私の大好きな寄宿学校のレディ(♂)は王太子を暗殺したい。

雨成めろ

第1話

「リッ…リリリ…リジィお姉様…?!」


「あらグレース。私に何か用事?少し待っててちょうだいね。」



 グレースは、自身の尊敬する1つ歳上の少女・エリザベスの着替えの最中に遭遇してしまったらしい。

 いつも通りの輝かしい美貌…よりも何よりも、上半身が裸の彼女の身体に目がいってしまった。


 明らかに女性のものでは無い肩や胸板。

 大好きなお姉様の明らかにおかしい“それ”に、グレースは回れ右をして気が付かなかった振りをする。

 驚きのあまり声を掛けてしまったが、気が付いてないと言えばいい。


(いくら大好きなお姉様とはいえ、これは関わってはいけない案件。ここは女子の花園、寄宿学校。男がいるなんてそんな事…!)


 しかし、そんなグレースを彼は逃がさなかった。

 今にも部屋を飛び出そうとするその瞬間、エリザベスはグレースの肩を優しく叩く。



「グレース・エーデルヴァイス。貴女の大好きな“お姉様”の秘密、勿論守ってくれるわね。」



 返事はYesかハイのどちらかよ、と言わんばかりの微笑みで圧を掛けるその顔すら、グレースにとってはご褒美だった。

 圧倒的迷惑事に巻き込まれたグレース・エーデルヴァイス男爵令嬢は、超近距離で微笑むエリザベスを見て崩れ落ちた。



「顔が良い…!」





 エリザベス・ヴァイツゼッカーは、完璧なレディである。


 隣国ルエードクラムの名門・ヴァイツゼッカー侯爵家のご令嬢。

 腰まで伸びた黒髪は品良く巻かれていて、瞬きをする度に宝石のような翠色の瞳がきらきらと輝く。

 睫毛は長く影を落とすようで、肌は雪のように白く、頬はほんのりと赤く、唇は紅を指さずともいつでも照れたようなピンク色。その姿はまさに傾国である。


 成績は常に一番。「あら、もうレディ・グレースにはお教え出来ることはありませんわね。」とマナーの鬼・シュナウザー男爵夫人すらもにっこり微笑んだ。


 さらに人柄もよく陰口を好まず、優しく朗らかで加えてユーモアもありetc.etc.…と絵に書いたような人格者だ。


 対してグレースはこの裕福な家庭の子女が学ぶ寄宿学校では、ぱっとしないと評価される人間だった。

 アフリージ王国の王都、チュベラにあるこのリーデンローズ寄宿学校にグレースが入学したのは3年前、12歳の頃だった。

 グレースの故郷は王都から片道一週間かかる場所にある。

 エーデルヴァイス男爵は田舎の自領を逆手に取り観光産業を発展させた。

 豊かな自然、美しい景色、美味しい食事を楽しめるエーデルヴァイス男爵領は、今や王家御用達の別荘地となっている。

 そんなこんなで稼いだお金で男爵は娘のグレースをリーデンローズ寄宿学校に入学させたのだ。


 数多い寄宿学校の中でもリーデンローズ寄宿学校は名高い。完璧な教育の下、王都一の淑女を育てると有名だ。

 べらぼう高い学費を払う余裕と、それに見合った家名を持つ者のみに入学を許された女の園。

 リーデンローズの卒業生に敷かれたレールは、素晴らしい男性との結婚だった。

 お金はもう余るほどあるし、次はパパは伯爵辺りと縁続きになりたいな、とグレースは送り出されたのだ。


 しかしグレースは、見事に寄宿学校生活に馴染めなかった。

 四人兄妹の3女に生まれた。内訳は、兄、兄、グレース、弟だ。

 豊かな自然環境と男兄弟に囲まれて、静かに育つはずが無かった。

 木に登り、屋根裏部屋に宝探しをしに行っては走り回る。

 騎士を志す兄たちに混ざって剣術の稽古をして生傷を作る生活がグレースの全てだった。

 そもそも初めから、そんなグレースがご令嬢に囲まれて馴染める筈がなかったのである。


 加えてグレースの無駄に良い容姿が悪い方に作用した。

 筋肉で引き締まった小柄な体躯に蜂蜜色の柔らかい髪。

 母譲りの瞳は空のように明るく澄んでいる。

 入学当初、天使が絵画から抜け出してやってきたと歳上のお姉様方から評されてしまったのだ。

 これによって、グレースと同期で入学したレディ・リリー・モンブラン伯爵令嬢に目の敵にされた。


