7 就職

 私は高校を卒業したあとで、就職した。

 そこは比較的大きな工場で、百人ほど従業員を抱えていた。

 私は、地元の町から電車とバスで一時間ほどかけてそこに通った。

 ここで私は、社会の洗礼を受けることになった。

 そこはかなりの重労働で、体力や筋力が必要なだけではなく、機械操作もするので神経も使った。ミスをすれば、上司にかなり迷惑をかけることになった。

 日勤を12時間、3日働き、2日休日。それから夜勤を同じように働き、1日と半日休む。そしてまた日勤。そのような体制だった。

 私はまるで仕事ができなかった。要領がとにかく悪く、スピードも遅かった。言われたことを理解できず、あるいは誤って捉えた。よく上司たちや先輩たちから叱責された。

 学生時代から自分のそのような本性に薄々気づいていたが、それまで騙し騙し生きていた。学生の頃はなんとかなったが、社会では上手くいかなかった。自分のその本性がそこで露呈してしまったのだ

 私はその日の仕事が終わったあとも、残業をした。終電が無くなり、会社に泊まり込むこともあった。

 仕事があまりにもできなさ過ぎて、上司に胸ぐらを掴まれたり、泣きながら土下座をすることもあった。

 一方で私は、先輩たちからかなり利用されていた。給料日後に金を二万円ほど取られたり (借りるという名目で) 、中古のパソコンを高額で売りつけられたりした。その頃の私は、自己啓発本などを読み、人格改造をしていたので、そこにつけ込まれたのだろう。

 ある先輩にここをやめたいと言ったことがあるが、「ここで通用しないのであれば、他でも通用しない」と言われた。私はここでしかまともに働いたことがなかったので、それを馬鹿正直に受け取った。今なら、それが間違いだとハッキリとわかる (大体その先輩も、そこを新卒で入社したのだ) 。


 しかし時おり、私は思わぬやさしさを受けることになった。

 夜、バスの最終を逃したとき、車で、駅や家まで送ってくれる人たちがいた。

 彼らが私に何かを要求することはなかった。ガソリン代だって馬鹿にはならなかった筈だ。

 私にそんなことをしても、何のメリットもなかっただろう。デメリットどころかリスクすらあったかもしれない。

 ある先輩が私を家まで送り届けてくれたとき、コンビニのフライド・チキンを私に求めたことがあった。私はそれを買った。

 それは多分、私に罪悪感を持たせないことが目的だったのではないだろうか。つまり、彼と私のあいだに、貸し借りを作らせないことが。

 少し大げさかもしれないが、私は彼らの中に、オスカー・シンドラーや杉原千畝の魂を垣間見た気がした。



 その職場で一年半ほどが過ぎた頃、私は徐々にだが仕事ができるようになってきた。

 工場長が、私に機械の操作の手解きをしてくれたのだ。その人は、その機械のエキスパートだった。私はこの件から基本の重要さを思い知った。

 相変わらず私は不器用だったが、そこは気合いや努力でなんとかカバーしていた。その頃の私はもっぱら精神論で生きていたが、実際仕事は上手くいった。

 実力の上では同期たちを超えた、と私は自負していた。

 先輩たちが私をいじめることも少なくなっていた。私が力をつけたからだろう。あるいは私のことを認めたのかもしれない。

 「とりあえずこれで大丈夫だ」と私はホッとした。

 一方で私は、休日や仕事終わりの隙間時間を使い、まだ漫画を描き続けていた。

 ある日、出版社に持ち込みに行ったとき、編集者から名刺を渡され、「次回から私が見ます」と言われた。私は、自分に担当編集がついたのだと解釈した。

 自分の人生に何か、光が射し込んできたように思えた。

 その頃から、私の身体——というか精神にガタがきた。

 何かパニックを起こすようになっていた。不意に涙が溢れて止まらなくなった。機械のエラー音の幻聴が聞こえるようになった。

 私は地元の町の心療内科に足を運んだ。

 診断は、「自律神経失調症」だった。

 私は安定剤をもらい、それを飲みながら仕事をした。

 ある日勤のとき、私は泣きながら笑いが止まらなくなり、過呼吸を起こした。先輩がビニール袋を持ってきて、私の口にそれをあてがった。「人が壊れるところを初めて見た」とその先輩は凍りついたように言った。

 私はその会社の専務に、私の家まで車で送り届けられた。

 専務は、裁判がどうのという話を、泣き続ける私に話した。彼は普段の仮面が外れ、素の自分を露出しているように見えた (あるいはそれもペルソナだったのかもしれないが) 。

 私は泣きながら、それを聞き流していた。私の父親が、私のことで裁判など起こす筈がない、と知っていたからだ。

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