第2話 巷談

「納豆はいらんかぇ! 納豆! 豆腐もあるよ! いらんかぇ!」


暗闇の東の空がうっすらと光帯びる東雲の刻、本能寺の堀の外から威勢の良い行商人の声が静寂な朝を切り裂いた。


その声を聞きつけた涼水は、草履を引っ掛けて急いで裏門へ走っていった。そして裏門をそっと開けて様子を伺うと、ニンマリとした行商人の由兵衛が、肩に担いだ天秤棒をゆっくりと地面に下ろしていた。


由兵衛は今日もよろしくと言わんばかりに満面の笑みを向けてくる。


「お! おはようさん! 今日は涼水の坊主かえ!」


「はい。おはようございます。今日の寝ずの番が宗鑑様だったので、朝当番はそれがしが担当です。今日も納豆、二十人前ちょうだいな」


由兵衛はやや苦笑いで、

「すまんよ、坊主。今日はよう売れてもて、八人分しかもうないわ」


「え? そうなのですか? こんなこと初めてですね! いつも売れ残っているのに」


行商人の由兵衛は、いつも売れ残った納豆を本能寺の住職や見習僧達の朝食にと、多めにしかも安く売ってくれていた。


涼水は半年前から三歳年上の兄涼雲に続いて仏門に入った。その涼水は今年十五になった。初めは兄に色々と雑用を教えてもらいながらの生活だったが、半年過ぎてそろそろ一人で出来ることも増えてきて、この早朝の納豆買い当番も今では涼水に任されることが多くなっていた。


それで朝、由兵衛と顔を合わすことも多くなり、可愛がって貰っていて納豆とは別に、色々と浮世話など仕入れていた。


その涼水の遠慮のない言葉に、由兵衛は全く不快感などないらしく、


「ハハハ、珍しいこともあるもんで、こちとら、嬉しい悲鳴じゃが、どうやら堀井門家で本日、新しい奥方を迎えるってんで、早朝から人の出入りが多くてね。そんでごっそりと売れたんよ」


隠せるほどの嬉しさではないらしく、しきりにニタニタいやらしい笑みを浮かべる由兵衛に、涼水はやや呆れ気味で、


「それはそれは……。名主の堀井門家の新しい門出ってことですか。それはめでたい!」


それを聞いた由兵衛は小馬鹿にしたような表情で薄笑いを浮かべる。


「あの七兵衛さぁが? めでたいって? ガハハハ。めでたいのはお前さんじゃな!」


堀井門家は、本能寺があった堀川四条近く、油小路通蛸薬師辺り一体を束ねる名主で、七兵衛は当主だった。普段名主は、町の訴えを聞いてやり、解決する立場で通常一目置かれる人物のはずだった。だから、涼水はなぜ由兵衛がそのような事を言うのか理解できなかった。


「えぇ? そりゃあどういう事です? 由兵衛さぁ。名主の七兵衛様といえば、愛妻家で一年程前に亡くなるまで、奥方一筋だったとかよく耳にしていましたが……」


「ガハハハ、愛妻家だって? こりゃあケッサク! 七兵衛さぁはなぁ、根っからのすけべぇでなぁ。そこいらの女子を取っ替え引っ替えよ。だが名家から嫁をもらって何も遊べん日々じゃった。奥方のお猪様が出来た人でなぁ、ろくでなしで顔だけの七兵衛さぁをそのお猪様が名主にしたようなもんさね。されど、一年前にそのお猪様が亡くなりんさって、自由の身になってからは再び昔に戻って遊び放題! ついにええ加減にせぇ!ってんで先代の藤五郎さぁにまた無理やり嫁を取らされたってのが真相らしい。まぁ、わしら物が売れりゃぁ、なんでもええんじゃが!」


本能寺の周囲は深い堀と高い壁で囲まれていて俗世とは遮断されているので町衆の噂などは入って来づらいところはあるが、町中で見かける七兵衛はいつも品の良い笑顔をふるまいていた。


すれ違う町衆も皆、親しみある笑みを浮かべて会釈する風景しか見かけなかったので、涼水は驚きを隠せず、やや唖然と苦笑いを浮かべていた。


「はぁ、全くそんな風な人には見えないですね……」


「人を見た目で判断するなとお釈迦様も仰っとるぞ、小僧。七兵衛さぁが良い例じゃて。なんせ、その先妻……」


ちょうどその時、本能寺と反対側の長屋から声が飛んできた。


「——————由兵衛さぁ、豆腐あるかい!」


由兵衛は銭の匂いを嗅ぎ分けたらしく、サッと仄暗い嘲る表情から、胡散臭い行商人の笑顔に戻った。


「おっと! 客だわ。小僧、じゃあ、またよろしくな!」


涼水は慌てて由兵衛を引き止める。


「あ、ちょっと、丸薬なんぞ、有りますか、由兵衛さぁ!」


「え? どうしたい? 体調でも悪いのかい!」


「あ、いえ、それがしではなく、さっき宗鑑様が蒼白い顔で震えておられたので気つけ薬でもと思いまして」


「そういやぁ、昨晩は冷たい風がビュービュー吹いて寒かったわなぁ。そうかい! じゃあ、これでも飲ませときな! 代金はええわ。その代わりまた頼むで」


「ありがとうございます、由兵衛さぁ」


「じゃあな! ——————へい!豆腐ございやす」


由兵衛は天秤棒を抱えて、手を振る客の方へ軽い足取りで走っていった。


涼水は何やら面白そうな話を聞きそびれて後ろ髪引かれながらも、買い取った納豆と宗鑑様への丸薬を手に本能寺へと戻っていった。

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