「まあまあミス・エーデルヴァイス。貴女って人はまるで野猿の様ね。勿論、褒めているのよ。本当に可愛らしいわ。」



 グレースの中身が令嬢らしくない事に気がつくと、リリーを始めとする同級生達は皆口々にグレースを馬鹿にした。

 グレースにしてみれば身体的ダメージが無いので嫌がらせの内にも入っていなかったのだが、傍から見れば苛めだったらしい。

 誰もが見て見ぬ振りをする中、グレースに唯一声を掛けたのがエリザベスだった。


 エリザベスとグレースは学年が違う。

 その為に会う機会は朝夕の食事と寮内の共用スペースのみだ。

 ほぼ接点がない関係のうちに、寮内の廊下でエリザベスはこう言ったのだ。


「困ったことがあれば相談なさい。」と。


 その瞬間、グレースの身体は電流が走ったような衝撃を受けた。

(神が遣わした超絶美人…!しかも中身は大天使…!)


 恐らく社交辞令だったそれを鵜呑みにし、困ってはいなかったがそれ以降、グレースは自分同様一人で行動しているエリザベスの後ろに時間が許す限り着いて回った。


 初めは戸惑っていたエリザベスも、グレースが“リジィお姉様”と呼んで愛情を示しているうちに絆されたのか、出会いから2年経った今では“私の小さなグレース”と呼んでくれる程親しくなった。

 皆が完璧なレディと評する自身の“お姉様”が自分だけに見せる意外と毒舌な所や、悪巧みが好きな所もグレースは大好きだった。


 今日は授業の後、来月国中を挙げて行われる花祭りに向けて、我がリーデンローズ寄宿学校でも“ローズ”の名にかけて市民に配って歩くバラの造花を有志で作ろうという事になったのだ。

 グレースは授業が終わるとエリザベスを造花作りに誘う為、直ぐに彼女の部屋に直行した。

 部屋の中にいる“お姉様”の気配にノックをするのも忘れて扉を開けてしまったのが運の尽き。

 そうして、馬術の授業を終えてシャワーを浴びたエリザベスと鉢合ってしまったのがついさっきだ。



「私はいつも言ってじゃない?礼節ノックを怠るといつか痛い目を見るから気をつけなさいってね。今がそれよ。」


「いやそれはちょっと違うような気が…。」



 結局造花作りには参加せず、グレースはエリザベスの部屋のソファーにいた。

 最高学年の生徒の部屋にはソファーが置かれる。

 9月に進級して以来、16歳のエリザベスの部屋置かれたそれに2人で寄りかかって本を読むのが二人の日課だ。

 男だとバレた事がなんでもないように、エリザベスはいつも通りグレースを自分の隣に誘った。



「聞きたい?どうして女装しているか。」


「止めておきます。」



 エリザベスが浮かべたのは、何か悪い事を考えている時の笑顔だ。

 経験上断るのが吉だと知っているグレースは即座に断った。

 するとエリザベスはグレースを跨ぐように座り、ソファーと自分の腕でグレースの退路を塞ぐ。


「私の小さなグレース。私、貴女の事割と大切に思っているのよ。だからお願い。貴女のこと殺したくないわ。」


 悲痛な表情と共に紡がれたのはかなり物騒な言葉だった。

 グレースの中で“殺す”が理解出来たのは、エリザベスが何処から出したのか、その手にナイフを握っている事に気が付いたからだ。


「もう一度聞くけど、お姉様の提案への返事は何かしら?」


「YESでお願いします。」


 断るという選択肢はなく、投げやりに答えたその返事に満足したのかエリザベスは笑みを浮かべた。


「私の本名はエリス・ヴァイツゼッカー。ヴァイツゼッカー侯爵家の次男よ。」


「はい…?」


「私の目的は王太子レオを殺すこと。グレースには責任をとって王位簒奪に協力して貰うわ。」


 人は自分の理解出来るキャパシティを超えると活動を停止してしまうようだ。

 グレースは頭の中でエリザベス───エリスの言った言葉を反芻し、きっかり10秒固まった後、声を上げた。



「はい…?!」




 ヴァイツゼッカー侯爵家は隣国ルエードクラムの名家であると同時に、一国に匹敵する程の財を持ち、そして裏では全てを思うがままに動かすルエードクラムの脚本家ストーリーテラーと呼ばれている。

