9 壊れゆく世界

 東日本大震災が起きた。

 地震が起きたとき、私は仕事をしていた。凄まじい揺れだった。

 上司と二人で、工場の外に出た。等間隔に並んだ電柱が、大きく横に揺れていた。

 電車が止まっていたので、社長が車で地元駅まで送ってくれた (息子を大学に迎えに行くついでだったが) 。バイパスは、たくさんの車で鮨詰めになっていて、ほとんど微動だにしなかった。

 二、三時間ほどかけて、私は地元駅までたどり着いた。私は中華料理屋で夕食をとった。津波の映像がテレビで流れていた。私の箸の手が止まった。この世の終わりのようだった。

 しかし、私の心はほとんど揺れなかった。私は、ぼんやりとその映像を見ていた。何か違う世界の出来事を見ているかのようだった。

 そのとき、TVで頻繁に流されていた「ACジャパン」のCMには、私も薄気味悪さを覚えた。当時の日本の状況と、そのCMのほのぼのとした内容のギャップが理由だったのだろう。

 当時、都知事だった石原慎太郎が「天罰発言」をし、世間からバッシングの嵐を受けていた。石原は、日本人のアイデンティティは「我欲」だと言う。「自分のことしか考えていない」と。

 その翌年、私は新幹線で仙台まででかけた。

 海岸線に近いところは、やはり壊滅していた。骨組みだけを残して立っている建物や、瓦礫の山が、そこかしこにあった。

 私にはそこが、日本の敗戦後の風景のように見えた。つまり、原爆投下や大空襲後の焼け野原のように。

 松林を抜けて、海岸まで行った。浜辺は大きく歪んでいるように見え、辺りにはゴミが散乱していた。



 おばが亡くなった。

 ガンの闘病後に息を引き取ったのだ。

 私は入院中のおばを見舞いに行くことは一度もなかった。

 父親がおばの見舞いにでかけたとき、「人間ってあそこまで変わるものなのか」と溢していた。内容からして、彼女の人格のことだろう。

 私は見舞いに行かなくて良かったのではないか、と今でも思っている。これは合理化ではないだろう。

 そしておそらくおばもそう思っていたのではないだろうか。

 私がおばの立場だったら、人にそんな姿を見られたくはなかっただろう。

 おばの葬式のとき、私は涙が出なかった。おばの死に顔を目にしたときも、火葬後の骨を拾うときも、心が揺れなかった。

 私はそのことを、悲しいとさえ感じなかった。



 私は恋をしていた。

 かつてのクラスメイトの女の子だった。

 私が二十歳前後の頃、よく同窓会が催されていた。

 その女の子も度々そこに顔を出した。

 とても綺麗になっていた。人とはこんなに変わるものか、と思った。

 私は今も昔も引っ込み思案なので、その女の子に話しかけることができなかった。なんとなく気を引こうと色々試行錯誤をしてみたが、どれも空振りか、あるいは逆効果だったように思える。

 ただ、話を聞いていると、私とその子の趣味はやたらと合ってた。私はこのとき、運命を感じた (本当に何か縁があったのかもしれない) 。

 その子と、カラオケでデュエットをしたりもした。

 私はある夜、彼女への想いを抑えきれずになり、携帯電話で彼女に告白した。

 ハッキリと断られたわけではなかったが、その声と言葉には、迷惑そうなニュアンスが篭っているように感じられた。

 私の心の中に、竜巻のような砂嵐が生じた。私は実際にそれを、目にすることができた。

 「断られたわけじゃない」と私は自分自身に言い聞かせた。「まだわからないじゃないか」

 しかし、そこには可能性がないことを、私はよく知っていた。心の底の部分では。

 おそらく私は、彼女の中に「母なるもの」を見出していたのだろう。

 だから私は、彼女にとても惹かれたのだ。

 ちなみに、私はその頃、離人症的だった筈だ。なぜ、私は彼女に対して、恋愛感情——という名の依存心——を持ち得たのか? 正確に言えば、それを意識できたのか?

 依存心というのは、それほど強い感情・欲求なのだろう。離人症的になっても、三代欲求が失われないように。それらの欲求というのは、人間の——-あるいは生物の——基本となる欲求だからだろう。

 その一件のあとで、私の解離と分離はさらに強いものになった。私はその件に対して、強い恥と絶望を感じていたからだ。私は、その記憶と感情を自分自身から切り離す必要があった。

 

 私は、「彼女が、私に対して恋愛感情を抱いている」 (少なくとも、「私のことを気にしている」) と錯覚していた。

 そのとき私は、彼女に対する恋愛感情を抑圧していたのだ。

 「抑圧されたものは投影される」とユングは言う。私は、その抑圧した想念 (感情・思考) を彼女の中に見ていたのだ (そういえば、彼女のことを好きだとハッキリと自覚したとき、その錯覚が消えたような気がする。そのまま勢いで告白してしまったが……) 。

 つまり私は、現実を直視していなかった。投影された自分の想念というフィルター越しに、世界と他者を見て、それらを解釈していたのだ。

 私は、少なくない犯罪者たち (たとえば秋葉原事件の犯人や、附属池田小事件の犯人) の心理は、投影や外化で説明できるのではないかと思っている (「投影」とは、自分の相手に対する想念を、相手の自分に対する想念だと捉えることで、「外化」とは、自分の自分に対する想念を、相手の自分に対する想念だと捉えることだ。どちらも抑圧によって生じる) 。

 彼らは二重、三重にも重ねたフィルター越しに、世界や他者を捉えていたのではないだろうか?

 彼らが、もしも心理学に興味を持っていたら——ユングや防衛機制に関心を抱いていたら——、あのような惨劇は起こらなかったのではないだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る