第五章:何人たりとも許しはしない-1

『情け無い……』


 何処からか声が聞こえる。


 男とも女とも、子供とも老人ともつかないその声は、私を遥かに上空から重く見下ろすように叩きつけて来る。


『我が主よ、君はなんと情け無いのだ』


 私は閉じていた目をゆっくり開ける。


 そこは漆黒。上下左右前後、全く識別が出来ない暗黒空間。自身が今何処にいるのかも分からない。


 ただ一つ、そんな暗黒空間に一際目立つ巨大な異形。それが私の頭上で、異常なほど大きな眼でもって私を見つめている。


 ……お前は……。


『我は君だ。君の根っこ、真ん中だ』


 その異形をよくよく見てみれば、それは巨大な右腕だった。


 肌の色は赤黒く、手のひらには巨大な黄金色の一つ目。それが私を見下ろしてつまらなそうにしている。


 ……ああ、成る程。お前か《強欲》。確かにお前は私だな。


『ふふふふ。しかし無様だ滑稽だ。前世の君からは考えられない程に甘ったるい』


 ……前世か……。


 あの時の私は、それこそ四六時中目を光らせていた。


 社員に、一般人に、有名人に、有識者に、権力者に。そして妻に……私は油断しなかった。


 最早それが日常で、疑っているのがデフォルトで、百パーセントの信頼など持った事も無かった。


 だからこそ私は勝ち続けられた。後手に回る事は無かった。いつでも、いつだって優勢で、いつだって裏をかいて、いつだって黒幕でいられた。


 それが……今はどうだろうか?


『父親を尊敬し、母親を敬愛し、姉を憧憬し、妹を溺愛し──』


 マルガレンを信頼し、アーリシアを信用し、ロリーナを──


『それが君か? そんな甘ったるい、浮ついた感情で腑抜けるのが、本来の君なのか?』


 ……そうだな。


『ほう』


 正直居心地良くなっている。私の周りに居る奴等は皆、今の私に他では得難いものをもたらしてくれる。


 それは私がこの世界で手に入れた物であり。


 だから、そう……。棄てるのは勿体無いな。


『腑抜けになろうともか? 油断しようともか? 愚かであろうともか?』


 何を言っているんだ私。そんな事、決まっているじゃないか。


 私は強欲だぞ? 腑抜けぬままに、油断せぬままに、愚かでないままに、私は今を謳歌するのだ。


『……私は欲張りだ。世界の誰より欲張りだ。二兎を追うならばついでに鳥やら猪やらを狩って来る。成る程、それが私だ』


 昔に戻る為に今を棄てるなど馬鹿馬鹿しい、勿体無い。手に入れた物を失くさず、昔のようにやろうじゃないか。


 尊敬したまま、敬愛したまま、憧憬したまま、溺愛したまま、信頼したまま、信用したまま……そして──


 ……愛したままで勝とうじゃないか。


 甘ったるいままで、勝ち続けようじゃないか。


『それでこそクラウンだ。さあ、いつまでも惰眠を貪っている暇はない。楽しい楽しい現実が待っているぞ』


 ああそうだな。差し当たりまずは──


 __

 ____

 ______


 目が醒める。


 光が目を貫き、思わず再び瞼を閉じる。


 ここは──ああ……宿舎の私の部屋……そのベッドの上か……。


 右手で光を遮りながら起き上がろうとすると、上手くいかない。


 いつものように左手で身体を起こす仕草をしようとし、それが出来ないという現実に、私は思わず溜息を吐く。


 そうだったな……。ああそうだった……。


 私は代わりに右手を使って上体を起こし、ベッドの枕元に背中を預ける。


 ……今は何時だ?


