第七章:暗中飛躍-29

 


 ______

 ____

 __


 クラウンがローレルを陥れた、一週間後。


 初老を迎えた一人の女が、ティリーザラ王国のとある街へと辿り着いた。


 そこは鉱山都市パージンから北東に位置する都市であり、貿易都市カーネリアやパージンに並ぶ程に大きく発展した街。


 名を「宗教都市パッション」。国内では宗教が最も盛んに活動しており、様々な宗派の教団がまるで小さな世界地図さながらに区分けされた、自由宗教を許しているティリーザラ王国ならではの異色の都市である。


 世界規模で広く親しまれる「幸神教」が最大勢力を築いて治安を維持しており、それらを他の宗派が独自の信仰を掲げたまま補佐を行なっている。


 輪廻転生を御業と崇める「転生教」。


 法則を神の設計図と崇める「法神教」。


 地脈こそに真理を見出す「地神教」。


 そして欲望こそが生命の原動力として犯罪者から多く信仰を集める「欲神教」。


 他にも様々な宗教がそれぞれに教会を構え、絶妙なバランスでもって治安を維持しているのだ。


 しかしそんな自由宗教を謳うパッションでも一つだけ、「特例追放異教」と認定され街を追われた宗教が存在する。


「……ここ、か」


 深夜。初老の女は森の奥を切り拓き作られたスペースに建てられている教会を目の前にし、見上げる。


 深い森に紛れる為、黒色の壁には敢えてつる植物が手入れされずに放置されている。


 教会自体の大きさも控えめで、本来なら掲げられているべき鐘や教団や宗派をあらわすシンボルすら飾られていない。


 だがそのお陰で森の外からでは見付けるのは困難であり、森に侵入して尚、探し出すのには苦労するだろう。


 およそ活動しているか怪しい漆黒の教会。そここそが、パッションで唯一街を追われた教団が拠点としている教会であった。


 そんな教会を前にし、初老の女は喉元へ手を伸ばすと「ん゛んっ……」と喉を抑えながら鳴らし、軽く深呼吸する。


 そしてゆっくりと歩き出し、教会の扉の前にまで来ると数回ドアノッカーを上下させ、来訪を中の人間に報せる。


 すると一分程して扉の向こうでいくつかの気配が集まり、おもむろに扉が開けられ、開いた隙間から一人の男が顔を覗かせる。


「……何者だ」


「ど、どうか警戒しないで……。私、王都セルブで伯爵位を預かっているシルヴィ・バーベナ・ローレルと申します」


「……王都の貴族?」


 男は隙間からシルヴィと名乗った女の容姿を下から上に掛けてじっくりと観察する。


 外側を質の良いローブで覆い隠し、そのローブの隙間から覗くのは少ない情報量からでも解るような鮮やかな装飾の施されたタイトなワンピースのドレス。


 しかしその鮮やかな装飾を台無しにするかのように所々が汚れほつれており、お世辞にも綺麗とは言い難い。


「何の用だ」


「その……。貴方達に有益な情報を持って来たの。お願い、中に入れて貰えないかしら?」


「……」


 その様子と彼女の声音を聞いて男は何らかの事情があるのだろうと悟ると、背後にいる同僚に待機するようハンドサインをしてから自分だけ扉を潜り、シルヴィの前に立つ。


「この場で話を聞く。話せ」


「な、中には入れて貰えないのかしら?」


「内容次第だ。それが出来ないというならば今すぐにでも追い返すが?」


「わ、分かったわっ! 話すから乱暴は止めてちょうだいっ!」


 そう言うとシルヴィは羽織っていたローブを取り去り、薄汚れたドレス姿を露わにする。


見窄みすぼらしい姿でごめんなさい。逃げて来るのに必死だったから、ドレスこれにまで構っていられなかったの」


「逃げて来た?」


 男は眉をひそめると、シルヴィは疲弊し切った顔で自嘲するように笑う。


「ええ……。それと一つ訂正するわ。さっき私は伯爵位を預かってるって言ったけど、厳密には違う。恐らく……いえ、十中八九爵位は剥奪されているでしょう。最早私は、ただの落ちぶれた元貴族でしかないわ」