 エリスが女装するに至った全ての始まりは、現王太子レオとレオと母親の違う第一王子ウィリアムの確執である。

 ウィリアムはレオより僅か3日早くこの世に生まれ落ちた。


 ヴァイツゼッカー家の分家の生まれの側室の母を持つウィリアム、アフリージ王国の公爵家の生まれの正室の母を持つレオ。

 同い歳の王子同士の王冠争いは周囲の大人達の思惑を巻き込んで激化し、ウィリアムは母の命と引き換えに守られながら母方に縁のあるヴァイツゼッカー家に隠れる事になった。第一王子ウィリアムが王宮から姿を消したのは僅か5歳の時だった。


 それ以降ウィリアムはヴァイツゼッカー侯爵家の手中の珠として、陰ながら帝王教育を受けて王位簒奪を狙っている。

 ヴァイツゼッカーは、いよいよ自分達の息のかかった本物の王を輩出出来る訳だった。


 ヴァイツゼッカー侯爵家には三人の男子がいる。

 その三人に、侯爵はこう命じたのだ。

 ウィリアムを王冠を授けた者を侯爵家の跡取りに命ずると。



「私が女の姿をしているのは、レオの婚約者として最終的にはレオと“エリザベス”には“駆け落ち”して消えてもらう算段だからよ。」


「怖い話の季節はまだ先ですよ…!」



 明らかに聞いてしまったら後戻りの出来ないような、方々から命を狙わねかねない話を半ば無理やり聞かされて、グレースは頭を抱えた。


 そもそも駆け落ちって何だ。

 エリザベスはエリスなのだ。駆け落ちなんて出来ない。

 駆け落ちという名でコーティングされた死が待ち受けていることは、謀略とは関係なしに生きてきたグレースにも分かった。



「そんなに怖がらないで。グレースにはお願いしたい事もあるのよ。」



 頭を抱えた状態のグレースをそのまま包み込むように抱きしめて、エリスは優しい声でそう言った。

 エリスの無茶ぶりにグレースは一度は断るが、毎度エリスの顔面の良さに誑かされて結局頷いてしまうのはお決まりのパターンだ。


(駄目よ、グレース。リジィお姉様の“お願い”なんて、顔を見れば絶対に聞いてしまう自信しかない。)


 いつものお菓子を焼いて欲しいと強請るような可愛い“お願い”ではなく、今回の“お願い”は確実に危険だ。



「ねえ、グレース。こっちを見て?」


「絶対に見ません。」


「ほら我儘言わないの。今ならお姉様が頬にキスしてあげるわよ。」


「今は嫌なんです!」



 グレースは目を瞑り顔を伏せる。

 対するエリスは自分の顔がグレースよく効く事を自覚しており、グレースの頬を両手で掴んで無理やり自分の方に向けようとする。

 ギギギと音がなりそうな攻防の末、負けたのはグレースだった。



「神はリジィお姉様を作った時に、顔面に気合いを入れすぎたのね…。」



 間近で見たエリスの造形の美しさにグレースは思わずため息をつく。

 穢れを知らないような白い肌や暴力的な程に色気のある瞳、そこで言葉を紡げば誰もが従わずにいられないような唇。エリスを形作る全てが、まるで人間を堕落させてしまう悪魔のような魅力に溢れている。



