第六章:泣き叫ぶ暴食、嗤う強欲-1

 早朝。


 辺りには薄く霧が掛かり、上空には更に濃い霧によって陽の光は遮られ薄暗く、周囲の湿度は限界値を極める。


 空気は濁って淀み、僅かな腐臭と血の匂いを漂わせ私達の鼻孔を狂わせる。


 地面の泥は普段より軟化し、油断すればそのまま飲み込まれかねない程だ。


 ここはロートルース大沼地帯だいしょうちたい。ティリーザラ王国に存在する世界有数の広さを誇る巨大な沼地。


 そんな沼地中央付近。


 そこには今、冒涜的な異形が鎮座する。


 体長三十メートルはあろうかという巨体に浅黒い肌色の表皮。


 鰐の様に細長い頭部には口しか無く、その口角は頭の後ろ付近まで裂けており不揃いな牙が散見している。


 胴体はおよそ生物の形を成しておらず、手足の配置は無茶苦茶で何本も飛び出している。


 背中付近からは幾本もの触手が飛び出し、その先端には眼球の他、口や耳や鼻などが歪んだ形で飛び出している。


 体表には人間や様々な生き物のパーツが無数に、不自然に飛び出しており、まるで何百人、何百匹もの生き物がドロドロに溶かされて無理矢理くっ付けられたかの様な冒涜的な見た目。


 そんな化け物が今、喉を鳴らしながら背中の触手を辺りに忙しなく伸ばし、食事を探すのが見て取れる。


 そう。それが私達が今から相手をする事になる怪物「暴食の魔王」である。


「……本当にあんな化け物とやるつもりか?」


 そう問い掛けて来たのは私の隣に立つスキル《千里眼》を持つ男装の麗人ラービッツ。


 沼地の端で《千里眼》を使ってもらい、魔王の正確な場所を探してもらっていた。


 その姿を確認したラービッツの表情は明らかに青い。なんなら気分が悪そうだ。


 まああんな異形を目にしたら大半の人はそんな感想を抱くだろう。精神力の弱い者なら発狂し狂気に陥る事間違いなしだ。


「ああそうだ。ここで怖気て奴を放置すればこの国だけじゃなく、周辺国家を巻き込んだ大災害になるだろうな」


「……そんな災害呼ばわりする相手に、本当に勝つつもりなのか? 正気か?」


「予期せぬ災害はに恐ろしいが、万全の対策を講じる事が出来ればなんとかなる。まあ自然災害は逃げの一手になるが、幸い奴は生物だからな」


「……幸いの意味を分かって言っているのか貴様は……」


 ラービッツは呆れた声色でそう私に呟くが無視する。単純に今はそれどころでは無いからだ。


「余り時間を使いたくない。スパイエルフには偽の日時を伝えてあるがいつ気が付かれるか分からないからな。〝前半〟の戦闘の段階で奴等の邪魔が入ったら失敗だ」


 奴等も無能ではない。私達を複数人学院で見掛けなければ察してしまいかねないのだ。故の短期決戦。強敵に対して無謀な話だが、必要条件だ。仕方がない。


「まあそれはいいとしてだ。実は誘うつもりではいたのだが、まさか志願するとはなラービッツ」


「……私はお嬢様をお守りしたいだけだ。貴様に負けはしたが、やはり任せっぱなしは心臓に悪い。それに──」


「前回守れなかった雪辱を果たさねばな……」と聞こえないよう小声で呟いたが、残念ながら《聴覚強化》を発動中の私には丸聞こえだったりする。やはり悔いていたのか、アーリシアを守れなかった事を。


 まああの事態を言い訳しない辺り誠実ではあるのだろうが……。いや、これ以上はいいか。


「それよりお前はアーリシアの背中でもさすってやりに行け。緊張なのかなんなのか、顔色が悪そうだからな」


 私とラービッツが背後を振り返ると、そこには私達の他に数名、思い思いに待機している。


 一人はアーリシア。先述した通り緊張、または恐怖からか顔色が悪く若干げっそりしている。杖を持つ手は震え、落ち着きなくキョロキョロと辺りを見回して落ち着こうと必死だ。


 今回は割と重要なポジションをやって貰うつもりなんだが……大丈夫か?


