世界の命運を握るヒト

篠騎シオン

それは彼女の幸せ

彼女に会ったとき、僕は、ああ、写真で見るよりも美しいな、と率直に思った。


少し悲し気な、伏し目がちの瞳。

流れるような黒髪。

美しくきめ細やかな肌。

触ると壊れてしまいそうなガラス細工のような、美しい彼女。


「いらっしゃい、あなたが私の旦那さんになる人?」


その心に宿っているのは、何色か。

僕にはそれを感じ取ることは出来なかった。



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「おはよう、あなた」


「おはよう」


そう言って寝室から起きてきた彼女にキスをする。

食卓の上には、彼女のための朝食がもう用意してある。

彼女のお気に入りの朝のルーティン。


「「いただきます」」


二人そろって手を合わせる。

食事のお供はクラシック音楽。

彼女の大好きなたくさんの名曲たち。


「おいし」


そう呟く彼女を見ながら、トーストをかじる。

彼女はあっという間に朝食を食べ終えると、朝の日課である植物の水やりのためベランダへと出かけた。


その姿を見ながら、コーヒー片手に物思いにふける。


――僕は、彼女を幸せにする役目を与えられてこの場所に来た。

なんでも、彼女は世界の命運を握っている女性ヒトであるらしい。

絶対に幸福でい続けてもらわなければいけないお方なのだそうだ。


そんな女性の伴侶として、僕は、世界中にいる無数の男性の中から彼女を幸福にする可能性が最も高い男として人類の英知を集結して選出されたのだという。


幸運なことだ。

僕には親も兄弟も親戚もない。

親しい友人はいるが、彼らは僕の負うべき役目のことを離すと、頑張れよと応援の言葉とともに送り出してくれた。

現世に人間関係の未練がないことで、僕は彼女を幸福にすることに集中できる。


実際、今のところうまく行っている。

世界一幸福が必要な女性ということで、僕が彼女の幸せのため要望したことはどんな要求でもほぼすべて通るのだ。

例えば、最高級の食事を用意することだって、大きな遊園地を貸切ることだって、ひいては日本の国民すべてにみずから命を絶つように、と命じることさえも。


けれど、彼女の幸せのために、そんなことは必要ない。

基本的に彼女は、マンションの小さな一室を模したこの空間に満足している。

……そもそも彼女は生まれた時から限定的な教育しか受けていないので、外を知らない。

知識が多いと求める幸福が複雑化し、難しくなるから、と職員は説明していた。


僕はそれが少しだけ悲しい。


例えば、彼女は自らが毎日楽しそうに水をあげて、成長を観察しているソレが、真の植物ではなく、絶対に枯れない人工物であるとは知らない。

彼女は土のにおいを嗅いだこともなければ、親の愛情も、動物との触れ合いも、大勢の中で生きる楽しさも、何かを達成する生きがいさえも、知らないのだ。


でも悲しい気持ちがある一方で、知らないということは、ある意味幸福かもしれない、とも思ったりするのだ。


「サボテンがね、またちょっとおっきくなってた~」


幸福そうに言いながらベランダから戻ってくる彼女。

その言葉で僕は、本物の触ると痛みを伴うサボテンを思い出し、少し恋しくなる。

知ることはある意味、罪だ。


「どうしたの?」


そんな僕の心の変化に彼女は感付いて、近くに寄ってくる。

彼女を不安にさせてはならない。

僕はサボテンのことを頭から追い出し、彼女にハグをして耳元でささやく。


「なんでもないよ」


そして、顔に自然に笑みを浮かべて、彼女に向き直る。


「お昼、どうしようかなって悩んでただけさ」


「うーんとね、今日のお昼はグラタン食べたいかも!」


「いいよ、僕も食べたい。それじゃあ、お昼までなにしようか」


彼女は僕のその言葉によって、顔を赤らめる。


「あの……ね、今日というか、朝もシて、いいかな?」


そういう行為になんの照れもない僕であるが、彼女のピュアな反応につられて赤面してしまう。


「構わないよ、君がしたいだけ。僕もしたい」


「ちょ、ちょっと待って、私シャワー浴びたり準備してくる!! 覗いちゃだめだよ」


そう言ってバタバタとお風呂場に向かっていく彼女。

僕はその姿を温かい気持ちで見届けてから、キッチンへと戻り冷蔵庫を確認する。

冷蔵庫の中には、すでにグラタンの食材が追加されていた。

いつもながらに仕事が早い。

僕らの生活は基本的に外に出なくてもいいように、完全に管理されている。

出る機会とすれば日に一度の彼女の就寝中に行うメディカルチェックくらい。

けれど、これは人間が安全に生を保つためには必要なこと。

気軽に外に出られないこと以外、何不自由ない生活だ。


ただし実は、たった一つ。

厳然として存在する制約がある。

僕は彼女をその手に抱く前に、そのルールを心の中で復唱する。

この役を始める前に恐怖として心に覚えさせられもした、それを。


『彼女と子供を作りたい、と思ってはならない』


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あれからまた、幾月も過ぎた。

かわらない日常が、ある事件をきっかけに、変わり始める。