「私の小さなグレース。お姉様のお願いを聞いてくれる?」



 近距離でエリスと対峙したグレースに、逃げ場は無かった。



 ♢♢




 非公式の夜会。それは婚約者の居ない少女達にとって、絶好の恋人探しの機会であった。


 グレースはこの日の為にエリスが誂えた水色の、襟元に真珠がふんだんに使われているドレスを着て5つ年上の2番目の兄・オーエンの腕を取る。

 若き公爵子息によって催されたこの夜会への参加状は、男爵令嬢という立場では手にすることの出来ないような代物である。

 しかしエリスはヴァイツゼッカー家の伝手を辿り、これを用意した。


「この夜会には、普段警備の厚い王太子がお忍びで来られると聞いているの。そこが狙い目で私は王太子と運命的な出会いをする予定よ。」


 そしてその絶好の機会で、ヴァイツゼッカーの当主の座を争う兄弟達も何かを仕掛けてくる可能性が高いとも言えた。

 エリスに命じられたグレースの仕事。それは、夜会での周りの動向を探り、怪しげな行動を起こす者がいれば報告することだった。


 そもそもグレースは王太子を殺すと暗に言ったエリスの行動を肯定するつもりはなかった。

 エリスの秘密を知ってしまい半ば強引に協力させられているが、どんな事情があるにしろ殺人は良くない。

 最終的に殺すと暗にエリスは言っていたが、今のところは王太子を恋に落とす過程というのもあって、エリスは逆に王太子を守る立場にいるとグレースは感じた。


(だからこそ良心の呵責無く今回の“お願い”に臨めたけれど、次は絶対に言う事を聞かないわ。)


 グレースは心の中で毒を吐く。


(お姉様は本当に自分勝手で無茶苦茶で、圧が強くて優しくて美しいんだから。)


 途中から完全に褒め言葉に以降したが、グレースは気が付かなかった。



「豚に真珠っていうやつだな。」


「オーエンお兄様こそ馬子にも衣装という言葉が良く似合います。」



 非公式なものとはいえ高位貴族が集まる以上、婚約者を伴わない女性は兄弟や親戚を伴うのが社交界のルールだ。

 貴族の次男としてオーエンは王都で騎士をしており、グレースの家族の中では最も近い距離にいた為にグレースはエスコートを頼んだ。


 グレースは男兄弟の中で育った。そのため皮肉の応酬は愛情表現の一つだ。

 勿論グレース同様オーエンも父譲りの茶色の髪に輝かしい空色の瞳を持った美丈夫で、騎士団で鍛えられた筋肉質な身体も相まって婦人達からの熱い視線を受けている。


 ホールに入るとオーエンは騎士団の同僚に挨拶され、話し込んでしまった。

 一人になってしまったグレースは周りを観察する。怪しい人が居ないかどうか…と見るが、当たり前だが如何にもな感じの人は見つからなかった。



「ミス・エーデルヴァイス?まさか貴女がこの夜会に招待されているなんて。」


「レディ・モンブラン。」


「ここは山の中ではなくってよ。お帰りはあちら。」



 寧ろ一番嫌な感じがしたのは、毎日顔を合わせる同級生達である。

 レディ・リリー・モンブランを筆頭に、上位貴族のレディ達は良縁を探すためによく夜会に参加しているのはグレースも知っていた。

 リーデンローズ寄宿学校の女学生は他の寄宿学校の生徒よりも受けが良い。

 校章である金で出来たバラのブローチをドレスの胸元に付けると、休む暇なく話しかけられるという夜会攻略の裏技すら存在する程だ。

 例に漏れずレディ・リリー・モンブラン御一行もリーデンローズの校章を付けていた。

 それなのにグレースに話しかける余裕はあったようだ。リーダーが上から下までグレースを品定めするように見てクスッと笑うと、周りも同調してクスクスと小鳥の囀りのような声が響く。



「本当にレディ・パーフェクトは人を見る目がないわ。」



 レディ・パーフェクトと言うのはエリスに対して嫉妬した女学生が付けた、少し小馬鹿にしたような意味の込もった呼び名だった。

 グレースは自分が悪く言われる分には構わなかった。

 しかしエリスが自分のせいで悪く言われるのには耐えられなかったのだ。



「私の事でしかリジィお姉様を貶める方法が見つけられないなんて、流石お姉様。リーデンローズで一番の淑女だわ。」


「何ですって?」



 実際はエリスは男で、淑女どころの話ではないのだがグレースには関係ない。

 誰よりも優しくて美しい淑女レディ・エリザベス・ヴァイツゼッカーを貶す者には真っ向勝負だ、とばかりにグレースはレディ・リリー・モンブランを睨み返した。

 レディ・リリー・モンブランも初めは応戦するように顔を顰めていたが、睨み合っているうちにグレースの後ろを見て一度驚いたような顔をして、顔色が変わる。

 急に微笑みを浮かべた宿敵ライバルの異変にグレースは振り返れば、見知らぬ青年が笑顔で自分に手を振り近づいてきていた。


 とても親しそうに手を振る彼は肩まである黒い艶のある髪をハーフアップにしたかなりの美形で、エリスとよく似たグリーンの瞳が印象的だった。


(お姉様の勝ちね。)


