8 転職
その後、私はその会社をクビになった。思いがけず、自分の望みが叶ったのだ。
私は一日中、自室の布団の中にいて、安定剤が切れたり切れかけると、電車で隣町の病院まででかけた。
私はその頃、浦沢直樹の『MONSTA』を読んでいて、病院の待合室でもそれをぼんやりと読んでいた。
グリマーという登場人物が、望まれずに生まれてきた孤児に対して、「お前が生まれてきたことには意味がある」と主張する場面がある。当時の私には、それがどうしても信じられなかった。
グリマーが「自分の子供が死んだことが今悲しい」と、今際の際で涙を流す。「これが悲しみか……。これが幸せか……」と。
今の私には、彼のその気持ちがよくわかる。私も離人症的になり、感情が全く感じられない時期があったからだ。死んでいるように生きていたからだ。
しかし当時の私は、グリマーの考え、思いとは真逆のそれらを持っていた。私は感情を感じたくなかった。ロボットのようになりたかった。かつてのグリマー、あるいはルンゲ警部のように。
そのほうが、生きる上でラクだったからだ。仕事でも、人間関係でも。
実際の人格や感情を切り離して、作られたそれらで生きることのほうがラクだった。
*
私はその後、重たい身体を引きずって、隣町のハローワークまででかけた。いつまでも布団の中にいた私を、痺れを切らした父親が怒鳴りつけたのだ。
ハローワークの建物の目の前で、中学時代の悪友の一人にばったりと出会った。彼はそのとき大学生で、彼女を連れていた。彼は、私とは違う世界に住んでいるように見えた。
ハローワークのパソコンで職を探そうとしても、モニターにある情報が全く頭に入ってこなかった。文字がただ上滑りするだけだった。
それでもなんとか、アルバイトの職を見つけ出し、その面接にでかけた。隣町にある、工場の仕事だった。
そのとき、学生時代の友人から携帯電話に連絡が入った。彼もその頃、大学生だった。
「ウチで働かないか?」とのことだった。彼の家は小さい町工場を経営していた。正社員になれるとのことだった。
私はその友人と、彼の家の工場まで行き、彼の父親から面接を受けた。
面接は無事に通り、私はその工場で働くことになった。
*
その工場は、日曜休み、土曜は隔週で休みだったが、仕事は8時から17時まで、残業もほとんど無しで、私にはそれが嬉しかった。
仕事内容も、前の工場よりも肉体的にも精神的にもラクだった。
「人生の夏休み期間だ」と思った。「こんな幸福がいつまでも続くわけがない」と。
上司たちも、前のあの工場にいた人たちほどは酷くはなかった。
中には、人格者のような人までいた。私は社会に出て、初めて大人に出会ったような気がした。「この人について行こう」と思った。
余談だが、その上司は、私にとっての精神的な父だった (私の実の父親は、父というよりも、歳の離れた兄のような存在だった) 。
アメリカの心理学者・哲学者のケン・ウィルバーの言説に従えば、彼は後期自我のようだった (そして私はその頃、中期自我から後期自我への過渡期にいた) 。
当時の私は様々なことに対してルーズで、その上司は、私のそのような面を時に諌め、時に不快感を示した。
遅刻には人一倍厳しい人で、朝寝坊を繰り返す私に、彼はよく激怒した (おかげで私は、遅刻というものをほとんどしなくなった。今では、仕事の始まる30分前には、職場の近くのカフェやハンバーガー・ショップに入り、コーヒーを飲む習慣がついている) 。
おそらく彼は、かつての自分を私の中に見ていたのだろう。だらしなかった頃の自分を。つまりユングの言う、シャドウの投影を私にしていたのだろう。
その頃には、もう漫画家を目指すことも、漫画を描くこともやめていた。
漫画を描くことが苦痛になっていたのだ。
それに知人たちに絵の上手い人たちがゴロゴロといて、打ちのめされていた。あまりにも圧倒的で、「これは越えられない壁だ」と思った。
漫画原作者を目指すという道もあったが、当時の私には、それがどうしても許せなかった。私は一人で何でもしないと気が済まなかった。
やはり私は未だに、白黒二極思考だった。中間点を捉え、それを受け入れることができなかった。
私はその頃から、ネットに文章を投稿するようになっていた。そして、次第に小説を書くようにも。
それらは全て自分一人でできたからだ。それに、絵に関しては私に伸びしろがあるとは思えなかったが、文章に関してはまだそれがあると感じられたのだ。
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