第2話 憂き契

 一三三二年三月、佐々木道誉は京の六波羅館にいた。討幕未遂で捕まった後醍醐先帝を、流刑地の隠岐おきの島へとお送りする警護役を任されたのだ。

 道誉は珍しくそわついていた。道誉には、後醍醐先帝が分からない。他人の期待に応えて他人の気持ちを扱う技を得意とする道誉には、望まれてもいないのに自ら大乱を起こした人間は理解不能なのだ。

 そして、分からないものを知ることは大きな喜びでもあった。先帝にお目にかかれるのはこれで最後なのだ、旅の中で先帝の心を見極めたい。そんな知的好奇心が道誉を覆っていた。


 ようやく、後醍醐先帝を乗せた御所車が出てきた。平伏した道誉に、御簾の中から落ち着いた声が降ってきた。

「佐々木道誉か。我が妻の同行許可を取り付けたのは汝と聞いておる。礼を言うぞ」

「恐れ入ります」

 摂津せっつ播磨はりま美作みまさか(現在の大阪府、兵庫県南部、岡山県北部)を経て伯耆ほうき(現在の島根県)の港へ、そこからは先帝と供の者だけが隠岐の島へ舟で向かう。道誉は人の世から退去させられる先帝へのはなむけとして、歌の名所を行程に入れ、土地の名産品を行く先々の民に用意させた。

 供する者は十名あまりと、帝であった者にとってはあまりにも侘しい。しかし、死罪にも等しい流刑の旅路なのに、先帝と供たちにはまるでこの後京に帰るかのような明るさがあり、道誉は首を捻った。


 京を出てから十三日後、伯耆の港に着いた一行が波が治まるのを待っていた時。

「帝が私を?」

「ああ。道誉殿と最後にお話をされたいそうだ」

「ありがたきことです」

 道誉が御所車の手前で平伏していると、中から声が降ってきた。

「道誉、近う寄れ」

「は」とにじり寄る。

「中に入れと申しておる」

「?! ……失礼致しまする」

 道誉は緊張した面持ちで御簾を掲げ暗い車の中へ膝を入れると、異様な覇気を感じて思わず身震いした。目の前におわす帝の、小柄で引き締まった身体とギラリと光る眼が強い圧を放ち、武士である長身の道誉が気圧されそうになる。

「道誉、改めて礼を言う。汝の気遣いで誠に楽しい旅となった」

「恐れ入ります」

「さて、汝は朕に問いたいことがあるのだろう。一つ質問の権利を与えよう」

「……! 有難き幸せ。それでは遠慮なくお聞きしますが、帝は何故討幕を志されたのでしょうか? 朝廷に反幕の空気があったとは思えないのですが」

 後醍醐先帝はハッハッハッと大きく笑った。

「成程のう。朕は誰に望まれなくとも構わぬ。この乱を起こしたのは、朕が力を持ち、そして政治の理想を持っていた故なのだ」

「力と理想?」

「そうだ。両者を持った者がこの世界をより良く変革できる、そしてそれは持つ者の義務なのだ。変革を鎌倉幕府の旧弊が拒んだ、それだけのことよ」

「……」

 道誉は言葉が出なかった。そのような人間がこの世に本当にいるのだろうか。これまで、しがらみの中で苦心して生きる武士ばかり見てきた、そして己もそこで上手く生きるだけの存在だった。目の前にいるこのお方は人間なのか、それとも妖か、はたまた本当に神なのか?


 未だ無言の道誉の両肩を、後醍醐先帝がガチリと掴んだ。

「汝は聡く労を惜しまない。そして、今の幕府に辟易している。朕は佐々木道誉のような者を求めていた。朕と共に幕府を滅せよ! その先に汝の望む世界がある」

 道誉の頭の中に「婆娑羅」の文字が浮かんだ。このお方こそが婆娑羅だ。自分が中心ゆえに世界から大きくはみ出せる婆娑羅。

 その言葉を教えてくれたお方の顔が浮かんだ。高時様は今頃闘犬をご覧になっているだろうか。肩に置かれた両手に力が籠り、道誉の意識は目の前の覇気の塊に引き戻された。

「朕はすぐに隠岐を出て戻る! 汝は汝の出来ることを考えてくれればそれで良い。佐々木道誉よ」

 道誉はすんでの所で焦点を先帝に合わせ、声を絞り出した。

「……私はしがない幕府の犬です。買い被られませぬよう。隠岐での生活が滞りないように、我が家人をお供にお付けします」

 それを聞くと、先帝はあっさりと道誉から手を外した。

「それも良かろう。最後まで心遣い痛み入る」


 道誉を見送って、妻の廉子が先帝に笑いかけた。

「振られてしまいましたわね」

 後醍醐先帝は満足そうに腕を組んだ。

「いや、上々よ。若造め、迂闊に踏み込み絡め取られるとは青いな」


 道誉は伯耆の港から後醍醐先帝たちを見送り、その影が見えなくなるまで首から下に冷や汗が止まらなかった。

 気持ちが落ち着いてくるとようやく頭が回転し始めた。帝は討幕を諦めてなどいなかったのだ。しかし、今のままでは帝に勝ち目はないだろう。皇族・公家と西国の一部の武士だけではどんなに策を弄しようとも東国武士の数の力で押し潰される。

 しかし、もし全ての東国武士が幕府に牙を向いたとしたら? 全てとはいかないだろうが、大武士団が複数寝返れば、容易く幕府は倒れてしまうのではないか。道誉はその可能性を見ようとしなかった自分に戦慄した。

 そしてその可能性を、自分ならば現実のものにできると気付きまたも戦慄した。手の平の上に柔らかい何かが載っている心地がして凝視していると、いつかの主君の声が聞こえてきた。

「婆娑羅。お前そういうの好きだろう」

「道誉にはきっと、もっと豪快で華麗な方が似合う」

 道誉は手の平の上の、その柔らかい何かを握り潰した。

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