2 おば

 私にはおばがいた。私と血の繋がりのない。

 明るい人で、常に、笑顔を絶やすことがなかった。

 いつもニコニコしていた。 

 ある夜、私は地元の駅前で、祖母からおばの手に引き渡された。

 「じゃあ、行こうか」おばは、いつもの笑顔で私に言った。

 そうして、私と手を繋いだ。

 そのとき私は、ホッとしたことを覚えている。心の底から。

 そして、喜びを感じた。

 その感情は多分、生まれて初めてのものだったのかもしれない。



 私はある夜、高熱を出し、救急車で大きな病院に運ばれた。

 両親が言うには、41度の熱で、私は真っ青になり泡を吹いていたとのことだ。

 私はそのとき五歳だったが、そのことを断片的にだが覚えている。

 担架に乗せられ、運ばれる自分。アパートの駐車場に停められた救急車。暗闇の中で、赤く光る救急車のランプ……。

 救急車の中で、私は機械に取り囲まれている。そして、忙しく動く救急隊員たちの姿……。

 病院の固いベッドの上に仰向けに寝かせられ、医師から質問される。とても強い調子で。(便は出るか?など)

 

 私は一か月ほど、その病院に入院した。

 五歳児にとっての一ヶ月は、気の遠くなるほどの期間だった。ほとんど永遠と言ってもいいくらいに。

 私は大部屋にいた。そこには私と同じ歳くらいの子供たちがいた。

 新入りの私は、彼らに馴染むことができなかった。そこにはすでに、一つの社会が形成されていたのだ。

 母親がほとんど毎日、私の病室に顔を出した。

 私は、ミニカーで遊びたかったが、それは聞き入れられなかった。私は母親が持ってきたスケッチブックに、車の絵を描いて遊んでいた。

 私は母親のことが、あまり好きではなかった。当時から。

 たぶん、母の情緒があまり安定していなかったからだろう。彼女はよくヒステリーを起こしていた。

 決定的だったのが、幼稚園の餅つき大会のときだった。

 当時私は、ある女の子に恋をしていた。ようするに初恋をしていた。私は母親にだけ、そのことを話していた。

 母親は組の皆の前で、そのことを告げた。大々的に発表するかのように。軽い冗談のつもりだったのだろう。

 そのとき私の中で、何かが砕け散ったように思えた。そして、世界が反転したように見えた。ちゃぶ台がひっくり返るみたいに。

 おそらくこのとき、私は「この人のことは、信用できない」と思ったのだろう。無意識のレベルで。

 私と母親の愛着関係は、このとき壊れたのかもしれない。言い換えるなら、私の母は、私の母ではなくなったのだろう。

 私にとって彼女は、歳の離れた姉になったのかもしれない。

 数年後、母は父と別れ、家を出て行ったのだが、そのとき私は「ホッとした」。

 私は、開放感を覚えた。心底から。

 もう、怒鳴られなくてもいいんだ、と思った。もう、叩かれなくていいんだ、と。

 その後、今度は父が母のポジションになることを、そのときの私はまだ知らなかった。つまり私の敵は、母から父に変わっただけだった。



 私が退院したあと、今度は弟が入院することになった。ほとんど入れ替わりに。

 今度は母親は、弟を付きっきりで看病しなくてはならなくなった。

 父親は仕事で、私の面倒を見る余裕がなかったのだろう。当時父はほとんど出張で、家を空けていたからだ。

 私は一日、祖母の手に預けられたあと、おばの家に預けられることになった。

 どうして祖母の家に預けられなかったのかといえば、おそらく遠かったからだろう。おばの家は、私の家の割と近くにあった。


 その夜、おばの家で私は、洗面所で歯磨きをした。おばと一緒に。

 苺味の歯磨き粉だったことを覚えている。

 生まれてから、これほど安心感を覚えたことはなかったように思える。

 多分それまでの私は、常に緊張感の中で生きていたのだろう。それが当たり前だったので、緊張の中にいることに、気づくことができなかったのだろう。

 おばには、「母なるもの」があったのだろう。

 そのときのおばとの記憶は、私の中で断片的にだが残っている。

 歳の離れた従兄と一緒に、テレビ・ゲームをした記憶。従兄はわざと負けてくれた。

 上野動物園で歳の近い従兄に、鹿の角で殴られた記憶。

 多分その従兄は、私に焼きもちを焼いたのかもしれない。母を取られた兄が、弟に嫉妬するように。

 おばと手を繋ぎ、おばの家へと歩いていった記憶。周囲は田んぼが広がっていて、のどかな風景だった。

 それらの記憶は、私の心の中に今でも残っている。

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