第4話。椿綺の友人
一度でも関わりを持てば、相手のことを意識するようになる。それが友人ともなれば、なおさら意識を向けないというのは難しいだろう。
しかし、私が高校に入って、初めて出来た友人との関係は実に歪だった。
「これもいじめ、か」
学校の敷地内にある池の上に教科書が浮いていた。
幸い、池には生き物が住んでおらず、黒い水に緑の藻が浮いている程度だ。メダカくらいは誰かが入れてそうだが、問題なのは教科書の方だ。
私は教科書に手を伸ばそうとした。
「やめてください」
振り返ると、来夏が立っていた。
「来夏の物だったか」
「
来夏が靴を脱ぎ、靴下を取る。脱いだ靴下は足元の靴に入れられた。裸足になった来夏は池の中に入って、手の届かない真ん中に浮いている教科書を取りに行った。
「不用心だな」
「教科書を教室の机に置きっぱなしにしたことですか?それなら勘違いですよ。昨日、鞄を持っていかれて、それから鞄と教科書は行方不明でした」
私は空を見上げた。
「来夏。あれ」
私が指さした先にある木に学生鞄が引っかかっていた。
「あれは流石に届かなさそうですね」
鞄を投げて飛ばしたのか。その際に鞄から教科書が落ちて池に散ったようだ。これを行った人間が後先考えずにやったことがわかる。
「そうだな……」
私の手助けを来夏は必要としていない。
しかし、あの鞄は一人では取れないだろう。
「風のひとつでも吹けば、鞄が落ちるか」
「現実的ではないですね」
「春に吹く風があっただろ。あれなら……」
突然、大きな風が吹いた。
それも木が大きく揺れる程の風だ。鞄の引っかかった木の枝が動き出し。その揺れによって、鞄が枝から外れ、そのまま下の池に向かって落ちる。
「来夏!」
私は手を伸ばしたが、それよりも先に来夏の頭に鞄が当たった。来夏がバランスを崩し、倒れそうになるが、既に私は踏み出していた。池の中に足を突っ込み、来夏の体を支えようとする。
だが、池の中は想像以上に滑りやすく。来夏の重みが体にかかった瞬間、私は来夏と共に水の中に落ちた。
「椿綺さん……」
「はぁ……」
私の上に来夏が乗っている。つまり、より濡れてしまったのは私の方だ。池は浅かったが、腰を底に着けると下半身のほとんどが浸かっていた。
服が濡れて、気持ちが悪い。それに手についたヌメヌメが余計に不快な気分を増幅させる。
「来夏。どいてくれ」
「ごめんなさい」
来夏が起き上がり、制服から水を滴らせていた。
予鈴の音が聞こえた、もうすぐ授業が始まる時間だとわかった。だとしたら、この場を目撃する人間はほとんどいないのだろう。
だから、来夏の差し出された手を私は気にすることもなく掴んだ。それで起き上がれば、来夏よりも大量の水が私の体から流れ落ちた。
「春になったとは言え、冷えるな」
私は制服を脱ぐことにした。制服を脱ぎ、シャツのボタンを外して、そのままシャツも脱ごうとした。
「ちょっと待ってください」
来夏に腕を掴まれ止められた。すぐに私は来夏の手を払ったが。
「なんだ?」
「こんなところで脱いだら駄目ですよ」
「裸になるわけじゃない」
「常識的に考えてください」
確かに、ここで脱いだら公共の場で露出をする趣味があると思われるか。仕方なく、シャツは着たまま絞ることにした。
このまま教室に行くのは難しいか。一度、保健室にでも寄って、何か服を借りに行くとしよう。
「そうか……」
池から抜け出した時、自分が靴を履いたままだったと気づいた。服はともかく、靴下まで借りられるものだろうか。
素足のまま上履きを履くのは抵抗があるが、仕方ない。一旦、濡れた靴と靴下は脱ぎ、裸足のまま私と来夏は保健室に向かうことにした。
来夏は私の少し後ろを歩いているが、落ち込んでいるようにも見える。だが、私から来夏にかける言葉は思いつかなかった。
「誰か居ないのか?」