 シルヴィの目に、最早生気は宿っていない。


 光は無く、ただ虚な穴の中を覗き続けているかのように視線は何処か下へ下へと彷徨っていた。


 そんな暗中真っ只中な彼女の目に、男は自身の仄暗い過去と照らし合わせ、欠片程も無かったシルヴィに対する感情に、小さな芽が芽吹く。


「……聞かせろ」


「良いの? 私が言うのも何だけど、こんな怪しい女の話に耳を傾けるなんて……」


「俺……いや、俺達もお前として変わらん境遇から集まったような集団だ。そこまで狭量ではない」


「……ありがとう。ただその……」


「まだ何かあるのか?」


「少し、刺激の強い内容になると思います。ですからどうか、冷静のまま聴き続けてちょうだい」


「む?」


 ほんの少しだけ目に光を取り戻したシルヴィは、そこから自分の近々の状況から繋がる彼等に有益な情報を口にしていく。


 自身が裏で敵国エルフと共謀し、ティリーザラ王国の経済を引っ掻き回していた事。


 その過程でエルフ側の内情をある程度把握している事。


 しかしとある侯爵家の人間を暗殺した事により目を付けられてしまい、罠に嵌ってしまった事。


 結果自分は伯爵位を剥奪され逮捕されたが、運良く拘束から逃れる事が出来た事。


 そして逃げ込む先を探した際この教会の存在を思い出し、自身が得たエルフの情報を手土産に匿ってもらおうと訪れた事を……。


「……成る程。お前の話を信じ要約するならば、お前はお尋ね者で我々に手土産一つで助けて貰おうとわざわざここに来た、と」


「正直、この身で今それを証明は出来ないわ。でもセルブへ確認してくれれば、私の言葉に嘘がない事は証明出来るはずよ」


 シルヴィは腐っても元伯爵家当主。どこの馬の骨とも知れない輩とは違い、その身分から容易に彼女の推移を探る事が出来る。それがある種の証明にもなるだろう。


「ふむ……。それで? 肝心の我々に有益な情報というのはなんだ?」


「それは、私を中に入れてくれるなら話すわ」


「何だと?」


 少しだけ殺気立つ男にシルヴィは一瞬たじろぐが、ここで退けば後がないと意を決し、その威圧感へ立ち向かう。


「わ、私だって命懸けなのよっ! そしてこの情報はわば私の命綱……。話すだけ話して追い返されるワケにはいかないのよっ!」


「知るかっ! 第一お前の話がどう我々に有益かなどお前が何故判断出来るっ!? お前の言葉が本当かどうか且つ、我々に本当に有益かどうか確証がない限り教会に入れるわけには──」


「魔物化ポーション」


「──っ!?」


 男はその文言を聞き、今までポーカーフェイスを貫いていた表情を崩してしまうと、それを見逃さなかったシルヴィが追撃を掛ける。


「あら。なんだか手答えのある反応ね」


「……」


「魔物の血を使ったポーションで、濃厚接触した動物を魔物に変える禁断の薬……。国中に教徒が散開してる貴方の所なら知っているでしょう?」


「……ポーションを中心とした薬剤の第一人者〝薬開〟リリーフォ・リーリウムが製法を発見し、その危険性から第一精製禁止薬に指定されている。故にその製法は極秘中の極秘であり、知り得るのはリーリウム本人と、複雑怪奇な製法に自ら辿り着ける腕を持った者のみ」


「ええそうね。そしてその製法に、エルフ達は辿り着いている……。私が言いたい事、分かるわよね?」


「……」


 眉を歪め眉間に皺を寄せる男。シルヴィの意図を察知し、少しだけ不機嫌そうにしながら鼻を鳴らした。


「ふん……。我々とて無駄に時間を浪費して来たわけではない。魔物化ポーションの製法など、後数年もすれば独断で辿り着ける」


「そう。でもそれを貴方達が完成出来たとして、それからどうするの?」


「何?」


「貴方達は魔物化ポーションを大量に必要としてる……。でも魔物化ポーションの精製には確かな知識と卓越した実力が必要よ? 構成人数が何人居てその内何人が作れるかは知らないけれど、例え作れるようになっても理想の実現に一体どれだけの年月が必要になるかしらね?」


