第10話 パンのドーナツ。
「なんだって? パンを揚げる?」
「ううん。焼いたパンを揚げるんじゃないの。パンになる前の生地を揚げるのよ」
「どういうこったい?」
「発酵したパン生地を麺棒で伸ばして、ドーナツの型で抜いてそのまま加湿してもう一段膨らませてから、そのままさっと両面を揚げるの」
「まさか、この網の上に生地を乗せたまま発酵させろっていうのかい?」
「ええ。天板じゃなくって、この揚げ網の上でそのまま加湿発酵させたいの。そうすることでふわふわな空気を中に閉じ込めたままふわっふわに揚がるのよ」
「ふむ。パンの作り方とはまったく違うんだな」
「それにね。もう一つ。真ん中の穴のないのも欲しいのよ」
「穴のないのを? 穴がなかったらドーナツじゃねえだろうがよ」
「ふふ。今回のジャンの裏をかく作戦には絶対に必要なのよ。あの人はアランさんのドーナツに自分のところのドーナツが勝てないからこうして嫌がらせをしてるんでしょう? でも、パン生地の商品で勝てないだなんて言い訳できるわけがないわ。モックパンが負けるわけにはいかないんだもの」
「まあ。そうだわな」
「だからね。揚げてあるけれど見た目は菓子パンとおんなじに見える、そんなドーナツが作れたらなって」
♢ ♢ ♢
アランさんにジャンのやりようを話したら、「まあ、そうだろうな。あいつはそういうやつだ」と諦めたような口調。
「ねえ、もしかしてアランさんって、モックパンの後継候補だったの?」
と、そうつっこんで聞いてみた。
だって、育ててくれたうえに帝都留学までさせてくれたって、そんなの期待されてなかったらありえないし。
そうしたらすんなり、「そうだ」ってアランさん。
「まあオレだけじゃなく何人もそんな弟子はいっぱいいたけどな。それでも留学までさせてもらったのはオレが最初だった。嬉しかったよ。これでモーリス爺さんへの借りが返せそうだって。オレが役に立つ人間になればそれがいちばんの恩返しになるって思ってさ」
少し悲しそうな顔をしてそう言うアランさん。
「でもそれがジャンの嫉妬を招いたんだろうな。すぐ直訴して追いかけてきたジャンは、オレに負けたくない、が口癖になってしまってた。そこからはまあ前に言った通りだ。ジャンがオレのレシピを盗み、オレはそれに怒ってやつを殴って飛び出した、のさ」
「じゃぁアランさんってパンを作らせても一流の腕前なんだ。だったらこの店でもパンを作ればよくない? 菓子パン専門にすればモックパンさんともそこまで競合しないし」
そう、モックパンじゃドーナツどころか揚げパンの一つも売って無かった。
焼いたパン、そしてケーキにマフィン。おもにそんなラインナップ。
「ああ、そうだな。そうなんだけどな。どうにもモーリス爺さんに受けた恩を考えたらオレがパンを作るのはどうかなって、そう思っちまってたよ」
「なら、パン生地で作ったドーナツを作りましょ? それならモックパンでも売ってない新しいパンだもの。遠慮することないとおもうけど」
「ん?」
「だから、パン生地を焼かないで揚げちゃうの」
「なんだって? パンを揚げる?」
「ううん。焼いたパンを揚げるんじゃないの。パンになる前の生地を揚げるのよ」
ドーナツを揚げる時の揚げ網は、ドーナツ状にカットした生地をそのままゆっくり油に落とす時に使う物。
大きい油鍋に網ごとゆっくりと下ろすことで、生地の形崩れを防ぎ綺麗な形のままたくさんのドーナツを一気に揚げることができる。
だいたいいっぺんに10個くらいは乗るかな。
それをそのまま加湿器に入れる。
でもって頃合いを見て取り出して。
(あ、加湿器はアランさんの手作り。っていうかこの店のほぼほぼすべてアランさんの手作りだったりする。思った以上に多才な人だよねアランさんって)
ふわっと油に落として両面揚げると出来上がり。
網ごと取り出し冷ますわけだけど、グレーズにはなるべくまだ熱々のうちにつける。
棒に穴の部分を通して、そのままくるるっとグレーズの桶の中で回してやる。
そうしてあとはそのまま棒ごと干しておけば出来上がり。
日本のドーナツ屋さんではよくあったハニーリングだ。
人肌に冷めたくらいで粉糖にまぶせば、ふわっふわなシュガーリングの出来上がり。
で。
穴のないのは揚げてシュガーでまぶしてから、ジャムやクリームを詰めるの。
ホイップクリームもアランさんに用意して貰えたから、これで最高の美味しいドーナツが出来た。
日持ちはしないから、あくまで中身はお客さんが買う時に詰める。
ちょっと効率は悪いけど、この方法なら傷まないうちに食べてもらえるだろうから。
