裸のお付き合い

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裸のお付き合い

 いい湯だ。湯温は41度ほど、普通のお風呂で考えればぬるいくらいだが、水面から出ている顔が冬の風に撫でられるので、総合的にはちょうどよい。

 冬の露天風呂。それも、俺の他には誰もいない。

「うーん。マジで秘湯だなあ」

 呟く声は、銭湯よりも小さな規模の湯場に吸い込まれて消える。

 ここは正に秘湯だ。北海道の山奥、車では辿り着けないので途中からスキー板に乗り換えなくてはいけない。それも駐車場からスキー場に行く程度の距離ではない。一時間以上はカニのように体を横にして、道が雪に埋もれた中を地道に進み続けなくてはいけないのだ。

 普通の温泉好きならまず話を聞いただけで断念するだろうが、俺のような秘湯・野湯好きならこのくらいはやる。辿り着くまでの苦労も、秘湯を味わうスパイスになるんだし。普段の会社勤めで溜めたストレスを、誰もいない広い湯の中、それも大自然に囲まれた中でゆっくり癒す……それが俺の大事な趣味なのだ。ここ数年はそのためだけに休暇を取ったりもしているので、もはやライフワークと言ってもいいかもしれない。

 着替えている間に確認したところでは、俺の他に誰もいなかった。肩に湯をかけたり顔を洗ったりする度にちゃぽんとたつ水音が、耳に心地よい。

「確か源泉が結構近いんだっけ。どっちだろ」

 外気温との差が凄いのだろう、低めの湯温でも湯煙がもうもうと立っている。ちろちろと源泉から流れてくるらしい湯の音を辿ろうと首を捻ったが、いまひとつ方向を掴めない。まあ別に気にしなくてもいいか、と思った時、雪を踏み締める足音が耳に届いた。

 ぎし、ぎし、という音は、俺が浸かっている方向とは真逆の正面の辺りで止まった。確かに道なき道を辿った先で、特に定まった脱衣所がある訳でもないこの場所なら、ところどころ歪んだ長方形の形をしたこの湯場のどこからでも入湯することができるだろう。

 ざぶ……ん。

 そんな音が、湯煙の向こうから聞こえた。

 結構、体がデカい奴が来たんだな。

「こんにちはー。お先に失礼してます」

 こういう場合、声をかけなくても別に非礼には当たらないものだが、ここのように完全に混浴の場所では、念の為に自分の存在をアピールするようにしている。もし混浴だと知らないまま女性が浸かっていたとしたら、後で問題になる可能性だってあるのだから。

「…………」

 相手からの返事はない。だが、それは想定内だ。こんな山奥の秘湯に浸かりに来る奴は、別に人との出会いなんて期待してやいない。むしろ人のいない場所でのんびりと過ごしたいから、わざわざ誰も来ないような場所を選ぶ。

 だから俺も、無言の相手にそれ以上話しかけたりはしなかった。向こうもやはり無言のままで、そのまま十分ほどは過ごしたろうか。

 ちらほらと雪が降ってき始めた。

「あ、やべ。こりゃすぐ本降りになるな」

 山の天気は変わりやすい。すぐに吹雪になる可能性もある。俺はさっさと上がることにして、最後にまだ湯煙の中にいる相手に一声かけた。

「雪、本降りになる前に山降りた方がいいっすよ。それじゃ、俺はこれで」

 返事の代わりだろうか、ばしゃん、と水面を叩くような音が聞こえた。

 ああ、一応聞いてくれたんだな。

 少しだけホッとして、リュックから取り出したタオルで手早く体の水分を拭いて着替え、スキー板に乗ってストックを構えて、滑り出しながら何気なく下を見た。

「…………あ」

 全身の毛が逆だって、一瞬、耳が聞こえなくなった。のは気のせいだったけれど、全身が細かく震え始めたのは気のせいじゃない。

 カニのように横向きに、なんて言ってられなかった。俺はもはや誰かと競う時のような速度で板を滑らせ、ストックで雪を掻いた。後ろを振り向く気にはなれなかった。

 とにかく早くここから離れなくては。

 その一心だった。


  熊の足跡だ。

 俺がつけたスキー板の跡に重なるようにして、湯場の方へ向いた足跡が、雪上に残されていたのだ……。

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裸のお付き合い tei @erikusatei

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