 失礼とは分かっていたが、脳内では勝手にエリスと目の前の見知らぬ青年を比べてしまい、満足したようにグレースは頷いた。

 実際には性別を超えた美しさを持つエリスと逞しさと紳士らしさが共存した優しげな美貌の目の前の男、二人の容姿は誰に見せても甲乙付け難いと判断するだろう。

 エリスに軍杯が上がったのは完全にグレースの好みだった。


(そんなことよりも、この人誰かしら。)


 後ろの同級生達の知り合いかとも思ったが、明らかにグリーンの瞳はグレースを写している。

 青年は目の前までやってくるとグレースの両手を奪い、勝手に指を絡めて繋ぎとった。



「グレース!久しぶりだね。僕の事、覚えてる?僕が8つの時…7年前に、君の家にお邪魔した…。」


「え?ええっと…。」


「ユーリだよ。覚えていない?花祭りで迷子になってしまって君が見つけてくれたんだ。執事が迎えに来てくれるまで君の家で君と弟君が一緒にいてくれた。」



 ここまで説明されてもグレースには一切の記憶が無かった。

 エーデルヴァイス領の春の花祭りは国中の王侯貴族が訪れるかなりの規模のイベントで迷子になる子供は多く、毎年迷子を探しては男爵邸で保護するのが幼いグレース達4兄弟の仕事だったからだ。


 しかしこの熱量で再会を喜ぶ相手にそんな事実を告げられるだろうか。

 この先の会話からこの彼を思い出せる事を期待し、グレースは女優になりきる。



「覚えているわ!久しぶりね。」



 そう言うと相手の青年──ユーリは花の綻ぶような笑みを浮かべた。



「ユーリは今は何をしているの?」


「ルーベル校で学生をしているよ。今日は王太子がいらっしゃるって聞いて、一度挨拶したくて今日は此処に来たんだ。グレースは…その…婚約者を探しに来たの…?」


「いえ、寄宿学校の…あの私リーデンローズ寄宿学校に今いるのだけど、寄宿学校で良くして頂いているお姉様に誘われて来たのよ。」


「知ってるよ。リーデンローズ寄宿学校にいたのは聞いていたんだけど、リーデンローズは家族以外の異性の面会が禁止でしょ?それで会いに行けなかったんだ。」



 グレースは本格的に心の中で首を傾げる。

 ユーリはグレースに会いにわざわざ寄宿学校に面会に行こうとしていた、と言った。

(そんなのまるで婚約者みたいじゃない…。)

 急に目の前の男が気持ちの悪い存在に感じられた。

 自分自身が記憶がない程に接点が無かった相手が何故か自分の事をよく知っていて、再会を喜んでいるなんて。


 適当に話を切り上げて逃げようとするグレースの気持ちも知らず、ユーリは頬を紅潮させて笑顔を浮かべている。



「ねぇ、グレース。僕、本当に君に会いたかったんだ。あれから毎年君の領に遊びに行ったよ。その度に君の屋敷に行ったのだけれど、何故かいつも留守だと言われて会えなかったんだ。どうしてだろうね。でもこうしてまた出会えたのは運命だと思わない?」


「…随分ロマンチックね。」


「そう?当たり前の事だよ。僕とグレースは赤い糸で結ばれているからね。それにこんな良い日に君に会えるなんて、やっぱりグレースは特別だ。」


「き、今日は普通の日よ。私は別にそんな特別な人間じゃ…。」


「いいや、特別な日だ。今日僕は父の侯爵位を継ぐんだ。そうしたら全ての準備が整う。」



 スっと今まで喜びを讃えていたユーリの瞳が冷えて、グレースは鳥肌が立った。

 本能でこの男は危険だと頭の中で警鐘が鳴る。

 ユーリはぞっとするほど美しい笑顔を浮かべ、手を握る力を強めた。



「早く屋敷に招待したいな。ここからは少し遠いけれど、君の領に負けないくらいヴァイツゼッカーは素敵な所だから。」


「…ヴァイツゼッカー?」



 その言葉に、場の空気に完全に飲み込まれていたグレースは急に我に返った。



「グレース?」


「失礼します!御不浄に!」



 思い切り握られた手を振り払い、グレース!と名を呼ぶ声を無視してグレースは急いで大広間から飛び出した。

 ユーリはエリスの兄弟だ。

(お姉様の予感は的中していた。ユーリの口振りだともう既に何か行動を起こしているような…)