前世の日本と違ってここでは一般の家庭に冷蔵庫みたいな物は無い。
秋冬ならともかく夏場は食中毒が怖いしね? ジャムやクリームに保存料だって入ってない。天然の材料だから。ちょっと慎重にならないとねー。
出来上がった新しいパン生地のドーナツは好評で。
ふわっふわなハニーリングはおくちの中でとろけるようで。
シュガーリングもくちあたりがとってもいいドーナツに仕上がった。
クリームドーナツにジャムドーナツも、白クリームカスタードクリーム、いちごジャムリンゴジャムブドウジャムと全部で五種類のラインナップ。
厨房内の冷蔵庫にアイシングチューブに詰めた状態で用意してあるクリームたち。
トレイに並んだシュガーでまぶした空のドーナツに、注文があった時にその分だけ注入するからちょっと手間だけどさっと注入するだけなら一個数秒しか掛からない。
穴あけでサクサクサクと穴をあけ、そこにさっさっさっと絞っていくだけ。
お客さんをお待たせはしちゃうけど、そこはそれ。
新鮮さを売りにしてるのも好評で受け入れてもらえた感じ。
ドーナツの型で抜いた残った生地は、もう一回まとめてこねて最後のパンにする。
発酵もかなり進んだ後の生地だから出来上がりも固くなっちゃうけど、それを活かしたコーヒーロール。
まとめてこねて薄く伸ばし、そこにシナモンの粉を振りかける。
(アランさんが棚から出してきた時には驚いた。シナモンがあるのなら粉糖と混ぜてシナモンシュガーが作れるのに。シナモンドーナツ、けっこう美味しいので今後ラインナップに入れることも検討してもらおう)
そしてその生地をぐるぐるっと巻いてロール状に。
あとはベンチカッターでカットしたら巻いた渦巻きが見えるように手のひらでぎゅっと潰して揚げ網の上に乗せて最後の発酵をさせる。
いい感じに膨らんだら油で揚げて、最後はグレーズに漬け出来上がり。
え? なんでコーヒーロールって名前かって? シナモンロールじゃ無いのかって?
それはこのシナモンの香りと甘いグレーズコーティングが、とってもコーヒーに合うから。
昔々前世のあたしが好きだったドーナツ。
ほとんど菓子パンなイメージだけどね。焼いたらパン、揚げたらドーナツ。それだけの違いかも。
食感も変わるけど。
まあお店ではシナモンロールって名前で呼んでいる。
だってミスターマロンにはコーヒーがメニューに無いもの。
やっぱりここではコーヒー豆はなかなか手に入りにくい、贅沢な飲み物らしいし。
ギディオン様もそしてなんとニーアお姉様もお店に来てくださって、この新しいドーナツを食べていってくれた。
ギディオン様はやっぱりふわふわのハニーリングがお気に召したようで、一度に三個もぺろっと食べてしまった。
ニーアお姉様は白クリームを気に入ってくださった。
「この天使のようなふわっとしたクリームと、口当たりのいいドーナツ生地が合わさって絶品なお味ですわ」
そう微笑みながらおっしゃるお姉様。
喜んでもらえてほんとうに嬉しい。
お姉様はもう少しこちらに居られることになったそう。ベルクマール大公がいらっしゃるあの例の歓迎式典や晩餐会にも御出席されるのだそうで、今回の事後処理を片付けてからもどうせならとこちらにしばらく滞在することになったのだとか。
お別れしなくて済んだのは嬉しい。
だけど……。
ギディオン様とニーアお姉様。
お二人で並ぶとほんとすごく絵になる。
ニーアお姉様の方が少し年上なんだろうけど、そんなこと関係がないくらい仲も良さそうで。
仲睦まじい二人を見てるとちょっとだけ、心の奥がちくっと痛む。
なんでだかわからないけど。
どうしちゃったのかな……。あたし。
二人とも大好きなのに、な……。
ジャン・ロックの使いは日に三度店に現れ根こそぎドーナツを持っていく。
だからお店にはもうハニードーナツとシュガードーナツしか並べるのを辞めていた。
手間のかかるローストナッツとかは作るだけ無駄になって勿体無いし。
その代わりに置いてあるハニーリングやシュガーリング、シナモンロールなんかはパンと認識されたのか、彼らは持って行かなかった。
ジャンがあれから二度とお店に現れなかったのも幸いしたのだろう。
クリームドーナツたちはそもそも店頭に出してないから目にも止まってない様子。
あたしが頑張って書いたイラストと説明書きのボード、そして口コミでお客さんには広まっていった。
そういえば、「元気の出るドーナツ」って評判が立って、口コミでお店にきてくれるお客さんも増えている。
騎士団の方たちが広めてくれたのかな?