「貴様……」


 男が放つ雰囲気に怒気が滲む。


 シルヴィの言葉に自分の誇りである教団が貶される思いを覚え、一層鋭くシルヴィに睨みを利かせると、彼女はそれに対して慌てたように身振り手振りする。


「お、怒らせたなら謝るわっ! でも私の言ってる事に間違いは無いでしょう? このままじゃ貴方達の理想実現は遅々として進まないわっ!!」


「むっ、むぅ……」


 シルヴィに諭され、男は頭に昇らせていた血の気を小さく深呼吸して落ち着かせる。


 彼女の言う通り、今現在教団内で精製出来ている魔物化ポーションの試作品はどれもまともに利用出来ず、素人どころか精製した本人達ですら扱いに困る劇物ばかり。


 成果が無いわけではないのでこのまま地道に研究していればいずれ完成させる事は可能だが、それこそ五年か十年……状況によってはそれ以上掛かる可能性もある、と男は聞かされていた。


 そしてある意味の現実逃避をするようにその事実を考えないようにしながら活動していた男とそれに連なる幹部達は、精製の安定化を祈りながら他の有効な方法を探っていたのである。


「私が持って来た情報を駆使すれば、貴方達の理想は確実に前進するっ! 解らないわけではないでしょうっ!?」


「……」


「お願いよ……。世話をしろとまでは言わない、ただ再起するまでの間の隠れ蓑になってくれさえすれば良いっ! だから……私を信じてちょうだい……」


 今目の前に五里霧中な状況を打開し得る可能性が転がり込んで来た。


 都合が良い、と思わなくもない男だったが、今後の五年十年を大幅に短縮出来る術など思い付ける筈もなく、また今後同じようなチャンスが舞い込んで来る可能性など皆無に等しい。


 彼等魔物を崇拝する教団にとって、これは千載一遇の機会である事は自明の理であった。


「……解った」


「え……」


「お前を匿ってやる」


「ほ、本当っ!?」


 パッと表情を明るくするシルヴィ。だがそんな彼女に男は「ただしっ!」と前置きをしてから言い含める。


「当然だが嘘だと判明した時点で我々はお前に適切な処分を下す。それと一応俺から構成員達に言って利かせておくが、お前の扱いは〝客員〟だ。元貴族だからと教団内で余りデカイ顔をしないで貰おう」


「わ、分かってるわ。そのくらい弁えるわよ」


「ふん、どうだかな。ウチの教団の構成員には貴族に虐げられた者も少なくない。充分気を付ける事だな」


 そうシルヴィに言い放つと男は踵を返し、教会の扉へと手を掛けゆっくりと開ける。


 すると男は何かに気が付いたように動きを止め顔だけを振り返り、後を追おうとしたシルヴィを見る。


「ど、どうかしたの?」


「いや、客員とはいえウチに招き入れるからな。一応言っておこう」


 男は空いた手をシルヴィへと差し出し「ん゛んっ」と喉を整えてから、教団決まりの招聘しょうへいの言葉を口にする。


「ようこそ四つ目の魔狼が見護る「魔天の瞳」へ……。俺、リード・スタイガンドがお前を導こう」


 シルヴィはその言葉を聞きホッと胸を撫で下ろすとリードの手を取り再び「ありがとう」と口にする。


 その意味に、様々な感情を滲ませながら、シルヴィは「魔天の瞳」へと招き入れられた……。






「……何っ!? 魔物化ポーションを国中に散布する装置だとっ!?」


 シルヴィにより「魔天の瞳」幹部達の前で披露された情報は、彼等に青天の霹靂と言っても過言ではない衝撃をもたらした。


 それはエルフ達が極秘裏に魔物化ポーションを用いた巨大な散布装置を開発しているという事実であり、それを然るべきタイミングでティリーザラ王国に散布する計画がある事を、幹部達へと告げたのだ。