 ユーリは勝利を確信しているようだった。

 とにかくエリスを探さなければとグレースは周りを見渡すが、エリスの姿は見えなかった。


 間の悪いことに赤い絨毯を敷いた階段を降りた先、エントランスにはまさに今王太子が公爵邸に到着したようだった。

 2人の警備の騎士が後ろに控えているが、暗殺を恐れてあまり外に出ない王太子にとってはそれは随分少ないものだった。


 頭を垂れるエントランスの貴族達に、正式な場でないので改まる必要は無いと王太子は明るい声で告げる。

 その言葉に貴族達は顔を上げるが、大広間とは打って変わって静かなホールにカツンと一つ音がした。

 その場にいた皆の視線が集まるその先に、グレースが探していた人がいた。

 銀地に刺繍の施されたシンプルなドレスは、逆にその美貌を際立たせる。

 その令嬢は頭に挿していた簪を一つ、落としてしまったようだった。

 普通ならはしたないと罵られて当然のその行為も、その令嬢ならば誰も責められないような──むしろあまりの美しさに簪が逃げ出してしまったと令嬢を庇ってしまうような、そんな魅力をそのレディは持っていた。



「ご令嬢。落し物をされたようだ。」


「申し訳御座いません…!王太子殿下の御手を煩わせるなんて…!」



 落ちた簪を王太子は自ら広い少女に手渡した。

 謝る少女に王太子は構わない、と言うと少女は顔を上げて安心したように微笑んだ。

 その笑みの、何と清らかなことだろう。

 王太子の護衛の騎士ですら魅入ってしまう、まさに魔性の微笑み。



「…君の、名前は?」


「エリザベス・ヴァイツゼッカーに御座います。王太子に神の御加護を。」


「エリザベス…。」



 簪を落とした傾国の美少女と王太子が見つめ合う。

 まるで物語の始まりのような出来事に、周囲も固唾を飲んでその二人を見守っていた。

 自らの“お姉様”の美貌の凄まじさにグレースも視線を奪われていたが、カチリと無機質な音がしたような気がしてグレースは視線だけで当たりを見渡した。

 緑豊かなエーデルヴァイス領実家で騎士を目指していた兄達と毎日一緒になって鍛錬をした幼少期。

 風のざわめきと獣の声、草を踏む音。全ての感覚を研ぎ澄ますその感覚をグレースは思い出す。


(鞘から剣を抜く音がする。この音は…タガーを抜いた音。短剣で確実に獲物を捉える死角はこのエントランスでは…見つけた。)


 王太子の騎士ですら聞こえない程の小さな抜刀音から、グレースは手練の刺客が貴族に紛れている事に気がついた。

 王太子の斜め後ろ、騎士の合間を縫って唯一殺せるチャンスのあるそこに、貴族の女性がいた。


 非力な女性がまさか王太子を殺せる訳がないと思っているのか、騎士は注意すら向けない。

 女性が剣を抜いた今、残された時間は10秒にも満たないだろう。

 いつ事件が起こってもおかしくないその状況に、グレースは一度大きく息を吐いた。


(出来ない…?いいえやるのよ。私に出来ないはずが無い。)


 なんと言ってもグレースは、現役最強の騎士“オーエン・エーデルヴァイス”の妹なのだから。



 静けさに包まれていたホールは一瞬のうちに騒然とする。

 階段の上からドレスに身を包んだ少女が飛び降りてきたのだ。

 全ての視線がグレースに向く中、剣を持った貴族の女性はこれ幸いにと王太子に向かって走っていく。

 ようやく気がついた騎士たちが慌てて剣を抜こうとするが、王太子に剣先が届く方が早い。

 間に合わない、と居合わせた貴族達は目を瞑る。


 しかし目を開けた時に飛び込んできたのは血だらけの王太子ではなく、短剣をも恐れずに刺客を取り抑える少女だった。



 ♢♢



 王太子の命が狙われたと言う事もあって、夜会は直ぐにお開きとなった。


 君の勇敢さに感謝すると王太子はグレースに言い残し、グレースは後日王宮へ呼ばれる事になった。

 オーエンは帰りの馬車で流石俺の妹だな!とグレースを褒めちぎったが、今回の自分の行為を良しと思わない人間が多い事をグレースも分かっていた。


 寮に着き、エリスに会う前に着替えるために自室へと戻る途中、向けられた瞳は冷たく、くすくすと少女たちは笑う。

 それは夜会に参加していなかった生徒からも向けられていて、学校内で既に噂が広がっていることは明白だった。



「ミス・エーデルヴァイス。私も勇姿を拝見したかったですわ。王太子を守るなんて勲章物ですわね。騎士であれば。」


「階段から飛び降りたんですって?そんなはしたない姿を大勢の殿方の前で見られるなんて、私なら出家致します。」



 嫌味を言われるのはいつもの事だがその日は珍しくグレースに堪えた。


(リジィお姉様も、はしたないって思ってるわよね。)


