危機一髪の意味を辞書で引くと……。そもそも危機一髪の状況を打破できる英雄はどれくらいいるんだろう?

「……何か、私に隠し事してない?」


 來々が、ずいっと俺に忍び寄る。仰向けに、寝ている俺と。猫のように、這って背筋を伸ばす來々ららと。いや、だからね。その見えるか。君はもう少し、兄も男だという認識を――あ、俺はもう兄じゃなかった。


「そ、そんなこと、にゃい……よ?」


 思いっきり噛んだし、声が上擦る。


「お兄ちゃんってさ、隠し事しているの分かりやすいよね」

「そんなこと、ないと思うけど?」


 学校では、何を考えているのか分からないと定評の稀来さんですが、何か?


「分かるよ。そういう時って、さ」


 さらに來々が這って、俺の胸に耳を押し当てた。下腹部に、來々の柔らかい感触がのって――。


(って?! ちょっと待って、妹よ?!)


 近い、近い。距離が近い、近すぎる!

 來々ららの睫が見えるくらいに、近い。


「ほら、やっぱり。ドキドキしているでしょ」


 そりゃ、ドキドキするって。ドキドキしないヤツいないだろ? だいたい、学校でも虎視眈々と、お前を彼女にって目論んでいるヤツ、多いいんだから。そのへん、自覚して?


「お兄ちゃん」


 囁くように言われ、思わず体が震える。今まで何回も繰り返して呼ばれた。それが、今や「兄」と言われるだけで、背徳な匂いを嗅ぎ取ってしまうのは、いったい、どうしてか。


「照れ屋さんだよね。本当に、素直じゃないっていうか。分かりやすくて……可愛い」


 そんなこと言いながら。一番、俺の分かりやすい場所に触れないで。確かに素直だよ。そこは正直だって思うけどさ。今はしずまれ、お願いだから鎮まって! 俺のなかの本能に忠実な俺!


「別になんとも――」

「なんとも?」


「いや、あの……」

「お兄ちゃんは、妹をそういう目で見ちゃう変態さんなんだね」


「み、見てないし!」

「見てくれないの?」


「いや、見る見ないじゃないでしょ? そもそも兄妹で、こういう過剰なスキンシップは、良くないと――」

「妹をそういう目で見るのは良いんだ?」

「だ、だから――」


 本当に今日の來々は容赦がない。なんとか、來々から距離を置こうと体を捩るが、すぐ壁に背中が当たって――俺は來々によって、追い詰められた。


「お兄ちゃん、大きいよね。昔は同じくらいだったのに」 


 片方の手で、俺の背中に手を回す。その指先が、背中をなぞる。來々がさらに、俺との距離を詰めて――俺の耳朶をかぷっと口に含んだ。


「りゃ、來々りゃら……ちょっと、待て! そういうの、本当に良くないから!」

「ん? 何が?」


「何がじゃないって。親しき仲にも礼儀あり、だろ? 男と女なんだからさ、こういうの本当によくないって――」

「別に兄妹だもん。普通のスキンシップじゃない?」


「普通じゃないって! そういうのは好きな人とするべきで……」

「うん。お兄ちゃんのこと、大好き!」


「そうじゃない、そうじゃないんだって! だいたい、俺たち、本当の兄妹じゃないから――」


 そういって、息の呑む。

 來々ららの瞳が大きく見開かれた。


(バカか。俺?!)


 ――卒業するまで、兄妹として変わらず接して。來々ららには、このことは触れない。オッケー?


 母さんとの、約束。もうすでに反故にしてしまった俺だった。でも考えてみれば、來々だって知る権利がある。それをひた隠しにするから、こんなことになったワケで。ここは、正直に――。


「あ……稀来ききも知っちゃったんだ?」


 そう來々は言った。來々、なんていった? 來々、今なんて言った? え? え?


來々ららはもう、知っていた?)


 目をパチクリさせる。ごめん、思考が追いつかない。これは、つまり――。

 俺の責任じゃないよね?

 

 これは危機一髪と言うべきじゃないだろうか。

 つい言葉に漏らしちゃったけれど。


 結局はすでに來々ららは知っていたわけで。俺に落ち度は――。


「だったら。もう稀来ききって呼んでも良いよね?」

「へ? 名前なんか、どう呼んでも――」

「稀来って呼ぶの私だけにしてね。絶対に他の子に呼ばせたらイヤだよ?」


 耳元でそんなことを囁く。


「ちょっと待って! 來々、お前。今日、ちょっとおかしいぞ?」


「おかしくなんか無いよ。私は、お父さんとお母さんの話を聞いちゃった日から、ずっと待ち望んでいたんだもん。お兄ちゃんと結婚したいってずっと思っていたから。それが、社会的にも認めてもらえるんだよ? こんなに、嬉しいことないよ!」


 本当に嬉しそうに。心底、幸せと言わんばかりに、來々ららは微笑を溢した。


 ――分かってないか。だって、稀来ききだもんねぇ。


 今さら、母さんの声が響く。でも、母さん。二人の会話、聞かれていたよ?