「奴等そんなものを……」


 そう呟いたリードに続くように、他の幹部達が喜色を含んだ声音でざわつく。


「これを利用出来れば魔物様の繁栄に大きく貢献出来るぞっ!」


「魔物化ポーション精製が遅れている現状、これ以上に無い機会が巡って来たな……」


「我々の代で悲願が成就する事になるかもしれん……。なんと幸運な事かっ!!」


 そんな喜びの声を上げる幹部達であったが、そんな彼等に少々水を差さねばならない追加情報をシルヴィが口にする。


「装置の制御室はアールヴの首都である霊樹トールキンの最下層である「最根階」に存在するわ。外部からの干渉は不可能と言って差し支えないでしょう」


「むっ。そうなのか?」


「ええ。だから利用するにしてもアールヴへ赴き、霊樹トールキンに乗り込まなければ叶わないでしょうね」


「……成る程。エルフの国に侵入、か……」


 シルヴィからの言葉を聞き、幹部達の中で何かのスイッチが切り替わったのか、喜色が滲んだ声音を鎮めると口々にシルヴィがもたらした情報について会議を始める。


 最早彼等の眼中に全ての情報を吐いたシルヴィの姿はなく、所在無さ気になった彼女を見兼ねたリードは小さく溜め息を吐きながらシルヴィに歩み寄った。


「この様子だと暫く話し込む事になる」


「あら、貴方……」


「お前の役割はひとまず仕舞いだ。部屋と着替えを用意しているから、今日の所は休んでくれて構わん」


「ありがとう。あ、あと申し訳ないんだけどお風呂ってあるかしら? ここまでの道のりで随分と汚れてしまったから……」


「ああ。構成員に言っておくから一時間程したら向かえ。場所は今から案内させる構成員に聞くんだな」


「そう。分かったわ」


「余り動き回ったりするなよ? さっきも言ったが俺が言い利かせてはいるとはいえお前を怪しんでいる奴は少なくない。追い出されたくなければ大人しく身を潜めているんだな」


 そうリードが忠告し終わると、彼もまた他の幹部達の元へ戻り、激論が繰り広げられる会議に再び参加する。


 するとそのタイミングで若い構成員がシルヴィに歩み寄り、彼に連れられ部屋へと案内された。


 道中生活に必要な設備がある部屋や「魔天の瞳」内での基本的なルールや矜持等をあらかた教えてもらい、部屋に到着する頃には何ら問題無く行動出来るだけの予備知識が彼女には身に付いていた。


「いいですかっ? 改めて言いますが教会の奥にある「教祖様の間」には近付いてはなりませんよっ? あの方に謁見出来るのは幹部の中でも上位三名の最高幹部のみなんですからっ!」


