると、風や床板の軋み、梢のざわめきがサッと奇怪な空気に変えてしまっただけだろう。
それが聞こえぬ声が聞こえた気になってしまっただけかもしれない。いつの間にやら、涼水から薄ら笑いが消えていた。
ただあまりに顔色が真っ青だったため、涼水はその朝、納豆を買いに行くついでに気つけの丸薬か何か買ってくるよう涼雲に頼まれた。
——————ガタガタガタ
本堂の障子が揺れたのか、まるで大勢の童(わっぱ)がわざと障子を揺らしているかのように気味悪い音が響いた。
その刹那、涼水の血から体温がサッと消え、背筋が凍る。
ギロリと周囲に警戒の視線を投げるが何もない。ただの風で、何事も起こっていないと自身に思い込ませるようにしながら、涼水は無理やり目を閉じた。
こんな時に限って妙に感覚が研ぎ澄まされ、普段気にしないような物音になぜか気がついてしまう。
障子の外側廊下の板間が軋む音が耳につく。誰かの素足が音を殺しながら、ゆっくりと近づいているような気配がしてならない。
宗鑑様の亡霊話を思い返していたので過敏になっているだけかもしれないが、どうも体重がかかったような軋みに悪寒が走る。
しかし、そもそも亡霊ならば足はないはず、と妙な理屈を展開させて無理やり安堵感に浸ろうとする自分が少々情けなくはあった。
——————よもや障子に不気味な影などありはしまい
そう思うと見ないと落ち着かなくなり、ソッと体をよじって恐る恐る障子に目をやる。周りは誰も気づかず、方々で寝息の音色が響いていた。
障子には何も映ってはいなかった。涼水は宗鑑様の事を思い出しているうちに宗鑑様の恐怖が憑(うつ)ったかと苦笑いをうかべ、再び床についた。
その刹那、目の前に血だらけで屍体のように蒼白い肌の女が涼雲を覗き込んだ。
その女は長い黒髪をダラリと下ろし、合間からギョロリと血ように赤い眼で睨んでいる。
——————うぅむむむぅ
醜悪な形相にギョッとして悲鳴を上げようとするが口が動かない。
手も足も……動けない。
涼水は何かに押さえつけられているのか、枷をはめられているか、または金縛りにあったかのように手足が重く動かせなかった。
——————むむむぅ……グググゥ
どうもがいても無駄だ。不気味なほど蒼白く、毛細血管が怒張した眼の女はギョロリと睨見つけてくると、裂けた口を大きく開けた。
裂け目から涼水の顔に血が滴り落ちる。
そして獰猛な獣が喉元に噛みつくように涼水に襲いかかってきた!
——————ガァアアアアアアアアアア!
「——————わぁ!」
声を上げて飛び起きた涼水は、いつの間にか寝入っていたことに初めて気がついた。額からビッショリと寝汗が吹き出していた。
「くそ! やられたわ……」
何やら無性に腹が立った涼水は気を沈めるように息を吐くと、静かに目を閉じた。
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