 一体アレから何時間経ったか分からない。ただ窓から差し込む光は、今が日の出後の早朝である事を知らせてくれる。


 少なくとも十時間以上か……勿体無い。


 どうやら本当に惰眠を貪ってしまったらしい。今の私にそんな時間は無いというのに……。


 溜息を吐き、改めてベッドから部屋を見渡せば、数人程、寝息を立てている者が居る。


 マルガレンにロリーナ、そして何故か姉さん……。


 マルガレンと姉さんは私のベッドの端に突っ伏して寝ており、ロリーナはソファの上で座りながら寝ている。


「随分心配を掛けさせてしまったようだな……」


 そう小さく呟くと、それに反応したのか、マルガレンがゆっくり顔を上げ、寝ぼけ眼で私の顔を見る。


「おはようマルガレン」


「おはよう、ございま──って坊ちゃん!! 目を覚まされたのですね!!」


「ああ……。調子は……良いとは言えないがな」


 左腕がある場所を見る。


 痛みは無い。誰かが痛み止めの処置でもしてくれたのだろう。


「はあ……まったく貴方という人は……。今紅茶を淹れてきます。少し待っていて下さい」


 そう言ってマルガレンは立ち上がり、隣の使用人室へ向かって行く。


 するとその物音に気付いたのか──


「……ん? ……おおぉ……おおクラウン!! 無事か!? 大丈夫なのか!?」


 目を覚ました姉さんが私の顔を見るや否や食って掛かるように前のめりになり、私の両肩を掴む。


 その目元は泣き腫らしたようで赤くなっており、人一倍心配してくれた事が伺えた。


「姉さん、御心配掛けてすみません」


「本当だぞ馬鹿者が!! 片腕で済んだから良かったものの、そのまま食い殺されていてもおかしくは無かったのだぞ!?」


 片腕で、済んだ、か……。ふふっ……。


「はい、私は色々甘かったのだと痛感しています。考えも、力も、今の私では足らない」


「お前は強い。同年代……いや、上級者や大人にだってお前は引けを取らないだろう。お前には才能がある。だがそれでも、敵わない奴というのは居るのだ。上は居るのだ」


 ふふっ、姉さんが言うと説得力が違うな。なんせまさにそれを言う姉さんに、私は未だに手も足も出ないのだから。


「だから、そんな時くらいは姉さんを頼ってくれ。私に、お前を守らせてくれ。頼むから……」


 姉さんはそう言って私の右手を両手で握る。それは優しく温かく、そして一際力強く……。


 しかしこのまま断ってしまってはまた泣いてしまいそうだな……。ならばいっその事──


「では宜しくお願いします」


 私のその言葉に、姉さんの顔は花が咲いた様に晴れやかになり、私を優しく抱き締めてくれる。


「よし!! ならば私の愛しい弟をこんな目に遭わせた魔王を誅さねばならんな!! いいかクラウン!! 今はそこで大人しくしているのだぞ?」


 姉さんはそれだけ言い残し猛スピードで私の部屋を飛び出して行った。


 私のベッドから部屋のドアまでそこまで距離があるわけでは無いのになんだあの加速度は……。流石は姉さんだな……。


「おはようございます。クラウンさん」


 そんな優し気な声音の方を向いてみれば、そこにはロリーナが木製の器とスプーンが乗ったお盆を抱えていた。


「ロリーナ……おはよう。それは?」


「いつ目を覚ましても良いように昨日作っておいたんです。それを先程温めて来ました。食べられますか?」


 ふふふ、朝からロリーナの朝食が食べられるとはな……大怪我も悪くないかもしれない。しかも昨日から用意していてくれていたなんて……。本当に出来た子だ。


「ああ。有り難く頂くよ」


 ロリーナからお盆を受け取る。器に盛られていたのはお粥の様な物。米ではなくパンを温めた牛乳で柔らかくし、細かい野菜や肉を少量入れ塩胡椒で味を調えた、わゆるパン粥である。


 贅沢を言えば米が食べたい所だが……無いんだよなぁ、米に類似する食品が……。


 おっといかんいかん。日本食系統の事は考えないようにしなくては。食べたくて堪らなくなる。


 私は器のパン粥にスプーンを突き刺し、掬い上げて口に運ぶ。……うん、美味いな。


 初めて食べたが悪くない。味も濃過ぎず薄過ぎず、なんともバランスが良い。だが──


「……ふむ」


 再びパン粥にスプーンを掬おうとし、器がお盆の上を滑った。三度位置を変えスプーンを突き立てようとするが、スプーンはパン粥に沈まずそのまま器ごと押してしまいお盆を滑る。


「……」


 本来なら、こういう場合は左手で器を抑えて食べれば何も問題無いが、今の私に左腕は無い。


 力加減を工夫すれば右手だけでも食べられるだろうが……ふむ、煩わしいな。


「あの……」


「うん?」


 私がパン粥に四苦八苦していると、ロリーナが器とスプーンを私から取り上げ、パン粥を掬って私の口元へ差し出して来る。


 ……おおぉ……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る