保健室。扉を開けて中を確かめると、養護教諭が机と向かい合っていた。どうやら、今は手が離せないようで、ある程度の事情を話せば着替えとタオルの場所を教えられた。
「シャツとスカート……後は体操服があるくらいだな」
制服の上着はないようだ。夏場ならともかく、この季節に夏服のように着るのは難しいだろう。とりあえず、私は体操服のジャージを借りることにした。
「来夏の上着は濡れてないだろ?」
タオルで体を拭いている来夏に声をかけた。
「はい。なので、スカートを借りるつもりです」
二人が揃って体操服を身につけ、教室に行ったりすれば悪目立ちするだろう。ただ、その心配はしなくても済みそうだ。
「あの……椿綺さん」
お互いに着替え終わった後、来夏に声をかけられた。
「なんだ?」
「どうして、私を助けてくれたんですか?」
助けた理由か。確かに鞄が来夏に当たったところで問題はなかったかもしれない。しかし、それで転んで頭を打てば、死ぬ可能性はあった。
人が死ぬ瞬間なんて、私は見たくなかった。
「個人的な理由だ」
「そうですか……」
私は来夏を助けたくて助けたわけじゃない。
「靴下は、無いな」
もう一度確かめたが、靴下はなかった。
「靴下が必要なんですか?」
「裸足のまま靴を履くのは抵抗がある」
来夏は地面に置いていた靴から何かを取り出していた。それを私に差し出してきた。
「……たぶん、嫌だと思いますけど。一応」
「来夏の靴下か」
来夏は池に入る前に脱いでいたから、靴下は無事だったのか。それを貸し出すとは、先程の出来事を来夏なりに気にしているようだ。
「来夏はどうするつもりだ?」
「私はスリッパでも履きます。今のまま靴を履きたくはないですから」
軽く足を洗ってはみたが、まだ完全に綺麗なったとは言えないだろう。来夏が綺麗好きというのなら、いまだに納得がいかないのかもしれない。
「……やっぱり、嫌ですよね」
半分くらいは冗談で言ったのか、来夏が靴下を下げようとした。
「そういう趣味でもあるのか?」
「私にそんな趣味はありません」
「他人に自分の物を身につけさせることに特別な興奮を抱くような人間ではないのか」
「だから、違いますよ」
そっちの方が私としては納得出来そうだったが。
「ただ、椿綺さん。気難しそうですから……靴下が無いのが本当に嫌なのかと思っただけです」
「気難しい、か」
私は来夏から靴下を奪い取った。
「むしろ、来夏は嫌じゃないか?」
「私のせいで椿綺さんが濡れましたから」
手の中にある来夏の靴下。他の着衣に比べても靴下を身につけることに抵抗がある人間は多いだろう。私は自分の顔に近づけて、匂いを確かめた。
「臭いですか?」
「……洗剤の匂いがするな」
靴下は傍に置いて、近くの椅子に腰を下ろした。
「椿綺さん。一ついいですか?」
「どうした?」
「椿綺さんに履かせてみたいです」
やっぱり、来夏は少し変わっているのではないか。口にはしないが、来夏の印象が以前とは変わってしまった。
「勝手にしてくれ」
来夏が靴下を手にして、私の前にしゃがんだ。私の脚に触れ、足先から靴下を被せていく。ただ、来夏の履いていた靴下は長いもので、それなりに時間もかかる。
「ん……」
来夏の指先が私の脚に触れてくすぐったい。
もう片方を来夏が履かせようとした時、自由になった靴下を履いた脚で。私は来夏の体を撫でるように触れた。
「椿綺さん。寒いですか?」
「少しな」
「椿綺さんの足、とっても冷たいです」
二人の関係は今回の出来事で進展したわけではないのだろう。それでも、お互いに相手のことを受け入れられると判明した。
心の距離はほとんど無くても、現実の距離はずっと遠い。来夏が本当の意味で救いを必要としないのなら、誰も来夏を助けることは出来ないのだから。
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