そうやって地道に販売個数も増えて、ジャンに持って行かれる分を差し引いてもちゃんと利益がでるようになった頃……。
「なあセレナちゃん。オレ、ちょっとモーリス爺さんに会ってくるわ」
と、唐突にアランさんがそう言った。
「アランさん?」
「ああ、ちょっとな。あの爺さんに、『耄碌してんじゃねえよ!』って言ってやんなきゃ気が済まなくてな……」
神妙なお顔でそんなことを言うアランさん。
白いお髭も今日はさっぱりと剃って、なんだか少し若返ってみえる。
っていうか。たぶんだけど。
アランさんはジャンにお店を継がせたくて自分が悪者になって身を引いたんじゃないかって、そんな気がしてる。
アランさんは強がってそんなこと言わないけど。怒って殴って飛び出した。そう軽く言ってのけるけど、きっとそれだけじゃない。
モーリスさんから受けた恩、たぶん、ほんとの親のように思ってた人に、その恩を返すために自ら身を引いたんじゃないかって。
だけど。
ジャンはそんなアランさんの気持ちなんかわかろうともしないで嫉妬し続けたんだ。
でもだったらだったでもっとちゃんと真摯にお仕事に取り組めばよかったのにね。
こんな嫌がらせのような真似ばっかりしてるからか、どうやらちょっとバチが当たったみたい。
というのも、王都のお店は悪い評判が立って、潰れる寸前なのだとか。
ギディオン様のお家の侍女さん経由で変な噂を聞いて。
ジャンのドーナツは固くて、ボソボソして、なんとなく嫌な味がするって、そんな話が出回っていたから試しにちょっと手に入れてもらったら……、もうびっくり。これ、作って三日は過ぎてない? ってドーナツを堂々と売っていたらしい。
まさか商品の廃棄の時間まで決めてなかった、守ってなかっただなんて。
この世界、前世の日本と違ってその辺の賞味期限とかの法律はゆるい。っていうか正直その辺は売る人の気持ち一つでもある。
もちろん貴族とか権力者の家に腐ったものや毒になる食材を売った商人は私的に罰せられる。
国はそんな難癖で平民が割りを食わないように注視したりはするけれど、基本的に平民を商人から守る法律なんてものはそこまで厳しく決められていないのが現実だ。
だいたい、食べ物に賞味期限なんてものをいちいちつけていたら貧乏な平民の食べられるものがなくなってしまう。
新鮮なうちにお金持ちが食べ、時間が経ったものを普通の平民が食べ、日本じゃ廃棄するような食材は底辺の人や底辺の冒険者やあとは家畜の餌になる。
そうやって無駄なく食べ物を消費しているのがこの今の社会。
まあジャンのお店がそういう衛生観念を持っていなかったのは残念な話だけど、それでも仮にそんなドーナツが王宮に献上され王子の口にでも入ってて、まだ七歳のシャルル王子がお腹でも壊してたら大変だ。ジャンのお店だけでなくロック商会そのものがお取り潰しになっていてもおかしくはない。
王宮のお膝元、王都の一等地でお菓子屋さんを開くっていうのはそんな危険だってあるのだから。
だからこそ、ちゃんと安全安心な食品を提供しなきゃいけないのに。
アランさんは帝都でその辺をしっかり学んできたのだそうだ。
本当だったらジャンだって、それくらいちゃんとわかっているだろうに。衛生観念と利益を秤にかけ利益を取ったに違いない。結果としてそれが客離れを引き起こした理由なのだろうけれど。
「せっかくオレが……、いや、なんでもない。モーリスの爺さんにちゃんと目を覚ましてもらってジャンのやつにガツンと言ってもらわなきゃな。だから」
「ええ。頑張ってくださいアランさん」
「はは。セレナ嬢ちゃんのおかげだよ。今こうやって順調に店がやれてなきゃ、どの面下げてって話にもなるからな。オレは、モックパンにも潰れてほしくはないんだ」
お顔も綺麗にお髭を剃って、髪もきちんとセットしたアランさんはいつものおじさんの印象とは違いイケメンなお兄さんみたいに見えた。服もパリッとしたものに着替えて。
「じゃぁ、行ってくる」
とお店を出ていく。
なんだか少し、晴れやかな、そんな表情にも見えるアランさん。
「いってらっしゃい。あんた、頑張って言いたいことちゃんと全部ぶちまけてきな」
そう送り出すマロンさんの顔も、なんだかとても嬉しそうだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます