10 海の底

 私はその頃、かなり病的だった。

 ほとんど発狂しかけていた。

 当時の私にとって、その状態がデフォルトで (徐々に悪化してはいたが) 、病院に行こうという発想がなかったのだが、今から思えばかなり危険な状態だっただろう。

 いつも、頭の中で思考が浮かんでは消え、浮かんでは消えていた。常に、頭が高速回転していた (もしかしたら、眠っているときでさえも) 。

 私は自宅の壁や冷蔵庫に、黒い点を書き、それをじっと眺めていた。そして頭の中の思考を止める訓練をしていた。

 一方で、自分の意識が (あるいは魂) が、どこか彼方に (宇宙の果てに) 飛んでいって、消えてしまうような錯覚に捉われた。そして飛んでいったら、もう二度とこの身体には戻ってこられないだろう、とも。私はそれを自分自身の身体に引き留めておかなくてはならなかった。

 私はその恐怖から逃れるため、小説を書き続けた。何かに集中しているあいだは、その恐怖から逃れることができたからだ。

 小説を書くことにくたびれると、本を読んだ。ジャンルは問わなかった。ライト・ノベルから古典まで、参考書から哲学書まで、何でも貪るように読んでいた。



 私は、一人暮らしを始めた。

 そこは、家賃が三万円丁度のボロアパートだった。

 私はそこで寝起きをした。その頃の私は、料理など一切していなかったので、カップ麺ばかり食べていた。炊飯器は持っていたが (職場の人がくれた) 、面倒臭くて米はほとんど炊かなかった。

 相変わらず、私の脳内の思考は止まらず、脳が常に高速回転していた。私はそれを止めるため、職場からもらってきた冷蔵庫に黒い点を書き、そこをジッと眺めていた。

 そして、自分の意識がどこか彼方へ飛んでいって、消えてしまうという恐怖から逃れるために、私は小説を書き続けた。書いていなければ気が狂ってしまうと思った。文章を書くことにくたびれると、やはり本を乱読した。

 仕事も必要以上に一生懸命やった。私の集中力は周囲から見れば鬼気迫るものがあっただろう。誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰った。納期が間に合わないときは、寝袋で泊まり込むこともあった。

 私は、自分には価値がないと思い、仕事ができる自分には価値があると考えていた。だから仕事を一生懸命にやった。

 一方で、いくら仕事ができてもその価値とは紛い物なのだ、ということにも、心の隅のほうでは気がついていた。それは本当の私の価値ではないのだと。

 私はそのことから目を背け続けるためにも、さらにがむしゃらに働いた。

 私は、マズローの欲求五段階説のうちの、「愛と所属の欲求 (ありのままの自分を受け入れられたい。つまり愛されたい) 」が満たされていなかったのだ。私はそれを「承認欲求 (自分の能力を肯定されたい。つまり誉められたい) 」で満たそうとしていた。

 だから他者からいくら承認されても——つまり誉められても——、それが満たされることはなかった。私が望んでいたのは、「ありのままの自分が受け入れられること」であり、「仕事のできる自分が受け入れられること」ではなかったからだ。

 私は思うのだが、人は子供時代のうちに、「ありのままの自分が受け入れられる」という経験が必要なのではないだろうか。能力の有無で、肯定されたり否定されたりしてはいけないのではないだろうか。

 つまり、子供たちに必要なのは、「条件付きの愛」ではなく、「無条件の愛」なのではないだろうか。

 なぜなら、社会に出てしまえば、「ありのままの自分が受け入れられる」という経験を持つことが難しくなるからだ。大人は大人を甘やかさない。たとえその人の心理が、まだ子供だろうと (身体は大人でも) 。

 そして、小さな子供は大人を疑わないが、大人は大人を疑ってしまう。つまり、相手の愛を——それが本当の愛でも——素直に受け取ることができなくなってしまう (少なくとも、私の場合はそうだった) 。

 したがって、「所属と愛の欲求」が満たされないまま、社会に出てしまえば、その人がそれを解消することはほとんど不可能になってしまうだろう。

 それでも自己実現はできるかもしれないが。現に、その状態でもそれをしている人たちを、私は何人か知っている。しかしその人は、かなりのハンディを背負うことになるだろう。冗談ではなく、その人の人生は「ベリー・ハード・モード」になるだろう。

 もし、この地球が何かの研修センターだとしたら、それは卒業試験レベルの難問なのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る