怪談:本能寺の蝿女
雨鬼 黄落
第1話 事件①
ギャアアアアアアア
逢魔時の本能寺から女のけたたましい悲鳴が静寂を裂く。
「はぁ……」
和尚はまた始まったかとため息をつきながら、書斎からひょこっと顔を出し、悲鳴のする常ノ魔の方へ向かう。
この寺に住まう僧侶は皆、常ノ間の事を不吉の間の意味を込めて「常ノ魔」とあだ名していた。
この常ノ間は戦国時代、織田信長が京滞在時に宿舎としていた際の生活空間だった。その信長は天下統一を目前にして、明智光秀に裏切られて自害して果てた。その自害した場所がこの常ノ間だと口伝で伝わっている。それから度々火災や、不吉な事変が起こっていたことから、皆この常ノ間を恐れてそう呼んでいて和尚も例外ではなかった。
数日前から堀井門七兵衛の内儀、お猪がその常ノ魔で床に伏せっていた。
なんでも急に顔が腫れて高熱を出し、立っていられないほど気持ち悪いと訴えてきたのだ。この本能寺周辺に住まう町衆は何やら病に侵されると、この本能寺を頼っていた。お猪もそのひとりだった。
そのお猪が常ノ魔に入るや否や、みるみるうちに体調が悪化した。雪のように白い肌でふくよかだったお猪が通りを歩けば誰もが振り返り、心奪われるほどの美女だった。それは咲き誇る華も恥じらうほどの美しさだった。
それが朽ちて骨と皮だけとなり、干し柿のようにシワシワに成り果てて、餓鬼の如く、世にもおぞましい姿に豹変してしまっていた。
奇病であることは医術の心得のある和尚でなくても誰の目にも明らかだった。和尚をはじめ、見習僧全員で面倒を見ていたが、日々直視できないほどに醜悪な変貌を遂げるお猪をだんだんと見習僧が怯えるようになった。
看病で常ノ魔に足を踏み入れた見習僧達は、誰もが恐怖で腰を抜かし、体を引きずるようにして逃げ帰るようになった。
そういったこともあって、いつしか口々に「常ノ魔の呪いに祟られたか」と噂しあっているのを和尚も懸念していた。
そんな様子を見兼ねて、世話役を限定し、和尚と見習い僧の宗鑑のみで看病に当たっていた。
和尚は常ノ魔の前で硬直していた。固く閉ざした障子の内側から、苦悶でのたうち回るお猪が助けを呼ぶ声を、どうすることもできずただ茫然と拾い聞いていた。
「ぐぅ、ぐるじぃ——、み、水を!喉が……ぎゃあ……顔を熱い」
およそ女子(おなご)とは思えぬ苦痛に満ちた声が漏れ聞こえる。
——————なぜこのような事態に? こんな事になるはずがなかったのじゃが……
障子の外側で和尚は眉間に皺をよせ、眼をギュッと閉じて苦渋な表情を浮かべていた。
「和尚、水はあります! わたくしめが……」
いつの間にか和尚の傍にいた宗鑑は、明らかに恐怖で立ち震え、両手で持つ椀の水がピチャピチャと震えて、ややこぼれていた。
進みでる宗鑑の背中に悲壮な風が吹く。
見兼ねた和尚が慌てて声をあげる。
「……ならぬ!」
——————ギャアアアアアアア
宗鑑の耳にお猪の悲鳴が襲い掛かり、驚いて椀を落としてしまう。そして、恐怖で腰砕けて両耳を塞いだ。
和尚の後ろにいたお猪の亭主、堀井門七兵衛がじっと和尚を見つめながら声を震わせる。
「わ、わしが……わしが行こう。皆にこれ以上の迷惑はかけられんで……」
和尚は見舞いに訪れていた七兵衛と目を合わせる。和尚は七兵衛の言葉をそのまま受け取るわけにはいかなかった。それどころか、よくもまぁ、そんな言葉が出てくるものか、と呆れさえした。
癪にさわる言ではあったが、医術の心得がある者として、あまりにおぞましい病魔に、近づけるのを躊躇わせたのも事実だった。
この恐ろしい奇病が七兵衛に取り憑くやも……、せっかく常ノ魔に閉じ込めた病魔が七兵衛を通して京中に広まるような事になれば、それこそ一大事。不愉快に思いながらも和尚は、諭すようにゆっくりと首を横に振った。
「そ、その声はお前さまかぇ! ぐ、ぐるじぃ! お、お前さま!」
バリバリバリバリ……ズゥズゥズゥ……
障子の内側よりお猪の声と共に妙な音が聞こえるのに、和尚の表情に恐怖の色がサッと広がる。どうやら畳に爪を立てて張ってこようとしているようだ。
常ノ魔の地獄で悶えるお猪はまるで洞窟の暗闇の中に刺す一筋の光に希望を見出したかのように、弱々しい声で七兵衛を呼んだ。その声は先ほどまでの毒々しいものではなく、かつてのお猪を想い起こさせるような女の声に戻っていた。
「お猪! 大事ないか! お猪ぉ! 今、そっちへ行くぞ!」
「あぁ、お前さまぁ……。そのお声こそ、何よりの妙薬にございます……」
和尚を押し退けて常ノ魔へ行こうとする七兵衛を、宗鑑と和尚が必死に引き止めた。
「しばらく! 七兵衛殿……しばらく」
和尚はお猪の下へ行こうとする七兵衛を無理矢理引き留めて、袖を引っ張るように本堂の方へ連れて行った。その背後では七兵衛を何度も呼ぶお猪の声が寺中にこだましていた。
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