 そして師匠。そもそもこの人が居なければ話が始まらないわけだが、単純に戦力として師匠の力も必要だ。魔法に関して同年代で他の追随を許さない私であるが、流石に師匠には及ばないだろう。


 師匠から魔法を教わりたい気持ちも当然あるのだが……正直暇がない。具体的にはエルフとの戦争が決着するまでは余裕が余りないのが現実。合間合間に教えて貰うつもりでいるが……ふむ……。


 更にもう一人、私の姉さん、ガーベラだ。私はこの短い十五年間で姉さんより強い人は見た事がない。師匠はまあ、まだ計り知れないから置いておくとしても、姉さん以上に近接で強い人を今は想像出来ない。下手をしたら魔王も姉さん一人でなんとかなるんじゃないか? と、希望的観測を考えなくもないが……まあ、流石に無いだろう。


 そんな姉さんはいつもの私と共にある時の少し垢抜けた雰囲気ではなく、腕を組んで目を閉じ、ひたすらに呼吸を整えている。


 緊張とかと違う姉さんなりの精神統一のルーティーンなのだろう。私から姉さんに魔王討伐の話をした時からこんな感じに物静かだ。頼りになる。


 そして──


「……私としては、君を参戦させたくは無かったんだがな」


「……それは私が足手まといになるからですか?」


 ロリーナも、この場に居る。まあ散々彼女の前で何の隠し立てもせず魔王戦の話をしていたから彼女自身参加するつもりでは居たらしいのだが……ふむ。


「いや、単に君を大変な目に遭わせたくなかっただけだ。実力としては申し分ないと分かってはいる。分かってはいるんだがな……」


 これは私が過剰反応しているだけなのだろうか?正直、彼女が奴に一ミリでも傷付けられたらと想像するだけで気分が悪くなる。だから安全な場所に居て欲しいと望んでしまうのだが……。


「大丈夫です。私にはクラウンさんが居ますから。大丈夫です」


 そう言いながらロリーナは右手の薬指に嵌めている私が渡した指輪を軽く撫でる。


 実は学院出発前も、同じ問答と仕草で押し切られたな。……あれ?私、なんかもう手綱握られてないか?気のせいか?


 ……だがそう言われると断れない。


「……分かった。全力を尽くす」


「はい。私も頑張ります」


 ふむ……。で、更にもう一人、マルガレン。


 マルガレンは私の従者、側付きだ。当然居る。散々マルガレンに自由にしていいと口にした私だが……。


「マルガレン……」


「僕が坊ちゃんを守るのは僕がやりたい事です。異論は認めませんっ!」


「……分かった」


 アレからマルガレンは落ち着いた後、何か意地になってしまい頑なに私を守るのだとの一点張りだ。


 正直マルガレンの実力はまだまだ未熟な所が目立ち魔王戦は厳しいが……。


「いいか?お前は私を守る事に専念しろ。他には構うな。でないと──」


「はい、存じています。僕の実力では他に集中を割くなどとても出来る事ではありません。そこは……心得ています」


 少し悔しそうに唸るマルガレンだが、何か咄嗟に……本人ですら無自覚に動いてしまう可能性はある。出来ればそんな状況には陥って欲しくないんだがな。


 ……そして。


「……アンタ等も来るとは思わなかったな」


「なんだなんだっ、十年経ってもその太々ふてぶてしい態度は変わんねぇなっ!?」


「私達はお館様の御命令でこの場にいるだけ。ギルドとしてはちょっと業務から逸脱気味だけど……お館様の為だから」


 師匠の背後に居る、いつもの顔触れとは違う二人。


 しかし私は知っている。特に男……短髪の大男に対し浅からぬ思いが、私にはある。


「私は忘れていないぞ。私を痛め付けたお前を」


「おお怖っ……。十年前もヤバかったが、今のコイツは本気で怖ぇなぁ……。なあクイン、国の為にもやっぱコイツも始末しちまったら──」


「何馬鹿バカ言ってんだ単細胞っ!! 仮にそれやったらわたし等今度こそお館様に顔向け出来なくなるじゃないかっ!!」


 そんな二人のやり取りに、彼等を知らない者が訝しんだ目線を向ける。


 それを受けた小柄な女性は咳払いを一つして大男の脹脛ふくらはぎを蹴飛ばして何かを促す。


「痛っ……っ!? ──ったく……。ん゛んっ。俺、キグナス・クーロンバーク。並びにハーティー・クインデル。大公ディーボルツ・モンドベルク様の命により、国防を行使する為に来たっ!!」


「君等と共に奴を討ち取る協力をしたい。どうか宜しくお願いするっ!!」

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