第二章:歩み出す転生児-2.5

「あらあら、寝ちゃったわこの子」


 黒髪を後ろ手に結ぶ色白の女性は抱き抱えた赤ん坊に慈愛溢れる黄金の目で見詰め、優しく微笑みながら嬉しそうに言う。


 そんな女性の腕の中には、先程まで窓が割れんばかりに泣きじゃくっていた赤ん坊が静かに寝息を立てていた。


「本当ですねぇ……。最初私が抱っこした時は笑ってくれたんですけど、急に泣き出してビックリしました。きっと母親じゃないって分かったんでしょうね。奥様が抱っこしたら直ぐ泣き止みましたもの」


「ふふ、それならきっと、この子は頭が良いのね。ちゃんと私の顔が判るのだもの。将来が今から楽しみだわ」


 赤ん坊の母親である彼女はそう言って身体を左右にゆっくり揺する。その隣に居る白と黒を基調としたメイド服を着たメイドは、そんな彼女を微笑ましく見守る。


「男の子……という事は、将来は後継とされるご予定なのですか?」


「うーん……どうでしょうねぇ……。夫は仕事人間ではあるけれど、一筋ではないのよねぇ。男の子だからといって後継に、とはならないんじゃないかしら?」


「そういうものなのですか?」


「まあ、ウチの人に限った話だけれどね。でも男の子が産まれたのには凄く喜んでいたわ。少し前までは小さな部下を息子のように可愛がっていたけれど、やはり血の繋がった我が子は一入ひとしおなのかしらね」


 母親は少しだけ困り顔になりながらも、その声や眼は柔和に笑っている様だった。


 すると今度は少し遠くからドタバタと慌しい足音が近付いて来るのが聞こえてくる。母親とメイドは少し呆れ顔になりながらも、その音の発生源がこちらに来るのを待つ様に扉に視線を送る。


 少し経つと視線を送っていた扉が勢いよく開け放たれ、一人の少女が満面の笑みで元気一杯で部屋に入って来る。


「母上っ!! こちらに御出ででしたかっ!!」


「あらあら、ガーベラ。元気なのは喜ばしいけれど、もう少し淑女らしい立ち居振る舞いをしなくてはいけませんよ? 貴女もキャッツ家の人間なのですから」


「はい母上っ! 心得ておりますっ!!」


「本当に分かっているのかしら……」と、母親は小さく、そしてワザとらしく溜息を吐く。彼女のこの一連の行動は今に始まった事ではない。自分に似ず常に元気を撒き散らす彼女に少々呆れながらも、その表情は明るかった。


 彼女の名はガーベラ。母親の第一子にして未だに寝息を立てている赤ん坊の実の姉にあたる人物。そんな彼女が今回この部屋に勢い良く飛び込んで来たのは他でもない。最愛の弟に会うためだ。


「ところで母上。その腕に抱かれているのが私の可愛い可愛い弟ですか?」


「ええ、そうよ。私達の新しい家族……。〝クラウン〟よ。」


「クラウン……。やはりそうでしたかっ! 先程漸く面会して良いと父上からご許可を頂いたのですが、どの部屋か聞かずに飛び出して来てしまったので手当り次第部屋を探したのです。早めに見付けられて良かったですっ!!」


 実の所、クラウンと呼ばれた赤ん坊が産まれて直ぐは彼女の父親に面会を許されなかったのだ。勿論父親として娘に新しい家族を一刻も早く会わしてやりたかったが、何か大事があってはいけないと、心を鬼にしてそうガーベラに言い渡していた。


 そして今回、漸くその面会の許可が下りたのである。彼女はそれを受けるや否や、愛しい弟を屋敷中の部屋に突撃し探し回ったわけである。


「あ、あの母上……。さ、触っても……?」


「ええ、構わないわ。さ、こっちにいらっしゃい」


 そう言うと母親は屈んで膝立になり、ガーベラに目線を合わせて自分の方に来るよう目配せする。それを受けたガーベラは恐る恐る母親の抱く弟の元へゆっくり歩み寄った。


 寝息を立てる弟の前に到着すると、ガーベラはその寝顔を覗き込む。


「か、可愛い……」


「ええ、そうでしょう?こんなに可愛い子が産まれてくれたのよ。また一つ、宝物が増えたわ」


 母親はそう言いながら抱えている手で優しくクラウンの頬を突く。するとクラウンは少しくすぐったそうに、可愛いらしく声を漏らした。


「ほら、貴女もやってみなさい。柔らかいわよ?」


「は、はい」


 ガーベラはそう言われ恐る恐るクラウンに手を伸ばす。この吹けば飛んで行ってしまいそうな小さな身体。少しの間違いで傷付けてしまわぬ様、母親と同じくその柔らかい頰を優しく優しく突く。


「柔らかい……」


 そう小さく呟いて今度は優しく頭を撫でる。


「君が、私の新しい家族……私の最愛の弟。ウチに来てくれて、ありがとう」


 そう言いながら、ガーベラは胸の奥底に力が宿るのを感じた。暖かく真っ直ぐな新たに芽生えたその底知れない感情、〝信念〟を、彼女自身誇りに思った。


(私がこの子を守ろう。そしていつかこの子が私を越えた時、私の培った全部をあげよう。この子が幸せになれるよう今から精一杯頑張ろう。それが私が出来る、この子への──クラウンへの愛情だ)


 そう決意した彼女の瞳には、今までの天真爛漫な輝きをそのままに、新たに強い想いが宿った。母親はそんなガーベラの様子に密かに打ち震えながら、心の底から幸せで一杯になる。


 するとガーベラは弟に向けていた視線を母親に向ける。母親は少し首を傾げると、ガーベラが口を開いた。


「今から剣の稽古をしてきます」


「今から?もうそろそろ夕方よ?それにもう剣の稽古は済んでいるのではなくて?」


「はい。しかし母上っ!!私なんだか居ても立っても居られないのですっ!!無性に身体を動かしたいのですっ!!そして少しでも強くなって、クラウンの自慢の姉になりたいのですっ!!」


 ガーベラの眼は真剣そのものだった。僅かにだが剣呑さまで混じっている。そんな彼女を後押ししてやりたい母親であったが──


「それは殊勝な心がけです。ですが、後数刻もしない内に夕食ですよ?確か今日のメニューは貴女の好物だったと記憶しているけど……」


「はいっ!!食べてから行いますっ!!」


「まったくこの子は……。いいから今日の所は大人しくしていなさい。そんな調子じゃこの子に笑われてしまいますよ?」


「──っ!? わ、分かりました。ただ明日からの稽古は倍にしますっ!!」


「はあ……。分かりました。剣術指南役のホータンに沙汰しておきましょう。ですから今日は大人しく。ね?」


 母親は呆れながらもガーベラに笑顔を見せる。弟の誕生で娘に強い信念が生まれた。それを感じ、母親は娘に誇りを感じた。


「奥様。そろそろ坊ちゃんの入浴の時間ですが……」


「寝かしておきましょうハンナ。今日は疲れたみたいだもの。それに私も、もう少しこの子の寝顔を眺めていたいわ」


「はい。畏まりました」


 母親、カーネリアはそう言ってクラウンの寝顔を堪能したのだった。

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