第5話 子犬と変化と逃走

「ふぁ……」


聞き慣れた目覚ましの音で目を覚ます。


これほど寝たのは久しぶりであり、まだ微かに眠気もあるが、それ以上に心地よさで満たされている万全の体調である。


昨日脱ぐだけ脱いで床に放り投げた制服に袖を通し、朝食の用意されているリビングに向かう。


机の上にはいつもと変わらず、冷めたトースト、そして1000円札が置かれている。


我が家は父、母、そして俺という3人家族である。


しかし父は商社勤務で海外に単身赴任中、母はアパレルブランドの店長であり、朝早くに家を出て夜遅くに帰ってくる日々である。


そのため、我が家には1人でいることが多く、こうして母が毎朝朝食だけ作り、昼夜分のお金を一緒に置いて仕事へ行くというのが日常である。


家族仲は良好、日曜には母も仕事が無いため暇な時は会話や一緒に買い物もするし、父とは定期的にメッセージアプリでやり取りをしている。


昔は寂しさというのも多少あったのだが、もう今では俺も高校一年生であり、寧ろ自由とお金とが多く与えられているため俺自身は現状にこれといった不満はない。


冷めたトーストをオーブンに入れて少し温め、さっさと食べる。


歯を磨いたり、ワックスで髪を整えたりと身だしなみにも気を使う。


慎二も由依も顔が整っているので、俺もそこには気を使うのだ。


2人は恐らく俺がどんなに身だしなみに無頓着だったとしても恐らく気にすることはないし、今と変わらず友人を続けてくれると思う。


しかし、俺が原因で2人が何かを言われるようなことがあるならば、俺は自分を許すことができないと思う。


幸いなことに俺自身、元の素材自体悪くないらしく、少し整えてさえしまえば2人に恥をかかせることはないはずである。


慣れた手つきで髪を整え、顔の産毛などを剃っていく。


しっかり時間をかけ、丁寧に身だしなみを整えると荷物を持って家を出る。


「行ってきます」


返事はないがこれは習慣であり、一日を過ごすためのルーティーンでもある。


いつもより眩しく感じる太陽、5月も終わりに近づいており、少し暑さを感じ始める時期である。


家から5分ほど歩いたところにあるコンビニ、そこの駐車場の前あたりでスマホを見ながら待っていた由依と合流する。


「おはよー」


「おはよ、玲」


登校はいつも由依と2人のことが多い。


慎二は登校の時は彼女の瑞稀さんと一緒に行くことが多いのだ。


というのも俺や慎二、由依は帰宅部なのだが、瑞稀さんは吹奏楽部に所属しており、放課後は部活動が多いので帰る時間があまり合わないのだ。


そのため慎二は朝彼女と一緒に投稿することで時間を作っている良い彼氏なのだ。


いつも通りダラダラと中身のないような会話をしていると、あっという間に俺たちは学校に着いていた。


一年は教室が四階であり、エレベーターはあるのだが生徒は使えないため階段を登る。


最初は多少キツさを感じていたものの、もう2ヶ月弱も通っていれば慣れてくるものである。


俺たちのいるA組の教室に入り席に座る。


俺と慎二は前後の席なのだが、由依は少し離れた位置にいる。


今日もいつもと変わらないダラダラ授業を受け、慎二や由依と喋り、バイトに向かうだけの変わり映えのない日だと思っていた。


「みんなおはよー!!!」


大声で元気に教室に入ってきたのは姫乃さん。


それと同時にすでに来ていた女子たちに取り囲まれてワチャワチャと揉みくちゃにされて可愛がられる。


姫乃さんの可愛さはクラスの誰もが知るところではあるが、女子たちが周りに群がり防護壁を形成するため、男子は近付くことを許されない。


昨日あんな出来事はあったがいつもと変わらないその元気さに安堵のため息をつくと同時に、俺は1限の用意をするために視線を落とす。


普段ならばそれだけなのだが、今日は違った。


姫乃さんは取り囲む女子たちの間をするりと抜け出してくるとタタタと小走りで俺の席の前まで来ると


「おはよー!!!神森くん!!!」


「お、おはよぅ……」


その瞬間、クラスにいた全員の視線がこちらに向くのを感じる。


当然である。


クラスのアイドル、それが今までほとんど話していなかったとある男子にわざわざ挨拶をしに行ったのだから。


好奇や嫉妬、様々な視線に晒された俺であるが、コミュ障であるためこういった状況に慣れなどなく、冷や汗が止まらない。


特に由依から飛んでくる視線に至っては、恐らく俺の勘違いなのだが少しの殺気を孕んでいる気がする。


そんな状況の俺に出来ること、それは逃走くらいしか残されてなく、男子トイレへと駆け込むのが精一杯であった。

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