そう、願ってしまったのだ。

だって、どんなに脅され怖い目にあわされたとしても、願わずにいられるだろうか。

愛する人との子供を。


僕は、彼女との行為中に、

『どうなってもいいから、彼女との子供が欲しい』

そう、たった、一瞬。

そう思っただけなのだ。


あとはいつもと変わりのない行為だった。

愛し、愛され、愛しかえし。

彼女とぐちゃぐちゃに一つになって、お互いに気持ちがよくなって。

それから眠りについた。


でも次の日目が覚めて起きてきた彼女は、僕にこう言ったのだ。


「こどもが出来たみたい」


彼女が世界の命運を握る、普通ではない超自然的な女性であることを、僕はその時痛感した。



その言葉が彼女から発せられてすぐ、今まで妻との連絡ごっこ以外で一度も鳴ったことのなかった私の携帯が鳴る。


「はい、もしもし……」


恐る恐る出た電話。

電話の相手は、小さくため息をついてこう言った。


『やはり、望んでしまったんだね』



妊娠が発覚した彼女は、私と一緒にメディカルルームで健康チェックを受けるようになった。

少し前までの彼女には必要のなかった検査だ。

世界の命運を握った超自然的な存在である彼女は基本的には、病気にはならない。

けれど、妊娠は別ということだった。


「現代の医療技術ではできないことも多いけれど、やらないよりはなにかマシかもしれないから」


僕にそう耳打ちをして、メディカルチームのメンバーたちは献身的に彼女の検査をした。

彼女はそれらをあまり快く思ってはいなかったようだが、子どものためなら、と懸命に我慢していた。


僕は、心の底から彼女と子どもの健康を祈った。

子どもが万が一亡くなって、世界一幸せにならなければいけない彼女が落ち込んでしまう、という可能性は出来るだけ考えないようにしていた。

ただただ、祈りを捧げ、彼女のことを支え続けるのだった。


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彼女の子供が生まれた、女の子だった。

母子ともに、健康で生まれてきてくれた。


けれど、僕らの生活は一変してしまった。

とても悲しい方向に。


彼女と僕は、娘を抱くことも面会も許されなかった。

そして、僕は役目の解任の通告を受け取った。

そこには、自分が望むならば彼女と一緒に居続けることは可能であるが、支援のリソースは前ほど大きくかけられないこと、子どもには直接一生会うことは出来ないということが書かれていた。


なぜ?

彼女は世界の命運を握る女性ヒトなのに?


納得のいかない僕が抗議の声を上げると、その答えは意外とすぐに得ることが出来た。

でも僕は、その問いを投げかけたことを後悔している。

心の底から、深く、猛烈に。

僕らの状況は、本当に危機一髪だったのだ。


まとめると、こうだ。

彼女はもう、世界の命運を握る女性ヒトではないということ。

それは、彼女のお腹に子どもが宿った時点で、世界の命運はその子に託されているからだということ。

つまり、彼女のお腹にいる間に娘が死んでいた場合には、世界は終わっていたということ。

世界の命運を握るヒトに、人の死の経験をさせるわけにはいかないために、死ぬ可能性のある普通の人間である自分と、普通の人間となった彼女に会わせるわけにはいかないということ。


その文書を読んだ僕は過呼吸を起こした。

自分の行為がいかに愚かだったか、思い知った。

ただ、僕が願いさえしなければよかったのだ。

そのための恐怖も十分に受けていたはずだ。

なのに、なのに――。


もし万が一、僕の後任者が、これを読んでいて、それから、まだその一線を越えていないのであれば、思い直してほしい。

もっとも、この事実を知ってから、”夫”役となった先任者すべてがその役目に失敗して世界を滅ぼしかけたというので、今後も、知らされないままかもしれないが……。


私はこれから、娘を取り上げられ、初めての不幸に苦しむ彼女を支えていこうと思う。

普通の人間になったからには、外に出てみるのもいいかもしれない。

彼女が元気になったら、また、子供を作ってみるのもよいだろう。


少しだけ、彼女と普通の時を生きていけるのは、嬉しい。

けれど、それは人類すべてをかけた綱渡りと、娘を運命に縛り付けたという罪の上に存在するということを、僕は忘れずに生きてかねばならない。




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「マジ、かよ……」


俺はそれを読んで膝から崩れ落ちた。

幾代か前の、先任者が綴っていた日記。

職員から言われていた言葉にそんな意味があったなんて、思いもしなかった。

どうして教えてくれなかったんだ、そう喚きたい気持ちが芽生える。

けれど、心のどこかで、聞いていたとしても俺は彼女との子を望んでしまったんだろうなという気持ちもあって、俺は誰かにこの罪を擦り付けることもできない。


結局、悪いのは俺だ。


忠告を聞かなかった俺。


そしてほんの一握り、俺と彼女には運がなかった。








ごめんなさい。

今日、世界は滅びます。

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