 ――卒業するまで、兄妹として変わらず接して。來々ららには、このことは触れない。オッケー?

 これって……つまり、そういうこと?


「いや、でも來々らら……?」

稀来ききは私のこと、イヤ?」

「イヤとか、そういうことじゃなくて……」


 夢を見なかったと言えば、それはウソになる。自分が知る異性のなかで、これほど以心伝心できる人を、俺は來々以外に知らない。コイツが妹じゃなくて、彼女だったら。血が繋がっていなかったら。何度、そう思ったことか。でも――。


「私、稀来ききが好き」

「ん――」


「でも、返事は良いよ。混乱しているのは、稀来だもんね。だから、待っているから」

「え? あ、うん……」


 これは本当の意味で、危機一髪だったんじゃないだろうか。このままなし崩し、來々に呑み込まれそうな感覚を憶える。


 一度、冷静に。本当にに冷静にならないと、家族関係どころか、学校の友人関係にまで影響がある気が――いや、間違いなく被害甚大は間違いなかった。


「でも、ね。私が聞きたいのは、そういうことじゃないんだ」

「……へ?」


 俺は目をパチクリさせる。


「お兄ちゃん」

 ここにきて、その囁きは、なんて蠱惑こわく的なんだろう。


「私のアイス食べたでしょ?」

「へ……?」


 そんな些細なこと、すっかり忘れていた。


「いや、しら、知らない! きっと父さんが――」

「パパは、県外出張中だよ?」


 にっこり笑み、そう言って――唇を奪われる。

 優しい口づけ……かと思えば、閉めたドアをこじ開けるかのように、舌がぬらりと俺の中を蹂躙して。

 舐めて、絡めとられて。脳が麻痺したかのように、俺は何一つ抵抗できない。


「ん、チョコミントの味がする……? これダウトだよね? お兄ちゃんの口から、私の好きなアイスの味がするんだけど? ねぇ、どうして? どうして?」

「え? あ、いや。來々らら? お前これが何を意味してるのか分かって――」

「ファーストキスなら、とっくに私が奪ってるじゃん。今さらだよ」


 來々ららがニコニコ笑って、そんなことを言う。それ、保育園の時のママゴトの話だよね?!


「いや、ちょっと待って、その――」


「だからね。委員長いいんちょと仲良いみたいだけど。別に仲良くするのは良いけどさ。私、稀来ききのこと、あげないからね?」


「ちょ、待って……來々、話を……俺たちは兄妹で――」

「兄妹じゃないでしよ?」

「そ、そうだった……」


 はい論破。イエス論破。


「それにね。私、稀来ききに言ったよ?」

「な、にを?」


「次に私のアイス食べたら、稀来をもらうって」

「アイスの話しだろ?」


の話しだよ?」


 絶対に何かが違う気がする。


「……でも、待っていてくれるって――」

「待つよ? たくさん考えてくれたら嬉しいから」

「だったら……」


 俺の絞り出すような声に、來々はにっこり微笑む。その表情に、ゆっくりと緊張が解けていった。


(……なんとか、切り抜けた?)


 危機一髪って、髪の毛一本ほどのごくわずかな差で危機におちいりそうな危ない瀬戸際って意味だ。


 そう考えたら、この選択を誤ったら俺は取り返しのつかない事態を招くような気がする。


 來々の天使のような微笑みに、安堵する。ここからの選択は慎重に考えないと――。


「危機一髪、くぐり抜けたと思っているでしょ? ざんねん、許してあげないよ、お兄ちゃん」


 耳朶で甘く囁かれた。


來々らら? だって、考えて良いって――」

「考えて良いよ。たくさん、私のこと考えて? 天井の木目を数えながらね?」


來々らら! ちょっと、待って! それじゃ言っていることが――」


稀来きき? 私のことが嫌いなら、ちゃんと拒絶してね?」


 來々が俺に馬乗りになった。締め付ける手首が、まるで枷のようで、身動きができない。

 目と目があえば、そこから離すことができない。


(拒絶?)


 できるはずがない。


 だって、そういうカタチをずっと望んでいたのは、俺だった。

 理性を言い訳に、この気持ちを封印してきたのだから。


稀来きき、ごめんね? 私、一発じゃ満足できないかも?」


 來々ららが、妖艶に笑む。

 せめてもの抵抗と、反論を試みてみれば――その言葉ごと、來々に全て奪われた。







✩✧✩✧✩✧✩✧✩✧✩✧✩✧✩✧✩✧✩


※危機一髪の意味については、大辞泉より引用しました。




【おしまい】

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