第6話

 大学入学から半年後、私は家を出て大学近くのアパートで一人暮らしを始めた。昨日兄から遊びにいってもいいかと連絡があった。金曜日に東京で会議があるため出張帰りに夕飯でも食べようということだった。特に繁忙期でもなかったので、最近見つけた安くてうまい中華料理屋へ連れて行くよと伝え、店の名前と住所を伝えた。兄は楽しみだなと喜んだ。当日店に行くとすでに入り口に兄が立っていた。予約ありがとうな、と言って兄は店の中に入っていった。

席に着くと私と兄でそれぞれ三品オーダーし、それぞれビールを注文した。今日も暑いなと意味のない会話を交わし、運ばれてきたビールをひと思いに飲み、付け合せの漬物をつついていると兄が口を開いた。

「半年前、家に帰らずに皆を驚かせた時があったろう。覚えているか?」

兄がそう切り出すと私は体が強張るのが自分でもわかった。もちろん覚えている。何をしていたのか皆知りたがっていたが兄が話すのを待っていたのだから。私はそうだったねと恍けてみせたが、兄はこう続けた。

「あの時、色々な偶然が起きたんだ。これまで話したことはなかったが、妻との結婚後、僕は少し気持ちが不安定だった。妻と結婚できたことは純粋に嬉しかった。ただ新しい環境に対する不安や想像していなかったプレッシャーが一気に押し寄せてきた。不安定な人間が自らの置かれた状況を正しく把握できるとは到底思えない。今思い返すとおそらくそうだったのだろうというだけなんだけどね。」

「話がよくわからないな。」

私は運ばれてきたエビチリに箸を伸ばしながら話した。

「都内で働いていた時、妻に出会って結婚した。我ながら順調な人生を歩めそうだと思った。ただその時期辺りから僕は一つの妄想にも似た思い込みに捕らわれていた。『この場所から遠く離れた日本のどこかに六年前の自分がいる』と。そのタイミングで都内から岩手への異動が決まったわけだ。これはなにか因果関係があるとしか思えなかった。ありがたいことに妻も僕と一緒について来てくれたから新婚早々別居ということにならずにすんだ。それはとても寂しいことだからね。」

「ちょっと待って。その思い込みと、異動にどのような因果関係があるの。」

私は兄の論理に納得いかず、丁度横を通った店員に二杯目のビールを注文すると、兄も僕にもくださいと言った。

「つまりこういうことさ。順調な人生、安定した人生と、今の自分の現状を客観的に見た時に、何か自分の周りが外堀から順番に埋まっていくという閉塞感に苛まれたということだ。同じ場所にいたら、それを打破することはできない。そんな僕の置かれた状況に渡りに船の異動通知が来たということさ。」

兄の論理にはやはり納得できなかったが、穏やかな口調で滔々と繰り出される言葉を聞いていると、何となく理解した気になってしまうから不思議だった。

「異動後、岩手に着くと僕は探していた物がより近くにあると確信した。妻にそんなことは一言も言わなかった。妻は迷信などを信じるような類の人間ではなく、合理的な、現実主義的な人間なのは、市役所ににいる時からわかっていたからね。」

「そうなんだ。」

私は相槌を打ち、兄の話を先に進めたかった。

「六年という歳月を巻き戻すため八幡平の山奥に向かったのが異動してからちょうど二か月目の時さ。秋田との県境で冬は雪で山域は閉ざされ、一般人の立ち入りは強制的に制限される。主な産業と言えば一次産業の農業だけさ。たった六年ではなくて、十数年前に戻るかもしれないと僕は思った。ただ、実際に行ってみると想像した通りの場所だった。」

兄の話はまだまだ続きそうだった。

「緯度が高いせいか、東北の山々は標高の割に体感環境が厳しいんだ。山梨や長野の千六百m高とは環境がまったく違う。三千m級の山を想定すべきなんだよ。」

アルコールが進んだせいか兄はずっと一人で話していた。私も兄の話を最後まで聴きたかったので、静かに相槌だけ欠かさなかった。

「僕は山に登り始めてから、ずっと写真撮影を欠かさなかった。今回の真の目的は六年前に僕が求めていた場所や思いを岩手で見つけることだったんだ。」

唐突に兄から語られたことに、多少驚きはしたが、私は続きを促した。

「六年前、僕は山岳カメラマンになりたかった。誰にも公言する勇気はなかったけれど。そんな無謀なことができるわけがないと思い、結局安寧の地を求めた。僕は無謀な挑戦から身を引くことを選択し、無事結婚した。もう身動きを取ることはできない。選択したこの道を一直線に進むしかないと思うと、六年前に切り捨てた無謀な挑戦への思いが再び燻りだした。」

「そんなことだろうと思っていたよ。実はなんとなくわかっていた。兄弟だもんな。そりゃわかるぜ。兄さんの考えていることなんてさ。」

「そうだよな。」

そう言って兄は笑った。

「だけど今の話は実は例え話でもなんでもないんだ。八幡平の山奥でテントを担いで一週間以上無心に写真を撮り続けていたら、ファインダーの先に六年前に失った思いが映し出されたんだ。」

話はすべて終わったと一息ついていた私は兄の言葉に耳を疑った。

「どういうこと?」

「八幡平というのは山頂まではバスが通っていて電車を乗り継いで行った先は、バスで到着できる。山頂近くには過去の火山噴火で生まれた八幡沼という湿地帯があり、木道がいくつかの沼の周りに敷かれている。僕は木道から少し内側に入った高原の平地にテントを張り、拠点としながら撮影をしていた。僕が滞在した六月は山頂付近では雪解けが始まっていた頃だった。厳冬ではなく僅かに春の訪れを感じさせるようなそんな季節だった。荷物をテント内においてカメラと小さなザックを持って、木道沿いを散策しているとチングルマやミツガシワの小さな白い花が撮影できた。八幡沼以外にもこの山域には多くの火山由来の沼が存在する。その一つである鏡沼の周りを散策していた時だった。沼を挟んだ反対側の木道に熱心にファインダーを覗いている青年がいた。僕よりも少し若い感じだった。遠くてよく見えなかったが、次の日も同じ時間にその場所に行くとその青年がファインダーを覗いていた。挨拶でもしようかと近寄った。テント生活も六日目に入り、会話もせずに一人で撮影していると、人恋しくなる。近づくと、僕にとても似た顔をしていた。あまりの類似に僕は驚き声をかけるのを辞めた。鏡沼では厳冬季は完全に氷結していて、六月のこの時期になるとやっと沼の一部で雪解けが始まる。中心部の氷が一番初めに貫通する。青年を見たのはちょうど沼の氷が貫通した日だった。早朝の鏡沼にはいつのまにか靄で充満されていた。鬱蒼とした幻想的な景色に一瞬目を奪われていた時、山はいいですねと、耳元で青年の声が聞こえた。振り返ると、そこに青年はいなかった。真っ白な雪に閉ざされた景色の中、鏡沼の中心を遠く見やると、青くくりぬかれた紺碧の水柱から煙のように登りあがる青年の姿が見えたような気がした。その後数回、鏡沼を散策したが青年に会うことはなかった。あれは六年前の僕が異形の姿で今の僕の目の前に現れたとのだと確信している。」

兄はそう言って一枚の写真を私に渡した。それを見て、私も六年前の兄であることは間違いと同様に確信した。

「いい人と結婚できてよかったね。」

私がそう言うと、兄は、それは本当によかったよと、そう呟いた。                                 

                                   了

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六年前の男 武良嶺峰 @mura_minemine

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