第3話
二か月間のインターバルを置き、今両親と私は再び岩手の公務員宿舎を訪れている。兄妻が玄関ドアを開けて出迎えてくれた。兄妻は兄のことを苗字に「さん」を付けて呼んでいる。あなたも同じ苗字になったのだろうとなぜか今回はそんな違和感を覚えた。これまでもそんなふうに呼んでいたと思うのだが。これが作業机の上に置いてあったんですと、リビング横の部屋の兄の作業机の上に、置いてあるB5サイズの小さな紙を手に取り兄妻は私達に手渡した。そこには事前に聞いていた通り「六年前の自分を探してきます」とだけ書かれていた。警察に連絡したのかと、父が深刻な顔をして聞くと、もちろん当日に失踪届を交番に提出しましたと兄妻は言った。兄がいないと父や母の兄妻に対する話し方が微妙に変わっていることに気が付いた。私の話し方も変わったのだろうか。兄妻の言葉尻もいつもとは違う気がした。何か冷ややかな空気がこの空間の足元から充満し始めているのが感じられた。兄の不在により、明らかに集合体の不和が始まったのだ。それぐらい兄がいないこの四人の集合体はいびつな物に感じられた。警察から連絡は来ていないのかと、父はしきりに兄妻に質問していたが、来ていないものは来ていないとしか回答できず、兄妻も明らかに苛立っていた。母はどこを探しに行けばいいのか、なにか兄は伝えていなかったのか、予兆はなかったのか、なんでこんな近くにいながら気が付かなかったのかと、兄妻に対し、やんわりと詰問し、次第にヒートアップしていった。私には両親共に不安定な状態となっていくのがわかった。公務員宿舎にいて話していてもらちが明かないので、四人で兄がいるかもしれない場所を確認して回ることにした。手始めに職場近くを歩きまわってみたが見つからず、これまでに一緒に行ったという飲食店や美術館などを見て回ったが一向に兄の気配はなかった。しばらくして兄妻も思い浮かぶ場所が無くなった。集合体内に不音な空気が流れた。ここにいても何も解決しないと思い、両親へホテルへ一度帰って落ち着こうと伝え、兄妻にはすみません、二人とも心配しているだけなんですと苦笑いを残し、駅近くのホテルにチェックインした。兄が現れるのを待つにせよ、兄妻のいる公務員宿舎に戻らない方がよいと思った。三日間ホテルに泊まったが警察からの連絡も兄妻からの連絡も無かった。市街地を三人で彷徨ったが不意に兄を見つけることなどできるわけがない。兄を見つけたいという気持ちと何もできないという板挟みで情緒不安定になっていた。母は泣き、父も俯いた。私は少なくとも一週間休むこと、場合によってはさらに長期間休むことを担当教官に伝え、岩手で兄を待つことにした。そして両親へ体調が不安定そうだから、一度西東京の家へ戻った方が良いと伝え、私は連絡を受けてすぐに兄の元へ行くため岩手に数日留まることを伝えた。両親はしぶしぶ、私の言葉に従い、西東京の家へと帰っていった。
兄妻からの連絡は無かったので、両親が帰ってからは毎日私から連絡し、警察から情報が来ていないかと聞いたが有効な情報はなかった。連絡を取る中で私は何か違うという感覚、次第にそれは違和感へと変貌していった。今になって思うと、兄妻も同じように私達に対して感じていたと想像できる。数か月前まで他人だったのだから。兄もこのような感覚を一人持っていたのだろうかと、誰もいないホテル薄茶色に汚れた天井を見ながらそう思った。
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