自由への道

増瀬司

1 幼少時代

 生まれる前の記憶らしきものがある。

 二つある。

 一つ目は、私は光の空間にいた。

 やさしく淡い光だった。

 そこは、何かの球体の内部のようだった。広くはないが、閉塞感もなかった。

 私はそこで、守られているように思えた。包み込まれているように。

 目の前には誰かがいた。

 誰なのかはわからない。姿形はなかった。性別も感じられなかった。

 私は、滑り台のようなものの端に掴まっていた。トンネル状だった。

 滑り落ちないように必死だった。

 私は、その誰かに懇願した。行きたくない、と。必死に。

 私はどうしても、向こうへは行きたくなかった。変化を望んでいなかった。いつまでもここで守られていたかった。

 要は私は、駄々を捏ねていたのだ。

 目の前の存在は、私を諭した。感情的にではなく。どちらかと言えば論理的に。

 私はどんなに駄々を捏ねても、結局は行かなくてはならないことを知っていた。それは時間の問題なのだ、と。


 二つ目の記憶。

 私は中空から町を眺めていた。現代日本だった。

 私はそのとき、「視点」だった。「観測する何か」だった。

 眼下には、住宅街が広がっていた。マンションや一軒家だった。

 並木道を誰かが歩いていた。二人。若い男女のようだった。

 私は降下し、彼らに近づいていった。


 これらはあくまで、生まれる前の記憶「らしきもの」だろう。

 なぜなら、偽の記憶の可能性があるからだ。

 例えば幼い私は、夢を現実だと勘違いしたのかもしれない。

 そして子供には、空想癖がある。

 私は子供時代の空想を、現実の記憶と取り違えたのかもしれない。

 しかし一方で、空想にしては、映像がハッキリとし過ぎているようにも思える。まるで映画のワン・シーンのように……。



 四歳くらいまで、私は言葉を発さなかったらしい。

 そのことで私の両親は、酷く心配したようだ。

 四歳ごろまで、私の視点は、身体の背後にあったように思える。

 つまり一人称視点ではなく、三人称視点だったように。

 小説でいえば、「神の視点」ではなく、特定の登場人物に寄り添う形の視点。

 解離性障害の症状に近い。彼らは、自分自身を背後から見ているようだと言う。

 あるいはそれは、ホーム・ビデオの影響なのではないか、と私は思う。

 子供の頃に、幼い自分が映るビデオを見たことで、私の中に「三人称的に自分を眺めていた」という偽の記憶が植え付けられたのかもしれない。

 しかし一方で、カメラの回っていない場面でも、私は三人称的に自分を眺めていた記憶がある (それは幼稚園の、入園前の手続きの場面だった。父親が側にいた) 。

 五歳以降から、私の視点は一人称的になったように思える。



 幼稚園のときの記憶。

 私はまだ四歳で、幼稚園の年少組だった。

 私はその組の先生が苦手だった。

 女性の先生で、感情を抑制できていない印象があった。その先生からは、安心感が感じられなかった。

 ある日、私はその先生によってトイレに閉じ込められた。

 確か、上履きを上手く履けなかったことの罰だったように思える。私はいつも、上履きを左右逆に履いていた。

 ちなみにその先生は、私の上履きに「右」、「左」と、ふりがなを振って書いたが、私はそれを理解できなかった。まだ文字を読めなかったし、そもそも左右という概念を理解していなかった。

 余談だが、私はその頃 (つまり幼稚園から小学校の低学年くらいまで) 、「自分は何でも知っている」という自負を持っていた。

 なぜ、文字も読めず、右・左の概念も理解できないのに、そんな自負があったのかはわからないが……。

 あるいはもっと大切な何かを、その頃の私は知っていたのかもしれない。

 私は、閉じ込められたトイレの中で一人泣いていた。

 ひどく不当なことをされたように思えた。とても理不尽なことをされたと。

 これは、間違ったことだ、と。

 そのとき、私の前に誰かが現れた。

 姿形はなかった。その個室の天井の辺りにいた。

 実際に現れたのかどうかはわからない。それは、子供特有の空想だったのかもしれない。

 その存在は、あの光の空間にいた存在に似ていた。

 それは、私を慰めてくれた。

 そして、助言のようなものを与えてくれた。

 しかしその言葉を、私は思い出すことができない。

 それはその後も、私がトイレに一人でいるときに何度か現れた。複数で現れることもあった。

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