「ええ何度も聴いてちゃんと理解しているわ。ただでさえ疑われている身だもの。下手な事は絶対しないわ」


「ならば良いのですっ。では三時間したら夕食となるので、その際は食堂にお越し下さいっ! 何かお困りな事があればボクや他の構成員にお声掛け下さいねっ!」


 任務を無事果たし、上機嫌になった若い構成員を見送り、シルヴィは用意された部屋へと入室する。


 そして彼女は辺りを見回し、スキルによって盗聴等がされていないのを確認すると……。


「……だはぁぁぁぁぁぁぁぁ……。よ、よーやく一息吐けるぅぅぅぅ……」


 盛大な溜め息を吐きながら堅苦しいドレスをむしり取るように脱ぎ去り、ベッドへと上半身を埋めるシルヴィ……を、名乗っていた存在。


 先程の貴族然とした気品ある口調や仕草は完全に崩壊し、ドレスの内側から露わになったのは小柄で線の細い少年の身体。


 脱ぎ去った長髪のカツラからは緑色の髪が棚引き、蝋燭で灯された部屋の明るさに頭痛を覚え目を細め、すかさず懐からサングラスを取り出して掛けた。


「あぁーもう、潜入とかシンド……。これエルフは二十年とかやってたんでしょ? ははっ、凄いね、尊敬しちゃう」


 シルヴィの皮を取り去り現れたのは、クラウンの腹心であり彼と最初に魂の誓約を交わした忠信篤き少年、グラッド・ユニコルネス。


 《変装術》を駆使し、シルヴィの変装をしてここ「魔天の瞳」へと潜入を果たしたわけである。


「はぁぁ……。アレで一応奴等を誘導出来たぁ、かな? うぅん、あんま自信ないなー……」


 グラッドがこの「魔天の瞳」に潜入した理由はニつ。


 一つは彼等を魅力的な情報で誘導し、戦争に参加させ、同時に〝とある役目〟を担って貰う為。


 戦争に参入させそのままアールヴまで向かってもらい、霊樹トールキンに存在するという魔物化ポーション散布装置に関連した〝とある役目〟を無理矢理担って貰う。


 その為にグラッドはシルヴィという説得力のある皮を被り、この教団に潜入し、情報を与えたのだ。


 そして二つ目は「魔天の瞳」の教祖についての情報を探る為である。


 既に構成員の何人かには、以前彼等がパージンへ赴いていた際にクラウンがムスカの《分身体》をばら撒いており、ある程度ならば彼等を探る事は可能であった。


 しかし「魔天の瞳」の教祖の情報だけはどうしても探る事が出来ず、クラウンとムスカの悩みの種の一つだったのだ。


 戦争へ誘導する以上、「魔天の瞳」に関する不確定要素をなるべく排除したいと考えたクラウンはそれを解決する為、潜入したグラッドが直接調べるよう命令していたのである。


 そして二つの目的の内の一つ目である情報による誘導は恐らく成功。もう少し後押しも出来なくはないが、シルヴィという絶妙な立場の人間が下手に介入し過ぎてしまうとあらぬ疑いを掛けられかねない。


 一つ目の目的に関してはこれ以上グラッドに出来る事は無いだろうと、彼自身はそう判断した。


「んじゃ、ちゃっちゃと教祖探って帰ろっと。はぁーあ、ボスの手料理が食いたいなぁ」


 そう愚痴りながらベッドに埋めていた上半身を起こし、残る二つ目の目的である「魔天の瞳」教祖の調査を始めようとする。


「と、その前に……。ムスカ? 聞こえる?」


 グラッドは耳に手を当てる仕草をすると《遠話》を発動し、外で待機しているムスカへと声を飛ばす。


『……ええ良好で御座います』


「それは良かった。んじゃ、手筈通り〝死体〟をよろしくー。それとボクはこのまま教祖が居るっていう「教祖の間」に行くから、一時間したら予定通り教会〝襲撃〟してねー」


 魅惑的な情報で誘導し、教祖を探るのが今回のグラッドに与えられた任務である。


 しかしそれを本当の意味で完遂するには、グラッドが被っていた皮であるシルヴィの存在がネックになって来るのだ。


 仮にこのまま無事任務が完了し、そのままグラッドがシルヴィとして姿を消した場合、教団の人間はシルヴィに対してかなりの不信感を抱く事になる。


 当然だ。何の音沙汰もなく姿を消した他所者など誰が信用出来るという話である。


 下手をすれば折角与えた情報にすら不信感を抱き、誘導出来ずに目的が水泡に帰す可能性がかなり高い。故にシルヴィに化けたグラッドが居なくなるのには相応の理由が必要になってくるのだ。


 そしてその相応の理由こそが、グラッドの言う〝死体〟と〝襲撃〟なのである。


『はい。承知致しました』


 ムスカの気持ちの良い返事を聞きグラッドは《遠話》を解除すると、簡単に身支度を整えてから気合いを入れる為に自身の両頬を軽く叩く。


「よしっ……。ボスからの初任務、気合い入れなきゃね」


 グラッドはそう意気込み、隠密系スキルをフル稼働させて部屋のドアを開く。


 ひとえに親愛なるボスの、悲願の為に……。







「……ん?」


 薄暗い一室。


 素朴で飾り気が無いその部屋に居る一人の男。彼が机に向かって何かを綴っていた最中、鼻の奥に届いた微かで、そしてとても……とても懐かしい匂いを感じ取り、おもむろに頭を上げた。


「嗚呼……こんな事が、あるんだね……」


 思わず声が震え、涙腺が緩みそうになったのを耐えた男は立ち上がると全身を覆い隠せる程のローブを羽織り、扉に向かって手を掛ける。


「折角だからおもてなし、しないとね」


 男は複雑な感情が浮かぶ表情をそのままに扉を開く。懐かしい〝母〟の匂いを連れて来てくれた、客人を迎える為に……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る