 グレースが思い返してみても、あの場一つでも自分の行動が違っていたら王太子は死んでいた。

 人命を守ったのだ。

 自分の行動に恥ずべき点は無いと分かっていても不安が募る。

 それは間違いなく、あの騒動の時にグレースだけに見せた苦々しいエリスの表情のせいだった。


(嫌われたらどうしよう。)


 沈んだ気持ちでグレースが部屋を開けると、そこには予想外の訪問者がいた。



「なんて無茶したんだ。」



 心臓が止まるかと思った、とエリスは力強くグレースを抱きしめる。

 珍しく口調を崩すエリスの様子には心からの心配の意が滲んでいて、グレースは冷えきっていた心が直ぐに温かくなるのを感じた。


 優しくて綺麗で、意地悪で無茶苦茶な自分だけの“リジィお姉様”。

 彼女であり彼でもあるエリス・ヴァイツゼッカーさえ自分の味方なら、他はもうどうだって良いとグレースは思う。

 今までは気が付かなかった憧れだけでは言い表せない感情が芽生えている事にグレースはようやく気がついた。


 その気持ちが恋なのか愛なのか、執着なのか友情なのかそれはまだはっきりとは分からない。

 けれどグレースは祈るのだ。

 願わくばこれからもずっとエリスの一番近くにいられますように、と。


(嫌われたって傍に居ますわ、お姉様。)


 グレースはエリスを同じ強さで抱きしめ返した。




 グレースの部屋にはソファーがない。いつもの定位置に付けない二人は、代わりにベッドに腰掛ける。

 どちらからともなく夜会の事を話し始めると、エリスさえ居ればと思うものの、やはり今回の事はまずかったんじゃとグレースは思い始めた。



「流石に誰にも嫁げないのはお父様に怒られるかしら…。」



 あの場の男性達は見渡す限り、グレースの“勇姿”に怯えていた。

 伯爵と結婚して欲しいと願って自分を寄宿学校に預けた父に申し訳ないと落ち込むグレースに、口調を戻したエリスはあら?と不思議そうに呟いた。



「貰い手ならずっと前からいるじゃない。」


「え?」


「グレース・ヴァイツゼッカー。よく馴染むわ。」



 エリスはグレースの右手を優しく取って口付ける。

 手に感じるエリスの体温や、向けられた暴力的に色っぽい視線。そして自らの名前に付随したファミリーネームに、グレースは自分の顔が過去最高に紅潮したのを感じた。



「ちょっ…グレース!鼻血出てるわよ!」


「お姉様!美しすぎます…!」




 ヴァイツゼッカー家の男児として暗殺・諜報に長けたエリスが“敢えて”グレースを夜会に連れていき結果的に令嬢としての魅力を損なわせたのも、そもそも裸を見られるという簡単な失態を見せたのも、グレースを“天使のよう”と呼び始め孤立させたのも、グレースを異常者である“弟”から守るために寄宿学校に入学させるのを男爵に勧めたのも、全ては彼の計算通り。


 花祭りで初めて会った時、弟と共に迷った自分に優しく接してくれた彼女の屈託のない笑顔は闇を生きるヴァイツゼッカーの者には美しすぎた。


 鼻血を流しながら祈るように手を組み自分を見つめるグレース。

 何を仕出かすか分からない、予測不可能な行動すら愛おしいと思うエリスは、グレースにとうの昔に心の全てを奪われていた。

 一目惚れに近い可愛らしい初恋は、グレースを知るうちに狂おしい程の愛へと変化したのだ。



 後に人々はエリス・ヴァイツゼッカー侯爵を“稀代の悪役”と語る。

 国政も貿易も己の命すらも、この世の全ては彼の掌の上。

 ただ一人、彼の愛する妻を除いては───と。





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