第61話マロウ子爵(新当主)side

 私の母は幸せな人だ。

 下位貴族とはいえ、裕福な子爵家に生まれた。

 小さいながらその領地は栄えている。

 一人娘だから婿をとる必要があったが、父親に溺愛されていたため政略的な結婚には至らなかった。



 母は本当に幸せな女性だ。

 貴族でありながら恋い慕う相手と結婚できたのだから。

 愛する夫との間に子供を儲け、何不自由ない暮らしをしてきたのだから。



 因みに父は、事ある毎に「本当なら今頃侯爵だったのに」「私は侯爵家を継ぐはずだった」と愚痴を零す。


 幼い頃は、なにを言っているのか分からなかった。

 母の献身に理解を示さない父に、幼い頃は不満も抱いたものだ。


 けれど成長するにつれて、父の言葉が理解できるようになっていった。

 それと同時に、私は父を哀れに思った。

 父の自業自得と言えばそれまでだが。



 母が父を愛している間は祖父は父を放置していた。

 父は子爵家の婿だ。

 祖父は父に子爵家を継がす気はない。

 最初はどうだったのかは分からないけれど。



 祖父から家督を引き継ぐ前に、ちょっとした騒動があった。


 父の記憶が戻った。

 私は知らなかったが、父は記憶喪失だったらしい。

 なんでも好きな女性と駆け落ちしていた時の記憶が今頃になって戻ったそうだ。


『エリカはどこだ!?』


『どうして彼女がいない!?』


『馬鹿な……』


 血相を変えて屋敷を飛び出そうとした父は、子爵家の護衛達に取り押さえられた。

 そしてそのまま祖父は父を地下牢に閉じ込めた。


『エリカ、エリカ、エリカ』


 父は狂ったように、嘗ての恋人の名を呼び続けていた。

 同時に父は、母を恨むようになった。

 狂ったように『エリカはどこだ?』と喚き散らしながら。


 父はどこまでも愚かだ。

 ここは子爵家だ。

 子爵家の主人は祖父であり、母だ。


 父に味方する者など誰一人としていない場所だ。


 護衛に取り押さえられた状態で祖父は父の注射を一本打った。

 そうすると父は大人しくなる。


 一日に一本。

 父に注射を打つのは母の役割になった。

 暫くすると、父は地下牢から出され、子爵家の別邸で母と二人で暮らすようになった。


 両親は仲睦まじく暮らしている、と聞く。


 父は注射を打たれ続けている。

 鎮静剤ということになっているが、それを信じるほど私はおめでたくない。

 間違いなく幻覚作用のある薬だ。


 父は母を恋人と勘違いしている。

 だから甘い声で愛を囁くのだろう。

 時折、「エリカ」というが母がすぐに訂正している。「名前を間違ってますわよ」と。


 母は狂っている。

 狂うほど父を愛しているのだろう。


 両親の住む別邸は一見すると裕福な商人が住む一軒家だ。

 ただ、その家に行くまでの道には厳重な警備が敷かれている。

 そうとは分からないように偽装されている。

 

 全ては父が逃げ出さないための処置だ。

 

 母は父を手放さない。

 逃げ出さないように。逃げてもすぐに見つけられるように。


 父を狂わせている薬。

 どこで手に入れたのかは知らない。

 母はその薬の入手先を決して明かそうとはしない。

 それは祖父も同じだ。


  

「可哀想に」


 可哀想なのは父か、母か、それとも……。


 父の名を呼び続ける母を見ながら私は呟いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る